第157話 猫は喋る。常識
ここ2、3日、動き詰め・働き詰めだったファイたち。フーカもまた同じらしい。身体に拭き布を巻いて髪を乾かしている彼女の目は、とろんと座っている。さらにお風呂に入って化粧が落ちたことで、目の下にあるクマも露出してしまっていた。
忘れてはならないが、ウルン人は基本的に1日に6時間から8時間の睡眠を必要とする。ファイは自身の若さと白髪としての身体能力。フーカは王宮勤めなどで徹夜に慣れてしまっているだけで、無理をしていることには変わりない。
当然、わずかだが確実にファイの集中力も落ちてしまっており――。
「あ、着替えの服……」
お風呂から上がっていざ着替えを、という時になってようやく、着替えを忘れてしまっていることに気付くことになった。
どうしようか。ファイが悩んだのは一瞬だ。
「フーカ。ちょっと待ってて、ね?」
そうフーカに言い残し、脱衣所を後にするファイ。彼女が向かう先は自室だ。
人気のない通路を裸足で踏みしめ、執務室や食事場を通過した彼女が自室の扉を開くと、
「ふにゃ~ん♡」
ファイの寝台の上で鳴いている、人の姿のミーシャの姿があった。嬉しそうにファイの枕や布団を抱きしめて、尻尾をくねらせている。
「ミーシャ。来てた、の?」
「んにゃっ!?」
ファイが声をかけると、驚いた声を上げながら寝台の上で身を起こす。
「ふぁ、ファイ!? いつからそこに!?」
「……? いま来たところ」
言いながら自室の衣装棚を開き、下着を2着取り出す。1つは自分用でもう1つはフーカ用だ。続いて服だが、自分は侍女服を着ればいい。
(けど、フーカは……)
フーカはファイの胸元くらいまでしか身長が無い。果たして自分の服は適切なのだろうか。それにフーカには翅があるため、人間用の服は適さないのではないか。
そんなことを考えながら固まるファイの後ろから、焦ったようなミーシャの声がする。
「べ、別に『そろそろファイが眠る頃かな、だったら一緒に寝れるかも』なんて思ってここに来たわけじゃないから! これも別に、ファイの匂いを嗅いでるわけじゃないわっ!」
ファイの枕を胸に抱いて顔を半分隠しながら抗議しているミーシャ。だが、ピンと立った耳と尻尾から、彼女が焦りと怒りを覚えていることが丸わかりだ。
彼女が何に対して焦り、怒っているのか。ファイには分からないが、これもミーシャの平常運転だ。恐らく自分に向けられた感情ではないだろうと推測して、ファイは服選びを再開する。
「そうなんだ? 私が寝るかどうかは分からない、けど。多分、フーカは寝る、かも」
「フーカ? 誰よそれ。新しい女?」
悩んでいても仕方ない。差し当たって適当な部屋着をひっつかみ、抱えるファイ。衣装棚を閉じながら、ミーシャの質問に答える。
「そう。新しい従業員。仲間。ミーシャと同じだけど、違う」
「は? アンタなに言って……って、待ちなさい!」
例によって命令口調で言われ、動きを止めるファイ。ちょうど部屋を出て行こうとしていた手前、どうしたのかと寝台の上に座っているミーシャを振り返る。と、ミーシャは呆れたような半眼をこちらに向けてきた。
「ファイ。アンタ、なんで裸なのよ?」
そう。風呂場を出てから今に至るまで、ファイは素っ裸だったのだ。ただ、なぜと聞かれてもファイにはこう答えるしかない。
「服が無かった、から」
着るものが無かったのだから仕方ない。そう言って今度こそ部屋を出ようとするファイを、またしてもミーシャが「だから待ちなさいって!」と呼び止めてくる。
「なに?」
「いえ、だから……。服が無かったからここまで裸で来たのはまぁ、ギリギリ、理解できるわ。淑女なら巻き布くらいしなさいとは思うけれど……」
寝台から抜け出し、枕や掛け布団を元の位置に戻しているミーシャ。まるで何か証拠を隠しているようにも見えなくない彼女の行動を目で追いつつ、ファイはミーシャの言葉に耳を傾ける。
「今、アンタの手の中にあるのは何なのよ?」
「……? 服、だけど……って、あっ」
ようやくミーシャが言いたいことを察したファイ。ここに服があるのだから、ファイはひとまずここで着替えればいいのだ。
「ミーシャ、賢い」
「バカにしてる……わけないわね。もう、変なところで抜けてるんだから」
頼れる先輩の手を借りながら、素早く侍女服に着替えたファイ。フーカの分の着替えを持って、急いでお風呂場に戻る。
「フーカ。戻った」
「あ、お、おかえりなさい、ファイさん……。へくちっ」
しばらく半裸で放置してしまったからだろう。フーカが可愛らしいくしゃみをこぼしている。思えば彼女は絶賛、エナ中毒の状態にある。自身も先日、風邪とエナ中毒の二重苦を味わったことを思い出したファイは、急いでフーカに服を着せてあげることにする。
と、フーカに駆け寄るファイの頭から姿を見せたのは猫の姿のミーシャだ。身体や頭は金色、耳と尻尾が黒色の彼女の毛並みは今日も、驚くほどに触り心地が良い。
「ファイ。コイツね?」
「そう。フーカ。これから一緒に働く、ウルン人」
「ふーん……」
ファイの頭にしがみつきながら、緑色の目でフーカのことをジィーッと観察しているミーシャ。他方、観察されているフーカはと言えば、
「ね、猫さんが喋ってます……!?」
前髪の奥にある赤い瞳を丸くして、ミーシャのことを眺めている。
「フーカ。猫は喋る。これ、みんな知ってる。……えっと、常識?」
「そ、そんな常識、聞いたことありませんよぉ! それに、ふぁ、ファイさん。その格好は……?」
ミーシャから、今度はファイの服装へと目を向けてくるフーカ。
「これは、『従業員』……じゃない。働く人? の服。ルゥが作ってくれる。フーカはこれで良い?」
従業員という単語をどうにかウルン語に翻訳しつつ、ファイは持ってきた服をフーカに渡してあげる。
フーカもひとまずそれに袖を通してくれるのだが、案の定というべきだろう。フーカには下着も服もぶかぶかだったようだ。
とりあえず、身体を隠すためだろう。上衣だけを身にまとうフーカ。それでも、背中の中央付近にある翅のあたりで服の裾が引っかかってしまい、形の良いお尻を始め下半身が見えてしまっていた。
「す、すみませんファイさん。これはちょっとぉ……」
前面の裾を引っ張ってやや顔を紅潮させているフーカ。
しかし、裸が恥ずかしいという感情がまだあまり理解できないファイ。ユアによる秘密の暴露によって明かされたように、ファイは普段、自室では服を脱いで生活している。先ほども素っ裸で廊下を歩き回っていたほどだ。
それは黒狼にいた頃、多くの時間をほとんど裸の状態で過ごしてきたからに他ならない。彼女にとって服を着るとはつまり、自室の外に出るという記号的な意味合いでしかなかった。
ニナやルゥの働きかけで、最近はようやく服に興味を持ったファイ。しかし、まだ自分の裸を恥じることができるだけの自尊心を持っているというわけではなかった。
そのため、フーカがなぜ困惑しているのかを理解してあげられない。
「えっと……ダメだった?」
「い、いえ、ダメというわけではぁ。で、ですが、せめて。大事なところを隠すものが欲しいですぅ……」
「大事なところ……?」
足や腕以外はほとんど服で隠れているのでは? そんな風に首をかしげるファイに、頭上から呆れたような声がかかった。
「ねぇファイ。まさかソイツをその格好で出歩かせるわけじゃないわよね?」
「ミーシャ? えっと、フーカは隠すものが欲しいんだって」
「そりゃあそうでしょうね」
言いながらファイと、ファイの目の前で赤面しながらもじもじしているフーカを交互に見るミーシャ。
「……仕方ないわね、ちょっと待ってなさい」
そう言うとファイの頭上から飛び降り、脱衣所の奥へと消えていく。次に彼女が姿を見せたとき、口にはニナが使っている一番小さい大きさの湯あみ着が咥えられていた。
「コレ、アタシは使ってないけど、尻尾がある人用の湯あみ着なの」
言いながら器用に口と前足を使って湯あみ着を床に広げたミーシャは、切り込みの入った背中の部分を示して見せる。背中の中腹辺りから一番下に当たる湯あみ着の裾まで、真っ直ぐに切り込みが入っていて、その左右には任意の場所で結べるように何か所も紐が縫い付けられている。
「ここ。本来は尻尾を通すところなんだけど、人によって太さとかが違うじゃない? だから好きなところで結べるように、かなり融通が利くようにできているの」
そう言えば、獣人族のミーシャやユアだけでなく、リーゼの侍女服にも同じような工夫がされていたことを思い出すファイ。同時に、そこまで言われればファイも、ついでにやり取りを黙って見ていたフーカも。ミーシャが何を言いたいのかを察する。
「フーカ。ミーシャがこれで隠せばって」
「は、はい! これならウルンにも似たような作りの服があるので、フーカにも分かりますぅ。とっても賢い猫さんなんですねぇ」
言いながらミーシャを撫でようとしゃがみ込むフーカだが、
「やめて! 気安く触らないでよねっ!」
ミーシャが「シャーッ」と威嚇をして、すぐにファイの背後へと逃げる。そして顔だけを覗かせると、
「別にアンタのためじゃないわ! ファイのためなんだからね!」
再びフーカを威嚇する。
ミーシャが初見の相手に厳しいことを思い出すファイ。出会った当初、刃を向けられたのも今では良い思い出だ。
「あぅ……。な、何を言ってるか分かりませんが、怒らせてしまいましたぁ」
「大丈夫、フーカ。ミーシャはちょっとびっくりしただけ。きっと見た目ほどは怒ってない」
「そ、そうでしょうかぁ……?」
一度服を脱ぎ、湯あみ着を使って要所を隠したフーカ。その上に改めて上衣を着れば、なんとかフーカも外を出歩くことを了承してくれた。
「ふわぁ~……」
「うにゃぁ~……」
フーカが眠そうなあくびをこぼし、つられるようにしてミーシャも牙を覗かせて大口を開ける。どうやら2人とも限界が近いらしい。
「えっと。フーカ。ひとまずニナの所に戻ろう。念のために抱えて運ぶ、ね?」
「はふぅ……。すみませんが、よろしくお願いしますぅ……」
まだまだエナ中毒に見舞われているらしいフーカ。素直にファイの申し出を受け入れてしまうくらいには、弱っているらしい。
「ミーシャも。こんど寝るときは一緒に寝よう、ね?」
「むにゃ……。ふんっ、仕方ないわね」
頭上にミーシャ。腕の中にフーカ。2人の小さな従業員を侍らせながら、ファイはニナのもとへと戻るのだった。




