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ほの暗い穴の底から“幸せ”をっ! 〜仲間に捨てられた薄幸少女剣士、異世界の少女とダンジョン経営を通して本当の“幸せ”を探す〜  作者: misaka
●野菜を、育てよう

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第205話 これが、“尊さ”




「えぐ……っ、ぐす……。ごめんなさい、ファイ~……!」


 螺旋階段から飛び降りるファイの背中で、ミーシャが泣いている。他方、ファイに横抱きにされて鼻をつまんでいるのはユアだ。


「ユアがムア以外にパッフするわけないじゃないですか……。そんな軽い女じゃない……はずです」


 不服そうに言って、ファイの服の袖をぎゅっとつかむ。


「ミーシャ、ユア。地面につく、から。口閉じて……。〈フュール・エステマ〉」


 風の魔法でいつものように着地の衝撃を和らげるファイだが、今回は自分を含めて3人分の重さがある。普段よりもずっと早くに魔法を使用し、可能な限り足への負担を小さくする。


 そうしてどうにか地面に降り立てば、再び全力で廊下を駆け、階段を飛び降りる。その繰り返しだ。


 ファイ達がいま全速力で目指しているのは、お風呂だ。ユアに続いてミーシャまでも粗相をしてしまったからだ。今もファイの背中で泣いているミーシャが謝罪しているのには、そんな事情があった。


「泣かないで、ミーシャ。私は気にしない、から」


 他者の涙にはめっぽう弱いファイ。早くミーシャには泣き止んでほしいのだが、


「そうかもしれないけど、そうじゃなくて……。アタシも勝手にパッフして、ごめんなさい~!」


 このような調子で、ミーシャは全然泣き止んでくれなかった。


 パッフ。獣人族特有の習わしで、自身が所有物と認めた物や縄張りに匂いを付けることを指す言葉なのだという。


 基本的に体などをこすりつけて所有権を主張するようなのだが、より気に入ったもの、絶対に譲れないものには、匂いのきついもの――小水をかけるのだという。


 ファイは、何らかの形でユアの小水が服や体についてしまったらしい。


 それをミーシャが「パッフされた」――つまりはファイがユアの所有物になったのだと勘違いした。


 お気に入りだったファイを取られてしまったことの衝撃。また、取られたくないという気持ちが、ミーシャの未熟な精神で爆発した。結果、つい“お漏らしパッフ”をしてしまったのではないかというのが、ユアの見解だった。


 ユアも第7層で粗相をしており、ファイもミーシャの粗相の巻き添えを食った。加えて、雑草の処理という面倒な作業もファイが一瞬で片を付けてしまった。


 区切りもよく、さすがにこの状態で耕地作業をするわけにもいかない、と、お風呂を目指しているのだった。


 途中、第10層にあるミーシャの私室と、第11層にあるユアの私室に寄って着替えを取ってから最下層へと降り立ったファイ。


 ミーシャとユアには先にお風呂に入ってもらって、自身も自室に着替えを取りに行く。


 途中、部屋の配置の関係で通りかかったのはニナの執務室の前だ。


 どうせなら、ニナの笑顔を見るついでに状況の報告でもしようか。そう思って執務室の扉を叩こうとしたファイだが、


「…………」


 仕事の前。寝ぼけたニナとしてしまった接吻の感触がなぜか今、唇によみがえる。


 あの時、ファイは「もっと」と、そう思ってしまった。道具であるはずなのにニナの唇の感触を求めて、彼女に触れようとしてしまった。


 幸いにも直前でニナが目覚めてくれたおかげで、ファイはどうにか道具としての振る舞いを取り戻すことができた。


 だが、もし今ニナに会ってしまうと、弱い自分をさらけ出すことになってしまう気がするファイ。ニナの唇の柔らかさと温もり、接吻後の得も言われぬ高揚感と幸福感。それら全てがファイの頭と身体に刻まれてしまっていた。


(……お、お仕事も残ってるし、あとにしよう)


 耕地作業を終わらせていない今、まだ仕事が完了したとは言えない。であるならば、自分はニナに会うべきではない。そう自分に言い聞かせて、ファイは足早に執務室の前を離れることにした。




 仲の悪いミーシャとユアを2人きりにしてしまったことにファイが気づいたのは、お風呂場の入り口でのことだった。


 例によって口喧嘩でもしているに違いない。そう思って脱衣所に踏み込んだファイだが、もうそこにはミーシャ達の姿はなかった。


 籠に脱いだ服や着替えが置かれているため、どこかに行ったわけではないらしい。となると、お風呂の洗い場にいるのだろう。


(ミーシャ、泣いてた。洗ってあげないと)


 ファイが髪を洗ってあげると、ミーシャはとても安らかで幸せそうな顔を見せてくれる。また、獣人族は動物の姿でも身体を洗わないといけないのだが、基本的には1人で全身を洗うことができない。ほぼ必ず、誰かの手を借りる必要があった。


 恐らく今も傷心中だろうミーシャのもとへ駆けつけるために、急いで外套と衣服を脱ぎ捨てたファイ。


 そのままお風呂場へと足を踏み入れると――


「ぐすっ……。ぐすっ……」


 案の定、ぐずっているミーシャの声が聞こえてくる。ただ、彼女の声を追ってファイが洗い場に行ったファイは、広がっていた光景に思わず目を丸くしてしまった。


「ほ、ほら……。泣かないでください。ここ……耳の裏。好き……ですよね?」


 ユアが、ミーシャの髪を洗ってあげているのだ。少し面倒そうにしてはいるが、口調や手つきにはミーシャを(おもんぱか)る様子がありありと浮かんでいる。


「んにゃ……。くすぐったい……」

「こ、こら、逃げないでください……! 洗剤が目に入らないように、目をぎゅってしててください……ね」

「ふみゅ……」


 先ほどまで泣いていたからか、それともお風呂場だからか。ミーシャの方も不思議と、ユアの言うことを聞いている。


 素直に目をつむったミーシャの頭を洗っていくユア。洗髪剤が耳に入らないよう優しく、それでいてしっかりとミーシャの耳を押さえてもいる。どう見ても他人の頭を洗うことに慣れた手つきだ。


(そっか。そういえばユアは、「お姉ちゃん」)


 実家でのことはあまり聞いていないが、恐らくユアは、妹のムアの面倒をよく見ていたのだろう。自分よりも小さく弱いミーシャが精神的に弱っているところを見て、放っておけなくなったのかもしれない。


 ユアが何歳なのかは、定かではない。ただ、これまでのエナリアに関する話から察するに、ユアとムアがこのエナリアに来たのはニナが独り立ちした後だ。つまり、まだ、10年は経っていないということになる。


 ガルンでは進化をして子供を産めるようになればもう“大人”と呼ばれる。だが、第1進化を迎えるまでの時間は育ってきた環境によって大きく異なるという。


 片やエシュラム家の子供として栄養面に関しては不自由なく育ってきたのだろうユア。対してミーシャはろくに食事もとれないような環境で育ったと聞く。当然、ユアの方が早く進化を迎えたことだろう。


 ウルンでは、15年以上を生き、知識を得て、物の分別が付くようになった人々を「大人」という。


 そんな「ウルンの大人」の観点から見たとき、ユアやムアはファイの目には幼く見える。それこそ、普段の態度で言えばミーシャとどっこいどっこいではないだろうか。


(ミーシャとユア。案外、(とし)は近いのかも……?)


 ひょっとすると、ミーシャの方が年上の可能性まである。


 急激な身体的成長が見込まれる「進化」があるせいで、外見からの年齢が分かりづらいガルン人たち。ファイが大人として接している彼女たちも、ウルン人としての観点――年齢で見た場合は、実はまだ子供と呼ばれる段階にあるのかもしれない。


 そう思って改めてミーシャとユアを見てみると、


「そろそろ流します……ね。お耳、押さえていてもらえますか?」

「ぁぅ……。わ、分かったわ……」


 小さな子供が洗い合っているのだから、何とも微笑ましい。など思っているファイも、数え年のウルンが新年を迎え、16歳になったばかりの少女でしかないのだった。


 ひとまず、ミーシャ達がすぐに喧嘩するようなことはなさそうだ。むしろ今までにないくらいにいい雰囲気の2人。


(……今は行かない方が良い、かも?)


 ファイはこの時、世に“尊さ”と呼ばれる、触れてはならないような空気感をミーシャ達から感じ取っていた。


 なんとなく2人の邪魔をするわけには行けない気がして、さっと身を低くするファイ。そのまま慎重に後退(あとずさ)って、背後にあるかけ湯台の陰を目指す。


 このとき注意しなければならないのは、絶対の音を立ててはならないことだ。


 2人は獣人族で、五感が鋭い。匂いについては洗髪剤の香りなどで誤魔化すことができているようだが、風呂場で音はよく反響する。もしも音を立ててしまえば、あの尊い空間を壊してしまいかねない。


 慎重に慎重を重ねて音を立てないよう意識しながら後退(あとずさ)るファイ。視線はもちろん、仲良さげなミーシャ達の方を向いている。気づかれていないかを確認する意味合いもあるが、愛らしくも尊い光景から目を離せないと言った方が良いだろう。


 あと1歩、もう少しでかけ湯台に隠れられる。視界の端にかけ湯台が見え、ファイが少しだけ気を抜いた瞬間。


 ふよん、と。極上の柔らかさがファイの後頭部を包み込んだ。


「ぁっ――」


 突然のことについ声をあげそうになったファイの口が、すんでのところでふさがれる。おかげで声を上げずに済み、ミーシャ達に気付かれることは無かった。


 ほっと息を吐いたファイは改めて、あごを上げて背後にいる人物を見上げる。と、たわわな双丘の谷間からファイを見下ろしていたのは、深みのある青い瞳だ。


 ふっくらとした唇の前で指を立て、「しーっ」と態度で示しながら微笑んでいるのは、ルゥだ。どうやら折よく、彼女もお風呂に入りに来たらしい。


 ちょいちょいと彼女が指さすのは、互いに背中を洗い始めたミーシャとユアの姿だ。ルゥもまた、ミーシャ達の雰囲気を壊すまいとしているらしい。


 そうして身振り手振りで「見守ろう」と言ってくるルゥに頷いて、彼女と2人、小さな獣人族のほのぼのした景色を見守る――。


「わふっ!? ちょ、ちょっとザコ(ニャム)さん……! 尻尾の先は、慎重に……っ」

「あっ、ご、ごめ……。……って、そんなこと言うなら自分で洗えばいいじゃない」

「は、はぁ……!? や、優しくて大人なユアが下手(したて)に出たらこのヨワヨワ(ニャム)さんは……!」

「な、なによ。髪を洗ってくれたことには、その……か、感謝してる……わ! けど、別にアンタに気を許した覚えはないんだから!」


 奇跡的な均衡によって保たれていたエナリアいち微笑ましい空間は、本人たちの手によってあっけなく崩れ去るのだった。




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