第206話 良い、な……
お風呂場におけるミーシャとユアのごくごく一時的な休戦から、少し。お風呂から上がったファイ達は、脱衣所で身体を拭いていた。
「わふぅ~……♪」
肌着姿のファイの腕の中で、気持ちよさそうな吐息を漏らすユア。特に耳の裏を拭くときに見せる身をよじるしぐさや尻尾の振れ幅は、双子の妹であるムアとそっくりだ。
ただし、少し強めに拭かれることを好むムアに対し、ユアは優しく、丁寧に拭かれることを好んでいるように思える。
事実、ファイが過去にムアと行動を共にした際のこと。ムアは姉のユアについて“触られることに対して敏感である”というような話をしていた。
ゆえにファイはいつになく繊細な手つきで、鮮やかな桃色の髪を拭いてあげていた。
他方、ファイ達と少し離れた長椅子に座り、肌着姿で髪を乾かしているのはミーシャとルゥだ。
当初、濡れた髪を適当に拭いて服を着ようとしたユアを「風邪ひくよ」と止めたのはほかでもない、ルゥだ。
ただ、彼女が髪を拭こうとしたところ、ユアが全力で嫌がった。結果として、ファイがこうしてユアの髪を拭いてあげることになっていた。
ファイもよく知っている通り、ルゥとエシュラム家の姉妹は非常に仲が悪い。自然、この4人で落ち着いた組み合わせを探した場合、ファイがユアを、ルゥがミーシャを担当する形になっていた。
「ちょっ、ルゥ先輩……! 髪を梳くくらい、もうアタシ1人でもできます!」
「まぁまぁ、そう言わずに。……相変わらず、すごいくせ毛だね~。寝起きとか大変でしょ?」
波打つような癖がついているミーシャ髪を手ですくっているルゥ。彼女の言葉にミーシャは「そんなことないです!」と言っているが、ファイはよく知っている。寝起きの彼女の髪が、よく大爆発していることを。
「それに、ほら……こしょこしょ」
ルゥがミーシャの耳元で何かを囁く。すると、ミーシャが「んにゃっ!?」と、黒毛の耳と尻尾をピンと立ててハッとした表情を見せた。続いて彼女の緑色の瞳はなぜかファイへと向けられる。
少し怒ったように眉を逆立てているミーシャ。顔にはどういうわけか、赤色がにじんでいる。
「そ、それは……ルゥ先輩の言う通り、かもしれません」
「でしょ~? いつだって、一番かわいい自分を見せたいもんね! だからここは偉大な子のルゥ先輩の結い上げ技術にお任せっ、だよ!」
まさに先輩後輩といったやり取りをするルゥ達の姿を、つぶさに観察するファイ。ミーシャともルゥとも仲が良いつもりのファイだが、どうしてだろうか。2人が仲良くしていると、少しだけ胸の辺りがざわつく。
――混ぜてほしい。混ざりたい。
これまでの人生で感じたことのない不思議な感覚に、ファイはしばし戸惑う。と、そんなファイの肌着の裾が引っ張られた。見れば、ユアが不満と不安をにじませてファイを「くぅん」と見上げている。
「ふぁ、ファイちゃん様……。今はユアの番、ですよ……?」
「あっ、うん。ごめん、ね?」
早く乾かせと言いたのだろう。そう解釈したファイは、改めてユアの髪を拭いていく。根元から先端へ。優しく、揉むように。
聞けばユアは普段、実験場の片隅にある池で水浴びをしているらしい。姉妹合わせて、お風呂でも廊下でも見かけないわけだとファイも納得だ。
しかも、研究以外のことはかなりずぼらなユアだ。
一応ムアとは違い、洗剤を使って髪も身体もきちんと洗うようだ。が、それは“しばらく”に一度。ウルンで言うと数日に1回と言ったところだろうか。
ファイやニナは欠かすことがない保湿剤を髪に使うことも、腰まで届く桃色の髪を完全に乾かすこともまずないのだという。
それでも、ファイの指を流れていく桃色の髪に枝毛などは見当たらない。ユアから“野生の臭い”を発していたことは無く、むしろ甘い果物のような、良い匂いさえしている。
(良い、な……)
そんな嫉妬の言葉は、ファイが意図せず漏らした心の声だ。ファイはこのとき確かに、ずぼらな生活をしていても可愛く、臭くないユアを、うらやましいと思っていた。
世界を知り、他人を知ることで、“自分”というものの輪郭がはっきりとし始めているファイ。明暗・白黒だけだった世界に色がつくように、ファイは自分の色――何を好み、何を嫌い、何を考え、何を知らないのか――を知ることができるようになってきた。
そうして自他の境界線がハッキリし始め、自分と他人を比較するようになった証こそが嫉妬だろう。
自分になくて、他人にはある。自分には無理で、他人にはできる。
もともとファイにとってはただの“事実”でしかなかった情報に、ファイは自身の感情を乗せられるようになりつつある。
肉体的なものだけでなく、精神的にも変化し、人間として成長している。
そんな自分にハタと気づいたとき――ファイは、怖くなった。
人として成長しているということは、同時に、道具としての在り方から遠ざかっているということでもあるからだ。
“自分”がハッキリしてしまったことで、ファイの旺盛な好奇心はより強く、ハッキリと世界に向けられるようになっている。だからこそここ最近の彼女は自ら進んでアレコレと質問をし、時には自主的に行動してきた。
ひょっとすると、「ニナと一緒に居たい」以外の「~したい」と口にしていたことすらも、あるかもしれない。
だが、果たしてそれらの行動はニナの道具として、考える道具としての範疇を超えてはいなかっただろうか。
ただの、無知で、醜く、汚く、弱い。人としてのファイ・タキーシャ・アグネストが表面に出てきてしまっているだけなのではないだろうか。
何かを得ているつもりで、実は何もない、ただの人間としての自分に戻ろうとしてしまっているのではないだろうか。
迷いと不安に揺れるファイの瞳は、気づけば、こちらを見上げる桃色と水色をした鮮やかな瞳を捉えていた。
「……ぁ」
ファイの喉から小さく息が漏れる。
いま自分は、ユアと目を合わせている。つまりファイの内心――弱い部分――はすべて、ユアに見透かされてしまっていたのだ。
守るべき相手に、弱みを見せてしまった。守られるべき対象が「大丈夫なのか?」と不安になってしまうだろう事柄を、図らずも、ファイは明かしてしまったのだ。
森で何気なくユアが言ってくれた、「ユアを守ってください」という言葉が、ファイの耳の奥で反響する。
守ってくれることを信じて疑わないその言葉に、秘かに救われていたファイ。ユアはファイを“自分を守る確かな存在”として認めてくれているのだと、そう安心していた。
だが、ファイは今、ユアに弱みをさらしてしまった。弱くて醜い“人間”であることを、示してしまった。
きっともうユアは、ファイを頼ってくれることは無い――
「ふぁ、ファイちゃん様! 早く拭いてください!」
聞こえてきたユアの声に、ファイは我を取り戻す。相変わらず彼女の瞳はファイとばっちり合っており、考え事などは筒抜けなのだろう。
今こうしてあっけにとられていることも、わずかに頬を膨らませて不機嫌そうにしているユアの態度に混乱していることも。ユアは全てお見通しのはずで――
「は、や、く! 可愛いユアが風邪をひいたらどう責任を取ってくれるんですか!」
「えっ……? あっ、うん。ごめん、なさい……?」
ファイが謝ると、「ふんっ」と鼻を鳴らしたユア。
「わ、分かればいいんです……」
そう言うと興味を失ったようにファイから目をそらして正面を向く。ただ、どういうわけか、ファイのあごの下あたりにあるユアのモフモフの尻尾はご機嫌に揺れている。
明らかに“拭かれ待ち”のユアの姿に、戸惑うことしかできない。そんなファイの内情を、目を合わせていないユアが知るはずもないのだが、
「こ、この後も耕地作業があるんです……よ? 4層には絶対にムアは来られないので、ファイちゃん様だけがユアを守れるんです……。だから……しゃ、シャキッとしてください……!」
通話用のピュレを通さないありのままの言葉で、ユアはファイに言う。
その瞬間、ファイの瞳で揺れていた迷いと不安がきれいさっぱり消え去る。ユアの言葉は、ファイが“自分が何たるか”を思い出すのに十分な言葉だったからだ。
「――ユア。私は道具だから。迷わないし、不安になる、も、ない」
ユアはまだファイの有用性を認め、守らせてやるとそう言ってくれている。その事実だけでファイは十分だ。
そうして道具としての顔に戻ることができたファイの耳に、クスクスと小ばかにしたようなゆあの笑い声が聞こえてきた。
「ふぁ、ファイちゃん様……。ユア、別にファイちゃん様が迷ってる、とか。不安になってるとかは言ってません」
「…………。……あ」
自ら、迷っていたことや不安になっていたこと――人間であることを暴露してしまったことに気づいたファイ。一瞬にして彼女の顔が羞恥に染まる。
「こ、これは、これは違う……よ? そう、ただ単に“迷わない”、“不安にならない”って、ユアに言いたかっただけ」
「ふっ、ふふっ! ファイちゃん様、焦ってます……っ! 言い訳、ほんと、なっさけない……です♪」
「なっ!? むぅぅぅ……!」
小ばかにしたようなユアの物言いに、つい熱くなってしまうファイ。だが、それもまた道具らしからぬ行動であることに気づいて、懸命に能面を作る。
「……た、確かに。言い訳、は、良くない……。ユアの言う通り。だから……ね?」
言うと、ファイはあえてユアに後ろから抱き着く。こうすれば、まだ朱が残っている顔が見られることは無いからだ。
一方、まさかファイが抱き着いてくるとは思わなかったのだろう。「わ、わふっ!?」と戸惑うような声を漏らしたユア。そんな彼女の耳元で、ファイは改めて誓う。
「ユアは私が守る、ね?」
ユアの愛らしくも敏感な耳を傷めることがないよう、囁くように吐息を込めて言ったファイ。
すると、「きゃいん」と鳴いてブルリと身体を震わせたユア。「あっ、うれ小水しそうです」と焦ったように言うと、ファイの抱擁から抜け出す。そして、顔を赤らめながらファイを睨みつけると、
「ゆ、ユアは……ユアはそんな軽い女じゃないんですから~~~!」
叫びながら、脱衣所にあるお手洗いに駆けこんでいってしまうのだった。
※【「培養室」と「菜園」の階層について】
いつもご覧いただいてありがとうございます。この章で菜園と培養室(※『●魔獣のお世話と、仲直り?』の章でファイとミーシャが仲直りした森)を一部「同じ階層」として表記しておりましたが、正しくは、
・「培養室」……第7層“大樹林の階層”の裏(※エナが多い場所で生物の多様性を保証するため)
・「菜園」……第4層“草原の階層”の裏(※植物系の魔物が強くなりすぎないように)
となります。混乱させてしまい申し訳ございませんでした。この章も残すは1話となります。ファイと小さな獣人族2の姿、楽しんでいただけたのなら幸いです。




