第216話 まずは、逃げる
フォルンが少しずつ水平線にの向こうに傾き始める、夕暮れのこと。
「(ひょこ)」
寝室の扉から顔だけを出し、肩にかからないくらいの長さをしたサラサラの白髪を揺らす少女――ファイが居る。彼女は金色の瞳を何度か瞬かせると、周囲を見回した。と、そんな彼女の顔の下からもう1つ。
「(ひょこっ!)」
ぱっちりとした目と、見るからにふわふわの髪質の長い髪をした白髪が特徴的な童女――ティオが顔を出す。
彼女もファイと同じように廊下を見渡した後、頭上に居るファイと頷き合う。そして、2人同時に寝室の中に顔をひっこめた。
「人、いないね」
「だからティオ、言ったじゃん~。この時間は大丈夫だって。それに聖なる白の人たちも、まさかお姉ちゃんがこんなに早く起きるなって思ってなかっただろうし」
白髪に夕日の色を映しながら、2人の白髪が話し合う。そのうち背の高い方の白髪、ファイはティオの手を引いて、一面ケリア鉱石張りになっている窓へと歩き出した。
こうしてファイが自由に行動できているように、もう彼女の手足に枷はない。ティオが金属を操る魔法〈ギギア〉を使って、枷を解いてくれたのだ。
変形させることができる金属の種類や厚みは人それぞれだが、ティオは白髪だ。ファイ同様、彼女が使う魔法もまた、その魔法の“最大値”を示す。
ウルン屈指の硬度を誇る黒鉄でさえ、ティオにかかれば指先1つで粘土のように形を変えた。
『お姉ちゃんが一緒に居てくれるなら、こんなの、要らない! だってティオとお姉ちゃんは、姉妹っていう絆で結ばれてるもん! めっちゃ感動なんだけど!?』
ファイが「お姉ちゃんになる宣言」をしたことで、無事、ティオが解放してくれたのだった。
こうなると、ファイがやるべきことは3つだ。
1つ目はもちろん、ニナから与えられた仕事を完遂すること。2つ目はアミスとの約束を果たすために役所に行くこと。
そして3つ目が、ティオを聖なる白のもとから逃がすことだ。
彼女は、嫌々ながら生きていくために仕方なく聖なる白と共に居るのだと言っていた。そしてファイは、ティオのお姉ちゃんになってしまった。
サラとルゥ。ユアとムアを見ていれば分かるが、姉妹は支え合うものだというのがファイの認識だ。
(つまり私は、ティオを助けないといけない)
さしあたってティオにとっては居心地が悪いらしいこの場所から、彼女を連れ出すことに決めたのだった。
手を引くファイと、繋がった手を見ながら恍惚とした表情をしているティオ。2人の身長差は15㎝ほど。ティオは、ユア・ムア姉妹よりほんの少し背が高いくらいだった。
さすがにごてごてと着飾った服では動き回れないため、ファイは元の服に着替えている。ティオは残念そうにしていたが、2人で逃げるためだと説明すると――
『逃避行とか……めちゃ熱っ♡』
などと言いながら、嬉々として了承してくれたのだった。
話は戻って、ファイが聖なる白の想定よりもはるかに早く目覚めたことについてだ。その理由について、実はファイには1つ、心当たりがあった。
「多分、だけど。あのお薬、黒狼で使われたことある」
「えっ、ほんと!?」
大切なお金がたんまりと入った背嚢を背負いながら言うファイに、うっとりとしていた表情から一転。ティオの顔が驚愕に染まる。
ニナ達のもとを離れて黒狼に戻ったファイ。あの時、組長エグバから様々な麻薬を投与された。
その中の1つと今回使われた謎の薬の毒性――原材料と効能――に共通点があったのではないか。ゆえに自分は耐性を獲得しており、聖なる白教徒の想定よりも早く目覚めることができたのではないか、と、ファイは予想している。
(組長。こういうことも想定して、私を鍛えてくれてた……?)
良くも悪くも悪意に鈍感なファイだ。いや、エグバたち黒狼によって、悪意に鈍感になるように“作られた”というべきだろうか。
まさかエグバがファイを薬漬けにして記憶を混濁させようとしていたとは、つゆほども思わない。むしろあらゆる物事を肯定的に捉え、エグバに感謝することになるよう作られている。
薬漬けの日々でさえ、今こうして振り返ってみるとファイにとっては意味のあるもので、ありがたいことだった。
ただし、それは世間一般からズレたファイの意見だろう。一般人としての感覚については、
「黒狼のクズたち、マジ許せないんだけどっ!」
吐き捨てるように言ったティオの反応の方が正しいのかもしれない。それでも、ファイはファイだ。
「ティオ。私は問題ない、よ? だから組長に怒る、は、ダメ」
「えっ!? あっ、うん……。お姉ちゃんが良いなら、ティオも良いんだけど……。でもそっか。聖なる白の人たち、どこから毒貰ったんだろーって不思議だったけど、殺した黒狼の人たちから盗ってたんだ」
ティオがファイを探すためにフィリスの町に来て、教徒たちに黒狼の残党狩りを依頼した。その過程で白髪にも効く“薬”を手に入れたため、教徒たちは昏睡させるという手段でファイを捕獲した。
それが結果として、ファイとティオを救った形になったのかもしれなかった。
「じゃあ開ける、ね」
「うん!」
ティオの返事を聞いてから、ファイは露台へと続く扉を開ける。一瞬、鍵の抵抗のようなものがあった気がするが、何かが壊れる音と共に無事に扉は開いたのだった。
そして顔を上げたファイが見たのは、ゆるい曲線を描く水平線と、そこに消えていこうとしているフォルンだ。どうやらこの家は少し高い場所にあるらしく、海と港を一望することができる。
(これがフーカが言ってた「日没」、「夕暮れ」、「夕日」……)
また1つ。言葉だけでしか知らなかった現象を、目に焼き付けるファイ。と、彼女の隣に歩いてきたティオがファイの前に躍り出て、夕日を背にして笑う。
「……景色、最っ高でしょ!? ティオのお気に入りなんだ!」
真っ白な服を着て屈託なく笑うティオと、赤く染まっていくフォルン。その景色に金色の瞳を輝かせたファイは、つい、目じりを下げてしまいながら頷く。
「うん。すごく、きれい……」
「にししっ! でっしょー!」
嬉しそうに言ったティオはファイの隣に戻ってくると、ぴったりとファイの腕に肩を寄せてくるのだった。
ファイとティオ。じめっとした風に髪質の異なる白髪を揺らしながら、沈みゆく夕日を眺める。ファイとしてはこのままもう少し、それこそ日が沈んで夜になるまで見届けたいところだ。
しかし、あまり悠長にもしていられない。いつ、聖なる白の人が様子を見に来るかわからないからだ。また、
「お姉ちゃん、どこに連れてってくれるの!?」
ファイにしがみついて紫色の瞳をキラキラ輝かせているティオに促されては、行動を起こすしかない。
念のため、風の魔法で周囲の人の気配を探ってみるファイ。すると、玄関に立つ誰かと、真下の階――今にあたる部分に複数名の人が居ることが分かった。
しかし、ファイ達の動きに気づいている様子はない。
てっきりもう少し厳しい――それこそ黒狼にいた頃のような――監視下に居るのだとばかり思っていたファイとしては、拍子抜けだ。
あるいは、ファイの目覚めと、これまで従順だったティオが逃げるなど微塵も思っていなかったのか。いずれにしても、余裕で脱走できそうだった。
「ひとまず、役所に行く。そのあと、お店……魔道具のお店に行く、ね?」
「了解! けど、お姉ちゃん。お役所の方は分かんないけど、早くしないとお店、閉まっちゃうかも……」
「……? あっ、そっか」
ティオに言われて、ファイは店に閉店・開店時間があったことを思い出す。
フィリスの町では基本的に、服や物を売っているお店が黒の黄の時刻(16時~18時)。野菜や果物、魚などの食品を取り扱っているお店は遅くても黒の青の時刻(20時)に閉まってしまうことが多い。
今の正確な時刻こそ分からないが、これまでの傾向からしてフォルンが赤くなるのが黒の黄から青に変わるころだったとファイは記憶している。
「ごめん、ティオ。でも、急ごう」
「うん、お姉ちゃん! はぁー……♡ お姉ちゃんとの逃避行とか、夢みたい! しゃいこうしゅぎぃなんだけどぉ~♡」
身もだえるティオに一度だけ首を傾げたファイは彼女に構わず、とんっ、と露台の柵を蹴る。それに続いてティオも、迷いのない足取りで聖なる白が用意した家を飛び出す。
部屋に残されたのは、本来は解かれるはずのない最高硬度の枷と、寂しさを埋めるために集めたのだろう無数の人形たちだった。
ひとまず路地に降りて、海とは反対側――町の中心地に向けて走るファイ。隣にティオが並んだことを確認して、少しずつ、速度を速めていく。そしてティオがわずかに遅れるようになった速度の2段階ほど遅い速度で、走る。
ただ、ここでファイにとって予想外のことがあった。それは、
「はぁ、はぁ……」
思っていた以上にティオの体力が少ないことだ。まだ全力疾走をして数分なのだが、もうすでに息が上がってしまっている。
また、走る速度も思っていた以上に速くない。年齢的な話もあるだろうが、恐らくアミスが走る速度の方が早いだろう。
(ひょっとして……)
いくつかの可能性を脳内に浮かべるファイはひとまず、
「ごめんティオ。もう少し急ぐから」
「えっ、お姉ちゃ……きゃっ」
走っているティオを肩に担ぎ上げる。ミーシャのように横抱きにするには、ティオは少し大きいからだ。ファイの顔の横にティオのお尻が、背中側に頭がある状態で再び走り始めるファイ。
「あっ、お姉ちゃんの顔がすぐそこに……ってそうじゃなくて! お姉ちゃん!? ティオ、さすがにこの格好は恥ずかしいんだけどっ!?」
「ニナのためだから。ちょっとごめんね」
「えっ、ニナ……? だれ……?」
小さくつぶやかれたティオの困惑の声は、ファイに届かない。それ以降、なぜか黙ってしまったティオに内心で首を傾げつつも、暮れていくフィリスの町を疾走するファイ。
ただ、案の定というべきだろう。努力もむなしく、ファイが町について役所の場所を適当な通行人に訪ねてみたところ、
「役所? ……ああ、役場か。それならもうとっくに閉まってるよ」
「そん、な……」
無情な答えが返って来たのだった。




