第136話 むしろ、好機
木目調の落ち着いた内装に、明るすぎない店内照明。馴染みのある紅茶たちの香りとは違う香ばしい香りが、店内を満たしている。その正体は、香豆と呼ばれる赤い実を焙煎した時に生じる香りだそうだ。
店の大きさは“こぢんまり”という表現が良く似合う。客席から見える調理場と、調理場を向くようにしてある1人掛けの席が6つ。2人掛けの席が2つあるだけだ。
そんな喫茶店の2人掛けの席に、ファイは1人で座っていた。
彼女の目の前にあるのは、目の大きい網目の形をした不思議な焼き菓子『網麦餅』。大きさはファイが手を広げたより少し小さいくらい。美味しそうな焦げ目と匂いがファイの食欲を誘ってくる。見た目も香りも「甘いですよ!」と訴えかけてくるあまり、ファイは網麦餅を2つも買ってしまっていた。
合わせるのは、香豆を細かく砕いて味を染み出させた真っ黒な飲み物である『黒紅茶』。それを氷でキンキンに冷やしたものだ。網麦餅に合わせるなら黒紅茶だと店員が強く推してきたためにファイが注文したものだった。
この黒紅茶が店内を満たす芳醇な香りの正体でもあると言う。
ルゥ達がいつもファイに淹れてくれる紅茶と同じで、きっと甘くて香り高くて美味しいに違いない。内心ワクワクで乾いた喉に黒紅茶を流し込んだファイは、
「……!? …………。…………。…………」
黒紅茶を口にした姿勢のまま固まった。思考停止をしたわけではない。期待していた甘味とは異なる圧倒的な苦味を前に歪みそうになる顔を、懸命に押さえ込もうとしているのだ。
(に、苦い……)
目端に涙が光る前に、急いで網麦餅を手で掴み、パクリ。するとこちらは予想通りの味だ。カリッとした食感ののち、砂糖とは少し違うようにも思う芳醇な甘みと焦げ目が生む香ばしさがファイの口を癒してくれる。引き立てられた“幸せ”の味には、ファイも大満足だ。
鼻息荒く、網麦餅をもう1口頬張る。
(カリカリ、ふわふわ……もちもち?)
瞬く間に網麦餅を平らげたファイは喉を潤そうと黒紅茶に手を伸ばそうとして、躊躇する。が、すぐに首を振って黒紅茶を口に含む。
(私に好き・嫌いは、無い、から……。…………。でも、苦い……っ!)
道具としての矜持と網麦餅という心強い仲間と共に、ファイが苦い黒紅茶に立ち向かっていた時だった。
「あのぉ……」
ファイの背後からおずおずと声をかけてくる人物がいる。網麦餅を頬張るファイが振り返ると、そこに居たのは――。
「(もぐもぐ……)ごくん。フーカ?」
「は、はいぃ。こんにちはぁ、ふぁいさん~」
背中の透明な翅を揺らして魔素の燐光を振りまく、フーカの姿があった。「ご一緒しても?」と聞いてくる彼女の問いに頷きを返すと、フーカがファイの前の席に着座する。机の上に置かれているお品書きを眺め始める彼女を、ファイは網麦餅と共に眺める。
肩口あたりで切りそろえられた黒い髪。長い前髪が、フーカの鮮やかな赤い瞳を隠している。気弱そうな目元も含めて、やはり雰囲気はルゥの姉であるサラとよく似ているような気がするファイだ。
着ている服は青の一枚着に裾の広い白の裳。背中の翅が当たるからだろうか。椅子の背もたれに寄りかからずピンと背筋を伸ばして座る姿勢を毎日しているのだと思うと、少し大変そうだった。
この時、ファイの中に「フーカはなんでここに居るの?」という疑問は無い。ファイがウルンで知っている町はフィリスだけであり、アミスやフーカといった知り合いもこの近郊に住んでいると考えることしかできないからだ。
むしろ今、ファイの興味はフーカが信用に足るかどうかという一点にのみ向いている。
ファイは今回、お使いだけでなくウルンへの理解を深めるという個人的な目標も掲げている。エナリアにやってくる探索者が何をどのように考え、彼らにとって何が“幸せ”なのかを知るためだ。
だが、ウルンで“普通に”過ごしてきただろうフーカが居れば、ウルン人を知るという課題の解決が一気に進む。
ファイの知る限りフーカは聡明で、なおかつ優しい。それこそ前回のお使いでは、お人好しすぎるくらいにファイのことを支えてくれた。当然ファイはフーカに好感を覚えており、ニナのためにも、できることならフーカの助力を得たいと思っていた。
「で、ではこの冷やし黒紅茶、乳入りを」
注文を終えたらしいフーカが店員に出された水を一息ついたところを見て、ファイは切り出す。
「久しぶり、フーカ。フーカもご飯?」
「は、はいぃ、そんなところですぅ。……ふぁ、ファイさんはフィリスにどういったご用件で?」
そう聞き返してくるフーカ。一瞬、透明な湯吞を握る手に力が入ったようにファイには見えたが、聞かれたことに答えるのが先だ。
「えっと。お買い物……あっ、そうだ」
ちょうどよかったと、ファイは持っていた冷やし黒紅茶を置いたファイ。
「フーカ。えっと、エナリアでも使える撮影機、は、ある?」
前回、遠隔撮影機を買う時に手伝ってくれたのもフーカだ。彼女であればエナリアで使うことができる撮影機を売っている店を知っているのではないか。そう思ってのファイの問いかけに、フーカは前髪に隠された表情をなお一層硬くする。
だが、彼女が言葉に詰まったのは一瞬だ。
「――あ、ありますよぉ! 良かったら今回も、お供しましょうかぁ~?」
「ほんと? ありがとう」
心強いフーカからの提案に、にべもなくファイは頷く。これでより深くフーカのことを知ることができ、なおかつ、間違いのない撮影機の買い物ができる。今回も失敗せずに買い物ができる。そう考えたこの時になってようやく、ファイは「あれ?」と自分に待ったをかける。
――あまりにも、都合が良すぎないだろうか。
前回はまぁ、幸運で済ませても良いのかもしれない。だが“今回も”となると、さすがのファイも「ちょっとおかしい……?」となる。
が、良くも悪くもファイは人の“悪意”というものに鈍感だ。今なお黒狼の人々に対しても嫌悪を抱かない程度には、ファイは人に悪意があることを知らない。
戦闘に関わりのある敵意や殺意を向けられるならまだしも、ファイを貶めようとしたり、辱めようとしたり、利用したり。そうした人々の思惑を察知できるだけの人生の経験値が、ファイには無い。
そのため、結局は今回のフーカとの出会いも偶然だろうと考えてしまう。
また、ファイ自身、黒狼を壊滅させたときにウルン人たちが優しく、温かく迎えてくれたことが強く記憶に刻まれている。いつしか彼女の心の奥底で「ウルン人は良い人」という先入観が芽生えていた。そのため、目の前で黄土色の飲み物――冷やし黒紅茶、乳入り――を、細い管を使って飲み始めたフーカを、
(フーカ、良い人!)
そう評価することしかできなかった。
「あっ、で、ですが。実は今日、フーカのお友達が来ているんですぅ……。そ、そのお方……コホン、その子と一緒でも良いでしょうかぁ?」
「フーカの、知り合い?」
顔をゆがめないよう努めながら黒紅茶を飲むファイは、首をかしげる。
「は、はいぃ。ファイさんも一度だけ、会ったことがある子ですよぉ? アミスさ……アミスちゃんって言うんですけどぉ」
「おー、アミス。うん、大丈夫」
別に人見知りをするわけでもないファイは、アミスの同行も許可する。フーカをニナに会わせられない場合も考えられる。その時はファイ自身がウルン人についての情報を持ち帰らないといけないのだ。フーカ。アミス。ウルン人の“例”は多いに越したことは無い。
また、フーカと同じ徒党を組んでいたアミスであれば、フーカの別の側面を見ることができるはずだ。信頼に足る、ひいてはニナに紹介できるかどうかを見極める参考にもなるだろう。
その代わりというわけではないが、ファイは念のために確認しておくことにする。
「ねぇ、フーカ。『アミスティ』って人、知ってる?」
ファイが尋ねた瞬間、フーカが激しくむせる。
「わっ、大丈夫、フーカ?」
「だ、だだだ、大丈夫ですぅ! そ、それでえっと、アミスティ様、ですかぁ? どうしてそんなことを?」
提げていた小さな鞄から手ぬぐいを取り出して口を拭くフーカが、なぜそんなことを聞いてくるのかファイに聞いてくる。
「えっと、その人が私を探してるんだって。探索者協会の人たちが言ってた」
「へ、へぇ~……。探索者協会の方々とぉ……。それで、ファイさんはなんとお返事を?」
「ごめんなさいって言った、よ? ニナの大切なお使い、が、あるから」
そうなんですねぇ、と、ファイに相槌を返したフーカが、黒紅茶で唇を湿らせる。
「と、止められたんじゃないですかぁ? 一緒に来て欲しいって」
「うん、捕まえようとしてきた、から。だから、えっと……」
少し強引に追い払ってしまったことを言うべきか、言わざるべきか。ファイが迷ったのは、ウルンの“決まり”を知らないからだ。
もしファイの知らないウルンの“決まり”に「人を傷つけてはならない」というものがあった場合、ファイは恐らく憲兵によって連行されてしまうことになる。フーカの誘拐未遂事件で捕まった獣人族の姿を思い出したファイは、今になって自身の行動の危うさに気付くことになった。
と、言い淀むファイに助け舟を出してくれたのは、他でもないフーカだ。まるでファイが何を気にして言葉に詰まったのかを知っているかのように、微笑む。
「そ、そうだったんですねぇ。もしファイさんがその人たちを傷つけていないのなら、大丈夫ですよぉ」
「そう……なの?」
「はいぃ。いわゆる正当防衛ですのでぇ、アグネスト王国で罪に問われることは無いと思いますよぉ」
一部難しい言葉が出てきて眉をひそめたファイだが、どうやら自身の行動に問題は無かったことだけは分かった。
「そうだ、フーカ。良かったらウルンの決まり、を、もっと詳しく教えて欲しい……な? せいとうぼうえい? も」
「うふふっ、い、良いですよぉ。そ、それじゃあアミスさ……アミスちゃんが来るまで、フーカとお話しましょぉ」
黒紅茶の香り漂う店内。前回の食事処での説法に続き、ウルン人の師であるフーカの話を熱心に聞き入るファイだった。




