第123話 ニナは絶対、だよ?
いつ以来だろうか。捨てられるかもしれないという恐怖に身体を硬直させていたファイを包み込んだのは、柔らかな感触とふんわりと香る柔軟剤の香りだった。
「落ち着いてください。ファイ様も。そして、ロゥナ様も」
頭上から聞こえた声で、ようやくファイは自分がリーゼに抱きしめられているのだと気づく。
ファイが顔をうずめているのはリーゼの豊かな胸だろうか。腰に回されているリーゼの腕は優しく、それでいて力強い。微かに感じる、リーゼの拍動。トクントクンと耳朶を打つ規則的な音を聞いていると、ファイの全身のこわばりが嘘のように消えていく。
――守られている。
それは、これまでずっと守る側だったファイにとって初めての感覚だった。
「ふふっ。ロゥナ様。ファイ様をいじめないであげてください」
「いじめ!? 俺、そんなつもりは……!? ファイ、急に黙り込んじまうから、俺は……いや、悪かったな、ファイ。俺、せっかちで……」
そんなロゥナの声が聞こえて、慌ててリーゼから身を離すファイ。振り返ると、深々と頭を下げている緑色の髪の後頭部が見える。
「ろ、ロゥナ! 違う、ロゥナは悪くない。私が説明、ヘタ、だから……」
「いや、けどよ……」
申し訳なさそうに顔をあげたロゥナが、黄色い瞳でファイの顔を見つめてくる。そんな彼女に、ファイは改めて言い含める。
「ロゥナ。良い機会だから教えておく。私は道具。感情はない。不満も感じない。だから謝る必要はないし、心配する必要もない」
「……はぁ? 何言ってんだ、お前?」
驚きと理解不能を目で訴えかけてくるロゥナ。だが、危うく道具であることを忘れかけていたファイは名誉挽回とばかりに能面を保つ。見ての通りだと、言うように。
このままではらちが明かないと思ったのだろう。ロゥナが助けを求めるように、ファイの隣に立つリーゼへと目を向ける。
「リーゼさん。コイツは、一体……」
「どうやらファイさんの中ではそういうことらしいのです。ひとまず受け止めてあげてください」
「いや、でもよぉ。何をどう考えてもおかしい――」
「ロゥナ様。考えてはなりません。広い心で、ありのままを、受け止めるのです」
目を閉じ、胸に手を当てながらロゥナに言い募るリーゼ。
「考えずに、ありのままを受け入れる。……は!? つまりは鍛冶と一緒だな!? 素材の在り方をそのまま受け止めるところから始まるっていう!」
「……? はい。きっと、そういうことです」
ロゥナの例えに一瞬だけリーゼが首をかしげた気がするが、ファイは見なかったことにした。
ともかく、どうやらロゥナはこの“不死のエナリア”の決まりや考え方をまだ把握していなかったらしい。そのため、改めてファイが説明をし、リーゼがそれを補佐する形でロゥナに教えてあげる。
その最中、ファイには気付いたことがある。上層用の武器や防具については、もちろんリーゼも知っていたはずなのだ。
というのもロゥナたち職人が居ない間、ニナ達はアイヘルム各地で行なわれている市場などで補充物資を調達していたのだという。ファイの知る限り、その買い付けを行なっていたのがリーゼだからだ。
彼女のこのエナリアにおける役割は、第19層の階層主だけではない。ガルンでの活動制限があるニナに代わって、ガルンに関わるあらゆることを彼女が担っている。例えば住民の勧誘だったり、従業員の確保だったり。他にも必要とあれば、遠方の魔獣を連れてきたりもしているらしい。
(リーゼは何でもできるし、なんでも知ってる。なのに、上層の武器選びは私にさせてる……。なんで?)
こうしてリーゼもここに居るのだから、忙しくて手が回らないというわけでもないのだろう。なんならリーゼが助言した方が、より確かな選定ができる気すらもするファイ。
だというのに、なぜリーゼは“わざわざ”ファイにロゥナの手伝いをさせるのか。優しくも頼もしい角族の女性をちらりと見遣るファイ。と、こちらを見つめていた青い瞳と目が合って、なぜか顔が熱くなる。
「どうかなさいましたか、ファイ様?」
「う、ううん。なんでもない。えっと、だから……ね、ロゥナ。このエナリアだとウルン人はエサじゃない。大切なお客様。……どう?」
後輩にきちんと説明できただろうか。微かな不安を顔に覗かせながらファイが顔を上げると、
「なるほどなー……」
腕を組んで考え込む素振りを見せながらもうんうんと頷くロゥナ姿があった。ただ、褐色肌の少女が難しい相好を崩すことは無い。
「奇特なことやってんだなぁ、あのお嬢さんも。酔狂な」
理解はしたが、共感はできない様子を見せる。その瞬間、ピリッと肌を刺すような感覚に襲われるファイ。その空気を発しているのはリーゼだ。彼女は侍女服の中で小さく尻尾を揺らすと、
「――ロゥナ様。ニナお嬢様への侮辱に当たります。撤回を」
淡々と、発言の訂正を求める。
「お、おう……。悪かった。ニナ様にもリーゼさんにも、俺たちを拾ってもらった恩もある。別に反対ってわけでもねぇんだ。けどよ、間違いなく茨の道だぜ?」
すぐに謝罪の言葉を口にして、不安になっただけだと弁明するロゥナ。それでも忠告をするのは、ニナを思うが故だろう。それはリーゼも理解しているらしい。
「それはお嬢様も百も承知のことでしょう。そのうえで選ばれた道です。私たちはあのお方が選ばれた過酷な旅路を支え、共にするのみです」
肌を刺す圧を消し去り、従業員としての在り方をロゥナに示す。
「……それが死地へむかう旅路だとしても、か?」
「――そう」
リーゼの代わりに答えたのは、これまで黙って話を聞いていたファイだ。
「ニナが私を捨てるか、ニナが死ぬまで。私は……私たちはずっと、一緒」
微かに眉をあげ、決然とした顔で言ったファイ。手を胸に添えているのは、いつもニナから貰っている温もりを思い出すためだ。この熱があるからこそファイは頑張れるし、生きていられる。だが、この愛おしい熱のせいで、なかなか心を捨てられない――道具になり切れない――という側面もあったりするのだが、ともかく。
ファイの隣で「その通りです」と深く頷くリーゼを順に見て、ロゥナは緑色の髪をがさつにかく。
「あ~、なるほどな! これが、このエナリアで働くってことかよ! だが、いくら恩があると言っても、お前らと心中するのはごめんだ」
ロゥナは、工房で働いていた家族を守るために亡命し、この場所までやってきたという。家族が死んでしまっては本末転倒らしい。
「まぁでもよ。お前らの考え方と覚悟? みたいなもんは分かった。他人のために命張るなんて、そうそうできっこねぇ」
首を左右に振りながらしみじみと言ったかと思うと、ファイとリーゼを順に見上げる。
「そういう意味ではお前らと。それからお前らに信じて貰ってるニナ様のことは信用できそうだ!」
「「当然」」
「息ピッタリかよ……。いやでもマジで。盲信だけはやめてくれよ? 手綱のない魔獣に乗るつもりはないからな」
待ったをかけるべき時は待ったをかけろ。ただ盲目に従うな。そう言いたいのだろうロゥナ。だが、この時初めて、
「承知しております」
「そんなことは無い」
リーゼとファイの意見が割れる。
「……ファイ様?」
どういうことなのか。首をかしげるリーゼに、ファイは自身の考えを伝える。
「リーゼ。私は道具。ニナの言うことは、絶対」
「ふむ……。ですがファイ様は考える道具……なのでしたか? であれば、例えばお嬢様が崖から飛び降りようとした場合、止めて差し上げるのが“考える道具”なのではないでしょうか?」
主人に仕えるものとして、なっていない。そう言われた気がしたファイの胸が、微かに熱を帯びる。
「リーゼ、分かってない。その場合、なんでニナが飛び降りようとしてるのかを考えるのが、優秀な道具。それから一緒に飛び降りるのが正解」
もちろん、本当にそんな場面に遭遇した場合、ファイはニナの手を引いてしまうかもしれない。それでも、ファイにとって理論上はそうなる、という話だ。
そんなファイの言葉に、リーゼのこめかみ辺りがピクリと反応する。
「もしお嬢様が翻意なされなかったとしても。その場合はお嬢様の考えを確認し、私1人で目的を果たし帰還する。それこそが仕える者としての正解なのです」
断定の口調で、自分の考えこそが正しいのだと言い切るリーゼ。そこには、長年ニナに仕えてきた者としての風格と威厳すらあった。
ニナの代わりに自分が全てを行なう。そう言い切れてしまうあたりは、さすがリーゼといったところだろう。恐らくこのエナリアでそう発言できるのは、リーゼくらいしかいない。
そして、リーゼには1人でできてしまうだけの力があってしまう。だからこそニナはリーゼを頼り、第2の母として慕っているのだろう。
だが、ファイはこうも思うのだ。“一緒に”ではなく“代わりに”。リーゼのその考えこそが、ニナを孤独にしている原因なのではないか、と。
不安を口にすれば、リーゼは必ずニナの助けになってくれる。誇張抜きに“必ず”だ。しかし、責任感の強いニナの性格を考えると、リーゼを頼ることをあまり快くは思っていないだろう。故にニナは不安を、弱みを隠し、強がる。そうしなければ、リーゼが全てのことを解決してしまうからだ。
そうして弱さを全て隠すようになった結果、ニナは“危うさ”を内包するようになったのではないだろうか。
(――けど)
リーゼのおかげニナが強くなれたのもまた、事実だ。ファイはリーゼの考えを拒否するつもりもないし、むしろ共感できる部分の方が大きい。何よりリーゼはファイにとって憧れの対象であり、先輩でもあるのだ。
そうした尊敬の念が、ファイからリーゼへ向かう言葉を奪い去る。
「良いですか、ファイ様。ニナ様がお1人で危険なことをなさろうとしてた場合は、必ず、私に教えてくださいませ」
「……分かった」
今回ばかりは自身の考えを胸に秘め、リーゼの言葉に頷くファイだった。




