第20話 ルゥは、変態だった
「つまり、ニナちゃんが生きていける場所って、エナが薄すぎず、濃すぎないこの場所――エナリアだけなの」
ルゥが言ったその言葉に、反射的に
「そう、なんだ………」
そう返したファイ。しかし、ファイの耳が自分の声を拾った時、
(私いま、安心した……の?)
無意識のうちに自身の声に乗っていた感情――“安心感”に、驚くことになる。それでも、すぐに納得してしまった。
(そっか。私、あの日、ニナに嫉妬しちゃったから……)
初めてニナの強さの理由を聞いた時、正直、ファイの中にはモヤモヤした暗い感情――嫉妬――があった。ファイの存在理由でもある戦闘での強さを、ただ生きているだけで手に入れることができる。そんなニナの身体を、羨ましく思ってしまっていた。
また、15年の歳月と、12年間のエナリアでの戦闘を経たからこそ手に入れた自分の“力”を軽々と凌駕する力を、妬ましくも思ってしまっていた。
(けど、そんな都合の良いことなんて、あるはずない。なにも努力しないで、制限もなしで、強くなれるはずなんて、ないのに……)
物事を一側面からしかとらえることをせず、あまつさえ、嫉妬する。
そんな醜い自分を見て見ぬふりをしたくて、感情のない道具であることを選んでいる。だというのに、命令違反を繰り返し、道具になり切ることもできない。
(本当に、浅はかで、嫌な奴で、中途半端……)
人間にも、道具にもなれない。先ほどの漏れてしまった安心感は、弱くて空っぽな自分そのものであるように、ファイには感じられる。
(……でも、だからこそ、私は考えないといけない……はず。どうやったら、もっと良い道具になれるのか。感情を失くせるのか)
すぐに弱気になって、卑屈になってしまう。そんな弱い自分からの脱却を目指して、ファイはその根本的な原因である心の消去法を、模索し続ける。
――全ては主人のために。
最高の道具であることを目指して、ファイは静かに前を向くのだった。
エナリアで一番安全な場所らしいニナの寝室をあとにしたファイ。扉1枚隔てた場所にある執務室に戻った彼女の目の前では、
「れろ……じゅっ、ずずずず……ぷはぁ……。れろっ」
「チロ、チロ……」
執務机に広がっていた“ニナが作った水たまりの水”を舐め取る、ルゥとミーシャの姿があった。猫の姿をしているミーシャはともかく、ルゥの頬は上気し、恍惚とした表情に見えなくもない。
「……2人とも、なにしてるの?」
ファイとしては、純粋な疑問を口にしただけだ。他人の唾液を飲む行為についての事前知識が、ファイには無いからだ。しかし、尋ねられた側であるルゥやミーシャは、あからさまにうろたえる。
「ち、違うの、ファイちゃん! これはわたし達に許された“権利”なの!」
「そ、そうよ、ファイ! だから、決して、やましいことをしてるわけじゃないんだから!」
言い訳をするように言いながらも、机に広がる“水”を舐める口は止めない2人。
「……2人とも、人の唾を飲むのが好き?」
「違うの!」「違うわ!」
口では否定しつつも、ファイの目にはルゥたちの態度が質問を肯定しているようにしか見えない。それになんとなく、2人が“いけないこと”をしているのだろうことは察される。
「あっ、わたし達を見るファイちゃんの目が、心なしか冷くなっていくような!?」
「い、言いたいことは分かるの! 分かるんだけど、目の前のご褒美を捨てるなんて、そんなの出来るわけないじゃない……っ!」
結局、ファイが居ることも構わずに、ルゥたちはニナが作った水たまりをきれいさっぱり飲み干したのだった。
「「ふぅ……。ごちそうさまでした」」
口元を光らせながら、満足そうな顔をして言ったルゥとミーシャ。
「で。2人は、何をしてたの?」
ガルンには、他人の唾液を飲む文化でもあるのだろうか。そんなわけは無いだろうと予想をしつつも、ファイとしては聞かずにはいられなかった。
そうしてファイによってもたらされた温度のない質問に、ルゥとミーシャが目を合わせる。先に口を開いたのはルゥだった。
「え、えっとね……。ファイちゃんは、わたし達ガルン人が魔素を求めることは、知ってる?」
気まずそうに行なわれた問いに、ファイも首を縦に振る。
「うん。進化のためにたくさんの魔素が必要。だから、魔素の多いウルン人を襲う。合ってる?」
尋ねたファイに応えたのは、机の上で食後の毛づくろいをしていたミーシャだった。
「そうなの。けど、実はこのエナリア内では、ウルン人の殺害・捕食が、ニナの命令で禁止されているの」
「えっと、ウルン人を食べることが、ダメ? で、合ってる?」
「そうよ」
ミーシャが語ったその内容は、ファイも薄々感づいていた。
ここは、ウルンで“不死のエナリア”と呼ばれる場所だ。ガルン人によるウルン人の死者がここ10年で0人であることが、その名前の最たる理由となっている。
そして、ガルン人がウルン人を襲う理由を知った今のファイならば、このエナリアにおけるウルン人の殺害と捕食が禁止されているだろうことは、可能性の1つとして考えていたのだった。
「普通、アタシ達ガルン人がエナリアに住む理由・働く理由って、ウルン人を殺して食べられるからなの。それこそが、ここで働く真っ当な報酬と言えるわ。だけど――」
「ニナはダメって言った。だから、ガルン人にとって“良いところ”がなくなったから、エナリアから人が居なくなった?」
説明を引き継いだファイの言葉に、緑色の目を大きく見開いたミーシャ。しかし、すぐににやりと笑うと、
「……分かってるじゃない」
ファイの言葉を肯定してみせた。
(やっぱり……)
ファイは、薄々感づいていたことに内心で納得する。
ここ最近、ニナ達と過ごす中で、働くことには“ご褒美”という名の対価が求められることを知ったファイ。それは例えばお金であったり、住むところであったり、ウルン人を狩る権利だったり。様々あるが、ガルン人にとってはウルン人を殺して食べることが最大の報酬だろうことは想像できていた。
しかし、ここ――“不死のエナリア”では、その最たる報酬を手に入れることが禁止されているという。働きに対する報酬が無いに等しいため、このエナリアからは多くの人が離れていると思われた。
「じゃあ、なんでルゥたちはここで働いてるの? どうやって、“進化したい”を満たしてる?」
“眠たい”や“お腹空いた”と同じような感覚で、進化を欲するらしいガルン人たち。その欲望をどのようにして抑えているのか。尋ねたファイに応えたのは、苦笑するルゥだ。
「えっと、わたしとミーシャちゃん。他の4人もそうだけど、わたし達はウルン人を食べない代わりに特別なお給料をもらってるの。それが――ニナちゃんの体液」
“体液”というガルン語が分からず、首を傾げたファイ。そんな彼女に、ルゥが尻尾を使って自身の指先にわずかな傷を作ってみせる。
「これが、体液。わたし達の仕事に対する、ご褒美」
「えっと、血、じゃない?」
血という単語は知っているが、別の単語を使っているルゥ。その単語が示す物を、ファイは懸命に推測していく。
「他にもこえとか……」
舌を出して自身の手のひらにトロリと垂れた唾液や、
「あとは……ぐすっ、これとか」
流れ出た涙を、同じ単語で言い表すルゥ。
「いや、ルゥ先輩、泣く演技うまくないです?」
「こうやって泣いてるふりしたら、ニナちゃんが頭撫でてくれるの! で、たまに角の根本にあたるニナちゃんのちっこい指が、もう……っ」
「うわ……。好きな人を騙して敏感なところ触らせるとか、さすがに引きます……」
などと先輩後輩でなにやら話しているが、ルゥのおかげで、液体、それも人の身体から出てくる液体を指す単語であることをようやくファイは理解した。
「体液……。うん、覚えた。つまり、ニナが出す液体が、ご褒美?」
「う~ん……、その言い方だと色々危ないけど、ざっくりとその通りかな」
そう言って、侍女服の前掛けから水色の手巾を取り出したルゥが、汚れた手を拭いていく。
「ニナちゃんの体液には、ちょっとだけど魔素が含まれてるの。その血を、わたし達はお給料として貰ってるんだ~」
「なるほど。進化に必要な魔素が含まれてる。……だから2人は、ニナの唾を、美味しそうに飲んでた」
ひとまず理解だけは示しておいたファイに、ミーシャから待ったがかかった。
「待ちなさい、ファイ。美味しそうに舐める変態は、ルゥ先輩だけだから」
「あ~! ひどいよ、ミーシャちゃん! 自分だってペロペロしてたくせに!」
ミーシャの言葉に、何やら怒っている様子のルゥ。
「へんたい?」
「ええ。気持ちの悪い人、病気の人を指す言葉よ。このエナリアでは主にルゥ先輩を指す単語ね」
「ひどい言われようだ!? わたしは魔素じゃなくて、ただニナちゃんを隅々まで味わいたいだけなのに!」
そんなルゥの発言を受けて、ファイは“変態”という言葉がなんたるかを理解したのだった。




