第151話 言い訳は、無意味……
「危ないところ、でしたわぁ……けほっ」
ファイの蹴りを左手1本で受け止め、反対の手で口元を拭うニナ。そして、ニナに庇われる形で身体を硬直させているのはフーカだ。
「……ふぇ?」
彼女にとってはファイの動きもニナの動きもほとんど見えていなかったのだろう。
振り上げられたファイの足。それを受け止めるニナの左腕。こちらに駆けてくるアミス。それぞれをじっくりと時間をかけて飲み込むような間を置いた後。
「あ、フーカ。いま、ファイさんに蹴られそうに……?」
気付きの声を漏らすと、その場にぺたんと尻餅をつく。事態が発生してから数秒経ったいまになってようやく、自分が死にかけたことに気付く。それほどまでに、ファイ達とフーカの間には認識できる時間の“ズレ”があるようだった。
他方、驚きを露わにしたのはフーカだけではない。ファイもだ。
足を下ろしたファイが恐る恐るニナを見てみると、ファイの足を受け止めていたニナの左腕は青黒く変色してしまっている。プランと垂れさがるニナの手のひらからも察せられるように、ファイはニナの腕を蹴折ってしまったようだった。
“あの”ニナの腕を折ってしまうほどの力が、足に入ってしまっていた。もしもフーカの頭に届いていたのなら、前髪に隠れた可愛らしいフーカの顔が消し飛んでいたに違いない。
たった今、自分はこのエナリアでウルン人を殺しそうになった。他でもないニナの理想を、ファイ自身が自らの手で汚そうとしてしまった。
――主人の願いを叶える優秀な道具として、絶対にしてはいけないことをしてしまった。
そのことに気付いた時、ファイは無性にこの場から――ニナのもとから逃げ出したくなった。
至らない自分への恥や、ファイ自身が忌み嫌う「感情」に突き動かされるまま動いてしまった後悔。何より、ニナの夢を汚してしまいそうになったことが、ただただ申し訳ない。
それでもファイがこの場から逃げずに黙って俯いている理由に、ファイ自身は気付かない。
この時、彼女は心の奥底で無意識に期待してしまっていた。優しく温かい、ファイの大好きな主人からの許しの言葉を。「ファイさん。わたくしなら大丈夫ですわ」と笑顔を見せてくれるニナの姿を。
だから、だろうか。
「ファイさん!」
「(びくぅっ!?)」
至近距離で発された想像以上に鋭いニナの声には、思わず身体を硬直させることになる。
「何をなさっているのですかっ!? 危うくこの方を……フーカさんを殺してしまわれるところでしたわ!」
茶色い髪を振り乱し、眉を逆立たせ、いつにない語気の強さでファイを糾弾する。あまりの剣幕に、ファイだけでなくフーカも、こちらに走って来ようとしていたアミスも動きを止める。
静寂が支配する階層主の間で、ニナは改めてファイに目を向けてくる。
「説明、してくださいませ。何を想い、どう考え、このような短絡的な行動に出たのか。説……明を……ごほっ」
「ニナ!」
再び血を吐き出して身をよろけさせたニナ。彼女の小さく軽い身体を、ファイは反射的に支える。ニナの腹部には相変わらずアミスが突き立てた剣が深々と刺さっている。服にゆっくりとだが確実に広がる赤黒いシミは、ニナの余命を表しているようにファイには感じられた。
「に、ニナ……? ルゥはどこ? どうやったら、ニナは助かる?」
腕の中。土気色の顔のまま荒い呼吸を繰り返すニナに、ファイは尋ねる。もはやファイに表情を取り繕う余裕などない。眉が下側に弧を描く彼女の顔には、心配と焦りが如実に表れてしまっている。
そんなファイに対しても、ニナは笑顔を見せてくれない。怒りと苦悶の色を顔ににじませながら、
「そんなことより、ですわ……。ファイさんは、どうして……。いまのような、行動を……? 答えて、くださいませ……っ!」
途切れ途切れに聞いてくる。まるでファイの行動の裏にあった感情を、ファイ自身に自覚させるかのように。
もちろん焦るファイが、ニナの真意に気付くことなどない。いまファイの中にある想いはそれこそ、「そんなことよりニナの命を!」だ。だがニナは、どうしてもファイの行動の裏を知りたくて譲らないらしい。助かる方法を彼女自身の口から聞き出すためにも、ファイは拙いながらも自分なりの言葉で自身の行動を振り返る。
「あ、アミス達が、ニナを刺して……。びっくりした。あと、『なんで?』って思った」
ぽつり、ぽつりと言葉を紡ぎ始めるファイに、ようやくニナが表情を弛緩させる。
「それだけ、ですの……?」
その問いかけに、ファイはフルフルと首を横に振る。
「ううん。えっと……ね。『なんで』って思ったら、胸がギュッてなって。そうしたら、いろいろ分からなくなって。でも、ニナは助けなきゃ、だから……。だから……」
「だから、フーカさんを殺そうと……けほっ……なさったのですか?」
「違う!」
この時ばかりはファイもつい、声を荒らげてしまう。
「違う……っ! 殺そうとは、思ってなかった! ……けど、思ったより力が入ってて……それで……あ、ぅ……」
何を言っても言い訳になってしまう、と、ファイはもう口をつぐむことしかできない。事実としてファイはフーカを殺しかけたのだ。大切なのは表面上の事実だけであって、ファイの事情など誰も知ったことではない。少なくともファイの人生ではそうだった。結果こそが、全てだった。
「なる、ほど……。つまり、けほっ、げほっ……。意図したこと……わざとではなく、つい、ですのね……?」
「そう、だけど。それは言い訳で……って、ニナ……? 本当に、死んじゃう、よ? ねぇ、ルゥはどこ?」
口からあふれる血も、腹部に広がる血の痕も、もはや看過できない量になっている。というより、たとえ今からルゥを探して彼女の治療を受けたとしても、果たして間に合うのだろうか。
それに不思議なことに、ニナの身体から血が漏れ出すほど、ファイの腕の中にある彼女の身体が重くなっているような気がする。ファイよりも体温が高く温かいはずのニナの身体も、いつの間にか冷たくなっていた。
「ニナ? ……ニナ?」
もはやファイの問いかけにも、ニナは反応してくれない。目をつむり、ぐったりとしたまま動かない。
と、ファイの耳が足音を拾う。ルゥが駆けつけてくれたのかと希望を持って見上げた先に居たのは、兜を取って白金色の髪を揺らすアミスだ。
「ファイちゃん、退いて!」
アミスが、ファイの腕の中からニナを強奪しようとする。が、いまファイの中でアミス達への信頼はゼロに等しい。
「ダメ。アミス達、ニナを殺すから――」
「黙って言うことを聞きなさい! このままじゃ本当にこの子が死ぬから!」
強い命令口調で言われると、例え一瞬であっても、つい従ってしまうのがファイの性だ。ファイが身体をこわばらせたその隙に、アミスが乱暴にニナを奪い取った。
「っていうか、なんでこの状態で動けるのよ……!? 化け物なの!? いえ、まぁ、フーカを助けてくれたことには感謝しなきゃなのだけれどっ!」
右手でニナの身体を支えながら何やら早口で独り言を言ったかと思うと、おもむろに左手をニナの腹部へと持っていき、
「我慢、してよね!」
アミスがニナの腹部に刺さった剣を一思いに引き抜いて、投げ捨てた。早速、傷口からはすさまじい勢いで血液が流れだす。相当な痛みなのだろう。ニナの喉から「ぅ……っ!?」と苦しそうな声が漏れる。
「アミス!? やっぱり――」
「この子を助けたいんでしょう!? だったら黙って見ていなさい!」
ぴしゃりと言われて、もはやファイにできることは無くなってしまった。
「これ、赤色結晶並みに高いんだからっ! ファイちゃんに来てもらうためじゃ無ければ、犯罪者に使うものでも無いけれど!」
彼女が懐から取り出したのは、赤ん坊の拳大の小瓶だ。中で揺れているのは、緑色に発光する謎の液体だった。そう。それこそまるで、ルゥが作り出す傷薬のような見た目で――。
「内臓は避けたつもりだけど、万一のこともあるし……。これは人工呼吸と同じ、人工呼吸と同じ……! ええい、ままよっ!」
言うや否や、緑色の液体を口に含んだアミスは、微かに開いたままのニナの口元に顔を持っていき――、
「ぁ」
――ファイの喉からなぜか声が漏れたときにはもう、アミスとニナの唇が重なってしまっていた。
見開かれたファイの金色の瞳がジィッと見つめる先。アミスが少しずつ、少しずつ、口に含んだ緑色の液体をニナに飲ませている。というよりは、口内に流し込んでいると見るべきだろうか。やがて訪れた変化はファイが予期した通りのものだった。
破れたニナの服から覗いていた傷口が、ピュレの映像を逆再生するように閉じていく。また、ファイが折ってしまったニナの右腕も、瞬く間に元に戻っていくではないか。
ルゥの傷薬であれば何本か必要なほどに大きな怪我のように見えたが、どうやらアミスが使ったものはもっと良質なものだったらしい。たった1つの瓶だけで、ニナの全身にあった傷を快癒させてしまったようだった。
(良かった……! …………。……けど?)
今もなお続いている、アミスとニナの口移しによる傷薬の経口摂取。その光景を見ていると、なぜだかファイの中に焦燥感のようなものが湧き上がってくる。黒狼でニナ達と別れたことで感じたモヤモヤ――寂しさ――とも似ているが、どこか違うような気もする。ただ、違いは何かと問われればファイは答えられない。
微かな胸の痛みに眉尻を下げたまま、それでも。アミスとニナの接吻からファイが目を離すことができないでいると。
「……?」
すぐにニナのまぶたが動き、長いまつげに縁どられた茶色い瞳が顔を覗かせる。その瞳は一瞬だけ虚空をさまよい、続いて自身の顔のすぐそばにあるもの――つまりはアミスへと向けられた。
そのまま自身が置かれている状況を察したのだろうか。ゆっくりと目を見開いていき、最後になぜかファイの方をちらりと見たニナは徐々に顔を紅潮させていき、
「ごぼっ!? ぶはぁっ!」
「え゛っ……」
自身を助けてくれたアミスに向けて、口の中に入っていた液体――傷薬や血、よだれが混じったもの――を全て吐き出したのだった。




