第243話 難しいこと、いっぱい
およそひと月ぶりとなる使用不可期間を迎えたファイ。
だが今回は、ルゥとフーカによる周期管理があったからだろう。不調の始まりが来てもファイが危険な仕事をしていることは無かったし、無理をして体調を崩すということもなかった。
ただ、それは裏を返せば、ファイはここ最近、身体を動かすような仕事をしていなかったということになる。
当然、ニナはもちろん、他者に尽くすことを生きがいとしているファイにとっては苦痛な日々そのものだ。
まして、今回の勉強内容がファイの苦手な“算数”ともなれば――
「(むすっ)」
目の前に並ぶおはじきの数々を見て、難しい顔になってしまうのも無理はなかった。
最初は良かったのだ。透明でキラキラしており、模様や色が付いたものもある。その1つ1つに興味を持って、ファイも楽しく算数の勉強ができていた。
1日目で、もともとできていた1桁の足し算、引き算。さらにそこから、簡単な2桁の加減計算もできるようになった。
そこからさらに2日目を迎え、3桁、4桁の足し引きもできるようになった。「なんだ、簡単だ」と、ファイがそう思ってしまったのが、良くなかったのかもしれない。
3日目。かけ算を習うことになったのだが、まずここでファイは躓いた。
小さい数は指折り、あるいは足し算の応用でどうにか対処する。しかし、数が増えるにつれ足し算を応用する方法が通用しなくなった。
それでもファイはニナの役に立つために、懸命に食らいついた。
先生であるフーカの教えのもと、掛け算の性質と計算方法を2日かけてどうにか習得し、1桁と2桁の掛け算ていどならできるようになった。決して器用ではないファイとしてはむしろ頑張った方だと、みんなが褒めてくれた。
同じころに使用不可期間が始まったが、人間族であるニナが服用しているという薬で症状を緩和。褒めてもらえた勢いのまま小数点を学び、それらの計算方法も学んだ7日目の今日。
割り算を学ぶ段階でついに、ファイは力尽きた。
「ふぁ、ファイさん……? その、大丈夫ですかぁ?」
「ううん、全然大丈夫じゃない。なんで3つのおはじきが2つで割れるのか、意味が分からない。あと『あまり1』は、なに」
「あぅ……。ファイさんがご機嫌斜めですぅ……」
「フーカ。私に機嫌はない。そんなことより『あまり1』はなに」
自身が難しい顔をしていることにも気づかないまま、ファイは突然しゃしゃり出てきた謎の「あまり1」という数字について問い詰める。
整数同士の割り算は良かったのだ。
「6÷2」は「6つのおはじきを2つの箱に分けたときに1つの箱に入っているおはじきの数」。
「9÷3」は「9人の探索者を3つの小さな組に分けたときの、1つの組に居る人の数」。
目の前にあるおはじきを使いながら。あるいはファイにとって具体的に想像しやすい単語を用いながら、フーカは懸命に算数を教えてくれた。
問題は、記号と数字しかなかった計算式の中に突然「あまり」というウルン語が出てきたことだ。
「あ、あまりは、ですねぇ。計算しきれない数字のことを言うんですぅ。例えばこの問題にある『4÷3』という計算式だと……」
ファイの目の前で4つのおはじきと、箱の絵が描かれた紙を提示するフーカ。
「こ、この、3つのおはじきが入る箱に4つのおはじきを入れようとすると……」
「ん、1つだけ1個しか入れない箱がある。でも箱は2つ。なのに答えは『1あまり1』。『2』はどこに行った、の?」
もともと、好奇心が強いファイだ。ただ計算式を知るだけではなく、どうしてそうなるのか。理由までをも求めてしまう性格をしていた。
「で、では考え方を変えましょう。そうですねぇ……薄丸麦餅焼き! 真ん丸で平べったい、あの麦餅にしましょう!」
言って、フーカは紙に円を描く。
「こ、これをまず4つに切りますぅ。これが『4÷3』の『4』ですねぇ」
言いながら、円を4つに分けたフーカ。
「じゃあこれを私、アミス様、ファイさんの3人で分けますぅ」
「あ、私は小さいのでいい、よ? フーカたちがたくさん食べて――」
「そういうの、今はいらないですぅ」
「あ、うん……」
いつになくぴしゃりといわれて、ファイはむっつりと黙り込む。
「み、みんなで同じ数を仲良く食べますぅ。そうなると、ファイさんは何枚食べられますかぁ?」
「……? みんなで同じ数? えっと、これがフーカで、これがアミス。これが私……」
紙の上の薄丸麦餅焼きをそれぞれに取り分けていくファイ。すると、自分の取り分は1枚になる。
「私が食べられるのは、1枚。けど、1枚余ってる……あっ」
ここでようやく、ファイの頭の中で2つの『1』が生まれる。
「じゃ、じゃあ同じように『5÷2』を考えてみましょう。5枚に切り分けて、これをファイさんとフーカとで仲良く、同じ数を食べましょう」
「フーカと同じ数……。私とフーカが食べられるのは2枚ずつ。で、1枚余る……」
この余った分はフーカにあげるファイだが、今回求められているのは計算の答えだ。
「私とフーカ……みんなが食べる数が2枚だから答えは2。で、余ってる薄丸麦餅焼きが1枚だから、あまり1?」
「はい、正解ですぅ!」
ようやく理解してくれたかというように、羽から燐光を散らすフーカ。だが、またしてもファイは彼女に待ったをかける。
「でも、待ってほしい、フーカ。例えばこの4枚に分けた薄丸麦餅焼き。このエナリアに居るみんなだと割り切れない、よ?」
1つ前の問題で切り分けられた薄丸麦餅焼きを示したファイは、5人以上で分けた場合は誰も食べられない事態に陥ることに気づく。
「そ、そうですねぇ。じゃあこの食卓に、ルゥさんとロゥナさんがやって来たとしますぅ。でも、机の上には4枚に切られた麦餅焼きしか、ありませんねぇ?」
「うん。フーカが切らないと、誰も食べられない。食べられるのは0枚で、4枚余る」
「はい、正解ですぅ」
「……え?」
まさか正解するとは思わず目を瞬かせる。そんなファイに、改めてフーカは説明する。
「『4÷5』。つまり4枚に切り分けた薄丸麦餅焼きを5人で分けようとすると、誰も食べられません。な、なので、『4÷5』の答えは『0あまり4』になりますぅ。自分で気づくなんて、ファイさんはすごいですぅ!」
つい先ほどまで割り算に苦戦していた手前、手放しに褒められてしまうとファイとしては何とも面はゆい。思えばこの勉強に限らず、フーカはことあるごとにファイを褒めてくれる。
いや、彼女だけではない。これまでファイに勉強を教えてくれたニナも、ルゥも、リーゼも。たくさんファイを褒めてくれる。そのたびに浮かれそうになる弱い自分を、ファイは懸命に隠し続ける。
「そ、そんなことない。私は道具。“褒める”は必要ない。そんなことより次。この『4÷2』は割り切れるから答えは『2』。『7÷2』は、えっと……3枚食べて余りが1枚だから『3あまり1』。……あ、合ってる?」
「だ、大正解ですぅ! ファイさんは呑み込みが早いですね、すごいですぅ!」
「~~~~~~~っ!」
またしても褒められてしまっては、ファイの耳もつい赤くなってしまうというものだ。
「で、ではこの調子で、分数にも挑戦しましょう!」
「ぶんすう? なに、それ?」
ここから始まった分数の勉強で、またしてもファイの目から光が失われることになった。
「た、ただいま……」
図書館でのフーカとの勉強を終えて自室に戻ったファイ。彼女を迎えたのは、
「ちょっ、アンタは今日は布団でしょっ!? さっさと寝台から降りなさい!」
そう言って尻尾と耳をピンと立てるミーシャと、
「残念だけどティオ、ミーシャちゃんが何言ってるか分かりません~♪ だから、たとえここから降りろって言われてるんだとしても、分からないから仕方ないよね~! は~、お姉ちゃんの匂い~♪」
ファイの寝台の上で、ファイが普段使っている枕を抱いているティオの姿がある。
彼女たちが顔を合わせて、はや2週間ほど。相変わらず相性は良くないらしい。
また、自身の欲望にあけすけなティオと違って、ミーシャはあまり自分の欲望を表に出せない性格をしている。おかげで、
「お仕事もあるし、アタシがファイと一緒に居られる時間はコイツより少ないのに……っ!」
こうしてミーシャが悔しげに奥歯をかんで泣き寝入りするしかない姿がここ数日、たびたび見られるのだった。
こういう時、世の“お姉ちゃん”はどうするのか。実はファイは使用不可期間に入る前に、このエナリアに2人居るお姉ちゃんに聞いてきている。
甘やかし方については、ムアの姉であるユアから。そして、一般的な姉の在り方については、ルゥの姉であるサラから。それぞれ事情聴取をしていた。
言葉を発せないサラだが、このエナリアには目を見るだけで思考を読み取ることができるユアが居る。申し訳ないと思いながらも“上位者”としての権限を用いてユアをサラのもとへ連行。3人で“お姉ちゃん会議”をしたのだった。
(あの時、サラ、言ってた。甘やかす、が、お姉ちゃんじゃない。妹を守って育てる、が、お姉ちゃん)
つまり、ティオを守ってわがままを聞くだけがお姉ちゃんではないらしい。いけないことはいけないのだ、と、きちんと言って“分からせる”のが姉。そう、ユアとサラは言っていた。その姉としての思考にガルン人特有の思考が混じっていることなど、ファイが知るはずもない。
「……ティオ。約束は守らないと、でしょ? 今日は、ミーシャと寝る番」
「ファイ……!」
雰囲気で、ファイがティオを叱っているのだと察したらしいミーシャが、ファイに抱き着いてくる。
そんなミーシャの頭を撫でるファイと、「ゴロゴロ」と喉を鳴らすミーシャ。2人の姿を白けた顔で見ていたティオだったが、
「ま、いっか。お姉ちゃんに嫌われちゃう方が損だしね~」
素直に寝台を下りて、床に敷かれた布団――ティオが寝泊まりするためにニナが用意してくれたもの――に身を横たえる。
「ファイ。アタシ、アイツ嫌い……! どうにかならないの……?」
腕の中。ミーシャの言葉に、ファイは思わず眉尻を下げてしまう。
2人の間にはまだ言葉の壁がある。また、両者ともに歩み寄りを見せようとしないため、一向に溝はふさがらない。むしろ、日を追うごとに悪化しているような気さえもする。
(計算、も。みんな仲良く、も。難しい……)
難しい算数と人間関係の問題に頭を悩ませるファイはそのまま、ミーシャと共に寝台へと倒れ込む。まさかこの後、ミーシャの身に、待ちに待っていた瞬間が訪れるとはつゆほども思わないで。




