第256話 前と、一緒
第1~10層まで。計10層の各所に撮影機を設置するのが次の仕事だと決まったファイ。とはいえ、彼女が大怪我明けの病み上がりであることには変わりない。
ということで、ファイが仕事に取り掛かるのは休み明け。監査以降、重要視されている睡眠をとってからということになった。
(むぅ……。これも、私が怪我したから……)
眠る前のお手洗いを済ませ、洗面台の鏡に映る自分の姿を見て少し眉尻を下げるファイ。彼女が金色の瞳で見つめるのは、自身の額と頬にある当て布だ。
どちらの傷も、ファイからすればほんの少しの擦り傷なのだ。放っておいてもすぐに治る。そんなファイの想いとは裏腹に、ルゥはこうして丁寧に処置してくれた。
おかげで自室に戻ったとき、ティオには「その顔の傷どうしたの、おねえちゃん!?」と大げさに心配させてしまった。
思い返してみると傷薬の存在を知ってから、ファイは一層、自身の怪我に頓着しなくなったように思う。裏を返せば、何かあっても傷薬があるから大丈夫だ、と。そう甘えてしまっていたのだ。
(けど、ニナ達は優しい、から。ちょっとの怪我でも心配されちゃう)
もはや自分の身体は自分だけのものではなくなってしまっていることに気づいたファイ。これからは自分の身体も大切にしなければならないのだと、改めて胸に刻むのだった。
と、そうして鏡を見ながら“自分”というものの大切さの認識を改めていたところ、
「――ファイ」
背後から、ファイの名前を呼ぶ声が聞こえた。とはいえ、ファイの正面には鏡がある。自分の背後に誰が居るのか、すぐに分かった。そのうえで、ファイはあえて振り返ってから彼女の名前を呼ぶ。
「ミーシャ」
ファイの背後で黒い尻尾を揺らしていたのは、進化をして身長が伸びたミーシャだった。
成長したことで侍女服が入らなくなったのだろう。今の彼女は飾り気のない上下の服に身を包んでいる。どちらも丈が短いこともあって、長くなったミーシャ手足もよく映えるというものだ。
そんな彼女に、ファイはどうやって声をかければいいのか分からない。
というのもミーシャとファイの最後の別れは、ミーシャが進化を遂げた直後のこと。ミーシャが涙しながら執務室を出て行ったきりとなる。
ルゥからの制止があったとはいえ、あの時に追いかけてあげられなかったこと。また、成長してから数日ぶりに会うミーシャが少し“知らない人”のようにも見えて、どう接するのが正解なのかを導けずにいた。
「えっと――」
「ファイ!」
ひとまず体調は大丈夫なのか。尋ねようとしたファイの機先を、ミーシャが制する。
少し目を見開きながらも口をつぐんだファイ。果たしてミーシャがどんな言葉を口にするのか、静かに見守ることにする。
「あの……。あのね……!」
尻尾と耳をピンと立て、身体の横ではぐっと拳を握って。必死に、懸命に言葉を絞り出そうとしているミーシャ。そんな彼女の姿を見た瞬間、ファイは直感的に「一緒だ」と思った。
確かにミーシャは背が伸びたし、声も身体も大人びた。
(でも、それだけ)
ミーシャの外見が少し変わっただけで、それ以外の部分は何も変わっていないのだ。
品のある毛並みも、感情をありのままに移す耳も尻尾も一緒。ツンと澄ましたような目元も、少し小ぶりな鼻も、色も肉も薄い唇も。
生い立ちのせいかなかなか思いを言葉にできないところも。それでも一生懸命、ファイに想いと言葉を伝えようとしてくれる、不器用さと誠実さがあるところも。
全部が全部、ファイの知る可愛らしいミーシャと一緒だ。
(そっか……。そう、だよね)
この瞬間、ファイの中にあったミーシャの像と、目の前に居るミーシャが重なる。それはファイにとって、ミーシャとの接し方を変える必要はないということでもある。
ならば、と、ファイはいつものように待つことにする。ミーシャが、自分の中にあるたくさんの気持ちと折り合いをつけ、勇気を出して想いを口にする。その時を、焦らずに待ってあげる。
(そうしたら、ミーシャは絶対、言ってくれるから)
これまでと何も変わらない。ミーシャのことをぽぅっと見つめながら、ファイがのんびりと舞ってあげること少し。
ついにミーシャが口を開いた。
「ご……ごめんなさい!」
ガバッと音が付きそうな勢いで、ファイに向けて頭を下げてきたミーシャ。だが、ファイは何に対する謝罪か分からずに首をかしげてしまう。
「えっと、ミーシャ。なにが、『ごめんね』?」
「……~~~っ!」
ファイが問い直すと、ミーシャが声にならない悲鳴を漏らしながら顔を上げた。と、彼女の顔に浮かんでいる朱色と目端に光る涙を見て、ファイは慌てる。
「あっ、ご、ごめ――」
「ファイは悪くないっ!」
いつになく大きな声でファイの謝罪を遮ったミーシャ。身体を硬直させるファイが瞬きと共に見つめる先で、ミーシャはたどたどしくも言葉を紡ぐ。
「ふぁ、ファイは悪くないわ! 悪いのは、すぐに謝れなかったアタシ……。だから、謝らないで。……分かった?」
そうキロリと緑色の瞳を向けられては、ファイも面食らったままコクコクと頷くことしかできない。
そこで「ふぅ」と小さく息を吐いたミーシャは、改めてファイと相対する。
「そ、の……。この前、ファイを押さえつけて、その……パッフしちゃった……でしょ? だから……ごめんなさい」
改めて何に対する謝罪なのかを口にした彼女は、馬尻尾にしてある金色の髪を揺らしてファイに頭を下げる。どうやらファイの意思を無視したパッフをしてしまったことを、ミーシャはずっと気に病んでいたようだ。
だが、ファイもミーシャが正気ではなかったことをよく知っている。恐らく初めての進化と発情期に混乱していたのだろうことも理解しているつもりだ。
顔を上げたミーシャに対して、フルフルと白髪を揺らして首を振る。
「大丈夫……だよ、ミーシャ。私は気にしてない、し。そもそも道具だから、ミーシャの好きなようにしてくれて良い」
「アタシの、好きなように……? 好きな、ように……」
うわごとのようにつぶやくミーシャの瞳から光が失われる。が、すぐに大きく首を振って顔を上げた彼女の瞳には、再び理性の光が戻っていた。
「しっかりするのよ、アタシ! ファイの先輩なんでしょ!?」
胸に手を当てて小声で自分に何やら言い聞かせたらしいミーシャは、ファイに真剣な眼差しを向けてくる。
「ファイ。今のアンタは万全……じゃないみたいだけど、少なくともアタシに力負けなんてしないわよね?」
「う、うん。多分、負けない、よ?」
「分かったわ。じゃあ次。目に見えない怪我……内臓とかの怪我はしてないわよね? 頭を打ったとか」
そんなミーシャの問いかけにも、ファイは首を振る。
「大丈夫。ルゥに見てもらった、から」
「ルゥ先輩に? それなら安心ね。じゃあ――にゃっ!」
言うや否や、ミーシャがファイめがけて突進してきた。
かつての彼女であれば身長的に、恐らくファイのお腹に突っ込んできていたのだろう。だが、成長した彼女はファイより少し背が低い程度だ。自然、彼女の顔はファイの肩辺りにある。
「わっ」
小さく驚きの声を漏らしたファイだが、それでも。第1進化を経ただけの魔物の動きを見切れないわけもない。
こちらに向かってくるミーシャの手には何もなく、なおかつ敵意が無いこと。むしろその表情にどういうわけか辛そうな表情が浮かんでいることさえも確認したうえで、ぽふっ、と。
ミーシャの突進を真正面から抱き止める。
身体能力が上がったのは確からしい。抱き着いてくる衝撃は進化前よりも大きく、突進そのものも重くなっている。
それでも、白髪であるファイが受け止められないことは無い。よろめくことさえも無い。進化前の、小さなミーシャの抱き着きを受け止めるのと、何ら変わりはなかった。
ただ一点、受け止めた後の体勢が違う。以前はすっぽりとファイの腕の中に収まっていたミーシャ。だが、成長した彼女の頭はファイのすぐ横、肩の上にあった。
そうしてお手洗いの洗面台を背に抱き合う、ファイとミーシャ。お互いに顔は見えず、体温と鼓動だけが重なっている。
これまでよりも頭が近いため、柑橘を思わせるミーシャの匂いがすぐそばにある髪の毛からふんわりと漂ってくる。
ファイも好きなその匂いを嗅ぎながら、いつもの“甘え”だろうか。そんなことを考えるファイ。
だが、もしそうだとすると抱き着く前に見せていたミーシャの険しい表情はそぐわないようにも思える。
(ミーシャ、何考えてる?)
腕の中に収まる獣人族の少女の内心を、ファイがどうにか推し量ろうとしていた時だ。
「……ほら、ファイ。今のアンタなら、アタシを引きはがせるわよ?」
挑発するような、ミーシャの声が聞こえてきた。
「う、うん。それがどうかした、の?」
ファイがそう聞き返してしまうのも、無理ないことだろう。なにせファイには、ミーシャを突き放す理由がないからだ。
だというのに、どうしてミーシャは先の言葉を言ったのだろうか。まるで引きはがしてほしいと言っているようにも思えるミーシャの言葉の裏を読もうとするファイを、ミーシャがぎゅっと抱きしめる。
「……っ! 欲情のままアンタを汚そうとした薄汚いガルン人が、こうして抱き着いてるのよ……! 今のファイにはアタシを突き放す理由だってあるし、力もあるじゃない! だからっ!」
「……『だから』?」
だから、なんなのか。聞き返したファイに、ミーシャは吐き捨てるようにして言った。
「アタシを、拒絶しなさいよ……!」




