第121話 ムアって、ひょっとして……
別に、執務室の前でウロウロしていてもニナの役に立てるわけではない。そのためファイはリーゼの案内のもと、新たにエナリアにやってきたという職人たちのもとへと向かっていた。職人たちに協力すれば、エナリアのため、ニナのためになると考えたのだ。
「ついにファイ様も“先輩”ですね」
やや前方を行くリーゼが、ファイの方を振り返りながら小さく微笑む。
先輩。例えばルゥがリーゼを呼ぶ時だったり、ムアがルゥを呼ぶときに使ったりしている単語だ。ファイの中ではなんとなく、自分より「すごい人」「強い人」を呼ぶときの呼称だと思っていた。だが、リーゼの話を聞く限りでは、先に働いている人に付けること呼称らしい。
「もちろん、ファイ様のお考えもウルンでは間違いではないのでしょう。ですが私たちはガルン人です」
「ルゥちゃん先輩はザコだから、ムアからすると先輩じゃない~♪」
ファイの頭の上で前足をあげたのは、犬の姿になっているムアだ。先端だけ白いムアの足は靴下を履いているように見えなくもない。そんなムアは今、ファイに肩車をされていた。
「そっか。ガルン人は強い人が“えらい”。だから、先に働いてても、弱いと“先輩”じゃない?」
「一概には言えませんが、そう捉えているガルン人も多いということです」
「おー……。えっと、じゃあ……リーゼせんぱい?」
ファイが改めてリーゼの名前を呼ぶと、ピタリとリーゼがピタリと立ち止まる。だが、すぐに歩みを再開すると顔だけファイの方を振り返り、
「……ファイ様にそう呼んでいただけること、たいへん光栄です。が、面映ゆいのでいつも通り『リーゼ』と。そうお呼びください」
金色の髪からのぞく耳をわずかに赤くしながら、ファイの先輩呼びをやんわりと拒否する。
「そ、そっか。じゃあ、リーゼで」
なぜか自分も少しだけ照れくさくなってしまったファイは、自身の顔が赤くなる前に視線を頭上に向ける。
「ムアも。先に働いてるから、ムアせんぱい?」
自身の頭にしがみつくムアも、ファイにとっては先輩だ。
「『ムア』で良いよー。ムアもファイって呼ぶから。そんなことよりファイ。ムアともう1回遊ぼう~? 今度はちゃんと、殺し合お~よ~!」
言いながら、ファイの頭を前後に揺さぶるムア。彼女のファイへの予定というのが、それだ。ファイとの実際の実力がどうなのか、ムアは確かめたいのだという。
だが、ムアが先日の勝負の結果に不服を覚えているのかというと、そうではないらしい。ファイの提案をムアは理解したうえで受け、結果として倒された。お互いに全力を尽くしたことは事実で、ムアの中ではきちんと結果を消化できているのだという。
つまりムアは本当に、純粋に、ファイとじゃれ合いたいだけらしい。
「ファイ~。ファイ~。あ~そ~ぼ~!」
こんな調子でずっと、ファイの頭を肉球でペシペシ叩いていてくる。
「ごめんね、ムア。でも、まずは職人たちに会うのが先」
「つまんない、つまんない、つまんないー! ……やーい、やーい! ファイの臆病者~♪」
臆病者。その言葉を聞き逃すことができるファイではなかった。ピタリと足を止め、頭上に居るムアへ視線を向ける。
「……私は臆病者じゃない。だって私に怖いは無いから」
表情こそ変わらないが、金色の瞳には不服の意思が宿っている。そんなファイの視線を受けて「あはっ♪」と楽しそうな声を漏らすムア。
「だってそーじゃん! ムアと戦うのが怖いんでしょ? 殺されるのが怖いんでしょ? だから遊んでくれないんだ~。やっぱりザコじゃん!」
「(むぅぅぅ……)」
ニナに仕えるものとして、ムアの言葉は看過できるファイではない。眉を逆立たせ、ムアからの分かりやすい挑発をファイが受ける、直前で。
「ムア様?」
いつの間にか立ち止まってこちらを見ていたリーゼから声がかかった。冷たさを感じる青い瞳には、明らかな殺気が満ちている。
「それほど遊びたいのでしたら、私がお相手いたしますが?」
「くぅ~ん……。だってリーゼ先輩、強すぎて、ムア一瞬で半殺しだもん。つまんない~! ファイが良い~!」
前と後ろの足をばたつかせ、それは嫌だと駄々をこねるムア。
「はぁ……。臆病者は誰ですか、全く。……ファイ様も。不満が表情に出てしまっていますよ?」
リーゼに指摘されて、ハッと表情を取り繕うファイ。
「ニナ様に仕える優秀な道具になるのでしたか? でしたらきちんと、道具であることに徹してください」
「う……。分かった」
裳の中で尻尾を大きく一度揺らしたリーゼが歩みを再開する頃には、ファイもムアもむっつりと黙ることしかできなくなっていた。
「ところでムア様。今日は“表”に出なくて良いのですか?」
歩きながら、今度はファイではなくムアへと青い瞳を向けるリーゼ。その問いかけはムアの“お仕事”への深堀の意味が含まれていて、ファイがムアの仕事を知る機会を作ろうとしてくれているのだろう。
だが、ムアはもちろんのこと、ファイもそんな気配りに気が付けるほど集団生活に慣れているわけではない。言われてみればムアは具体的にどんな仕事をしているのだろうと、金色の瞳を輝かせるだけだ。
「まぁ、大丈夫だと思いますよ~。暴竜もファイが調教しちゃったんで。……ファイ~、この姿勢疲れた。抱っこして」
「分かった」
言われるがまま頭上のムアを抱え上げたファイはそのまま、ムアの大きな体を胸に抱く。普段、ミーシャにしているように胸の部分に腕を通し、もう片方の腕でお尻を支えてあげる形だ。
「よいしょ。……こう?」
「うん、いい感じ~……」
ムアの長い毛がファイの腕や頬をくすぐってくる。腕に感じるずっしりとした重みは、軽くミーシャの倍はありそうだった。と、こうして直にムアを抱いて初めて分かったことがある。
「……ムア。お風呂、入ってる?」
ムアから“獣の香り”がするのだ。それだけでなく、毛もべたついているように思える。それらのことから察されることをファイが聞いてみると、案の定だった。
「お風呂? 水浴びならしてるけど、お風呂はあんまりー」
どうやらしばらくの間、お風呂に入っていないらしい。もしキレイ好きのミーシャが居れば、すぐさまお風呂に連行されかねない程度には、かぐわしい臭いを放っている。ましてや礼儀作法を重んじるリーゼはどんな顔をしているのだろうか。
ちらりとファイがリーゼの様子を伺うと、
「ムア様。お嫌でも定期的にお風呂にはお入りください。住民から、従業員とニナお嬢様の品位が疑われてしまいます」
やはり思うところがあるらしく、ムアに忠告している。しかし、別段怒っている様子も、呆れている様子もない。むしろ仕方のないことだと受容しているようにも見える。その理由は、すぐに分かった。
「ファイ様。ムア様のお仕事内容についてはどこまで?」
「えっと、確か……。遊ぶことが仕事って、ニナ達が言ってた」
先日、サラに会った時に聞いたムアの情報だ。曰く、エナリアの表に出て遊ぶ、つまりは魔獣たちと戦うことこそがムアの仕事らしい。そうして定期的に上下関係を分からせておかなければ、いざという時に魔獣たちが言うことを聞かなくなる可能性があるのだという。
また、ガルン側にはいくつかエナリアへ続く入り口があるらしい。先日、ニナが言っていたことだ。
その入り口から入ってくる野生の魔獣によって、階層内の上下関係が大きく乱されてしまうことがあるらしい。それらを調整するのが、ムアの仕事だと聞いていた。
自身の持っている知識をゆっくりと口にしたファイ。その知識に補足する形で、リーゼが新たな情報をくれる。
「エナリアを管理する我々は、常に魔獣たちより“上”でなければなりません。それを魔獣たちに理解してもらうために、ムアさんは欠かせない存在なのです」
「「なるほど」」
ファイの声と、当事者であるはずのムアの声がなぜか重なる。どうしてムアもいま理解した風なのかと腕の中にいる彼女を見てみれば、「わんっ♪」という元気いっぱいの声が返ってくる。
(……もしかしなくてもムア。本当に、ただ遊んでるだけ……?)
思い出すのは、ムアを殺さないでと懇願してきた姉・ユアの言葉だ。
『む、ムア。悪気はないんです。ただちょっとバカなだけで、純粋で……』
家族であるはずのユアをして、そう言わしめる存在こそがムアなのだ。
つまるところムアは、自身が何をしなければならないのかは理解していても、どうしてその行動をしなければならないのかというところにまで理解できていないのだろう。いや、本人にはもはや理解するつもりが無いのかもしれない。
(……なるほど)
なんとなく、“自由人”ムア・エシュラムという少女のありようを理解できた気がするファイだった。
そうして交友を深めながら階層を移動すること、しばらく。「下層」と呼ばれる領域の始まりでもある第14層の裏側に来た時のこと。
「こちらです」
リーゼが足を止めたのは、ユアの部屋の鉄扉と同じくらいの厳重さを持つ金属製の扉だ。上部には「工房」と書かれた札がかけられている。どうやらこの中に、先日エナリアに来たファイの後輩たちが居るらしい。
「先代の職人の方々が使っていたお部屋ですね」
「先代……。ミアとハクバの頃?」
確認したファイに、リーゼから頷きが返ってくる。と、ファイの腕の中で大人しくしていたムアが上体を起こし、ピンと耳を立てた。
「――戦いの音がする!」
そう言うとポンッと音を立てて煙を纏い、人間の姿に戻るムア。獣人族が獣化を解く瞬間を初めて見たファイが面食らっている間に、するりとファイの腕から抜け出したムアは、
「楽しめそうな予感……! 誰か知らないけど、あそぼ~♪」
生まれたての姿のまま、工房へと続く重い鉄扉を開いたのだった。




