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藤倉君のニセ彼女  作者: 村田天
本編
26/32

26.ノート、謝罪と裏切り



「ずっと前から好きだった」


 わたしの言葉に瑛太が目を丸くした。

 すぐには言葉が頭に入ってこないらしく、そのまま見開いた目で虚空を見つめている。


 一度出してしまった言葉は戻らない。もうそれは相手の鼓膜に届いてしまった。取り戻せない。

 じわりと広がる苦い後悔と焦り、それから荷物を降ろした小さな安堵が胸にあった。


「え、だって、尚は……俺のこと……好きじゃなくて……だから……」


 わたしの心臓が速度を増して波打っている。


「……嘘だろ?」


 返事の代わりに黙って見つめ返した。それで、彼は数秒後そこから視線を逸らした。


 沈黙があって、エアコンの低い唸りが二人の間を通り抜けていく。


「ずっと……っていつから」


「校舎裏で……初めて会った時にはもう、好きだったよ」


「……」


「嘘ついてた……」


「嘘って……どこから?」


「最初から全部。好きじゃないって言ったのも嘘。瑛太を警戒させない為。しつこい先輩も本当はいなかったよ。お兄ちゃんの後輩の桑野先輩に頼んだの。全部、瑛太が好きで、近付く為に嘘ついて騙したの。本当はわたしの方はずっと、フリをする必要なんてなかった」


 もう少しちがう言い方をすれば良かったかもしれない。だけど、あの子に言われたことが頭に残っていて、わたしを自虐的なまでに正直にさせる。これは全部本当のことだ。


 瑛太は苦々しい顔で黙ってしまった。片手で自分の髪をくしゃりと掴む。


 部屋は沈黙に満たされた。

 壁にかけられた時計が無神経にこつ、こつ、と音を刻み続ける。


 やがて、下を向いていた瑛太から押し殺した小さな声が響く。


「……ふざけんなよ……」


「ごめん……」


 瑛太は女の子の“女”の部分を嫌っている。

 恋愛の為に人を傷付けたり、嘘をついて人を騙したり、出し抜いたり、計算高く動く、そういう女の子がものすごく嫌いなのだ。

 ずっと、わたしだけはちがうと信じていたのに、信頼していたはずのわたしが最初から騙していたなんて、ショックだとは思う。彼はその部分だけは酷く潔癖なのだ。でもわたしは結局ずっと、彼の嫌う他の女の子達と本当は何も変わらなかった。


 せめて途中から好きになったと言えば良かったかもしれない。でも、それも嘘だ。嘘を打ち明けるのに結局嘘をつくなんて、したくなかった。

 あるいはわたしは、自分の狡さを彼に知ってもらいたかったのかもしれない。無邪気に信じられていた罪悪感と小さな苛立ちがそれをさせた。


 瑛太が手元のノートのページをくしゃりと掴んで、そのページの文字がひしゃげた。


 そこからまた少し沈黙があったけれど、瑛太が低い声を出す。


「そこ、寝ろよ」


 ベッドの方を目線で指して鋭く言われて肩がびくっと震える。


「え……」


「早く」


 動けずにいると立ち上がった瑛太が手を取ってベッドに引かれる。ガタンと音がして瑛太が覆いかぶさって来た。ベッドがぎっ、と軋む。


「な、なに……」


「俺のこと好きなんだろ。いいよな」


 ひゅっと息を飲んだ。


 彼の目は強い怒気に満ちている。

 そのまま無言で彼の指がぷつり、ぷつりとわたしのシャツのボタンを外していく。息が苦しくなる。悲しくてたまらなかった。


 胸の中に広がっていく生温い絶望感で身体が小さく震える。手の下のシーツをぎゅっと掴んだ。


 瑛太がわたしの顔を見た。


「……なんで泣いてんだよ」


 涙が両目に溜まっているのは分かっていた。

 視界がぼやけていってたから。瑛太がシャツから手を離して大声で言う。


「お前は…………俺のこと好きなんだろ!」


 激昂したような声が耳の中に入り込む。声の怒りの中に小さな悲しみを見つけてしまって、余計にたまらなくなる。

 涙は後から後から湧いて出る。止められなくて、苦しい。呼吸がどんどん浅くなっていく。


「だから、なんで泣いてんだよ!」


 投げ捨てられた言葉。そんなの、決まってる。


「瑛太が……わたしのこと、好きじゃないから……」


 瑛太が息を飲んだ。


「だから、悲しい……」


 好きな子には、無理やりこんなことはしない。苛立ちまぎれに欲望の捌け口になんて。彼にとってさっきまでヒトとして尊重していた相手はモノになってしまったんだ。

 それは言葉で言われるより残酷な、告白の返事に感じられた。


「瑛太に触られるのは嫌じゃないよ……。だけど……」


 初めてこういうことをする時は、自分が好きになった人に、自分のことを好きになってくれる人に、優しくされたかった。


「でも、それで瑛太の気が晴れるなら、いいよ……騙しててごめん」


 結局、涙は止められなくて、わたしは泣いた。自分でやったこと、わかってて打ち明けたことなのに。


「ムカつく……」


 ずっと黙って動きを止めていた瑛太がわたしの身体の上からどいた。


「俺、尚だけはそういうことする女だと思ってなかったのに」


「……ごめんなさい……」


「帰れよ」


「……」


「早く……。俺何するかわかんねえから」


「……うん」


 シャツの前を合わせて逃げ出すように部屋を出た。


 玄関を出るとさっきまで明るい昼だったのが、あっという間に夕方の混じった懐かしいような橙に変わっている。エアコンのきいた部屋から抜け出して浴びた夕方の陽は思った以上に蒸していて暑かった。


 わたしはそこでのろのろと、みっつ開けられた制服のボタンを直した。


 あの部屋に残っている瑛太のことを考える。


 可哀想で、申し訳なくて、だけど憎らしい。


 笑って許してくれるとは思わなかったけれど、やっぱり心の何処かで少しは近いものを期待していたのかもしれない。あんな風に強い怒気を向けられてショックを受けていた。そして怒りよりも、彼の傷付いた目が、声が何倍もわたしを打ちのめした。


 重い足を前に進めて、風景がきごちなく変わって行く。なんでも話していた兄達にも、今日は何も聞かれたく無いし、言えない。


「有村さん」


 声をかけられて振り向くと瑛太のお兄さんがそこにいた。自宅への帰りなんだろう、鞄を肩から下げている。


「……どうかした?」


 驚いた顔でわたしを見る。

 わたしはまた堪え切れない涙が出て、部屋を出たことで安心して、拭ってもいなかった。返事の代わりに出たのは「ひっ」という嗚咽まじりのしゃっくりだけだった。


「あいつ、なんかやった?」


 急いで目元を擦って首を横に振る。


「わ、わたしが悪いんです……騙してたから……」


 お兄さんが顔色を変えた。


「騙してた? ……裏切ったってこと?」


「はい……ずっと好きだったのに……黙って騙してたから……」


「……うん?」


「でも、どうしても……好きだったんです……どうしても」


 そこからしゃべれなくなった。嗚咽が苦しくて、なんとか整えようとすればする程、心のたかぶりがおさまらない。手のひらで何度か涙を拭うけれど、全然乾かない。


「有村さん、ちょっとだけ時間いいかな?」


「少し場所を移そう」と言われて背中を押されて近くの川縁の土手に出た。


 そこでわたしは、彼とのことを最初から全部話した。今日最後にあったことだけは言えなかったけれど。誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。


 お兄さんは黙って聞いていて、たまに難しい顔で眉間を押さえていた。


「瑛太は俺に高校のこと、あまり話してくれなくて、最初の頃、楽しくなさそうだとは思ってたんだよな……そんなことになってたのか」


 彼は少しの間黙り込んでふうっと溜息を吐いた。


「女の子は男に比べて成長が早くてずっとませてるだろ……特にあいつは昔から甘ったれた子どもだったから……辛かったろうな……」


 瑛太の状況は彼を知ると、まだ子供のまま目覚めていない小学生男子が大人になりかけの女に囲まれているかのようで、どこか噛み合わないアンバランスさを感じさせる。彼のお兄さんもそう思ったようだ。


「うん……じゃあ、ふたり、本当には付き合っては、なかったんだな」


「はい……ごめんなさい」


「うん、でも、あいつには悪いけど、有村さんのやったことは、俺はそこまで酷いことだとは思わないよ」


「そ……そうなんでしょうか……」


「最初は自分の為でも……あいつのこと……助けてやろうと思ったんだろ?」


「……」


「それに、好きなら俺だってそれくらいやるよ」


 力強くはっきりという声に、彼の彼女の顔が浮かんだ。


「でもな、人はどんなことであれ騙されていたと分かった時、馬鹿にされたと感じるし、その人が親しくて気の置けない奴だと思っていればいるほど、知らない部分を見せつけられたような気持ちになって、傷付く」


「……はい」


 お兄さんはわたしの落ち込みを打ち消すように優しい声で続ける。


「……けどな、瑛太はもともと人の好き嫌いが激しいやつなんだ。恵麻に対しても……何年も口をきこうとしなかったし……」


「……」


「だから俺はあいつが好きでもない人間とそんなに長い間、フリだろうがそこまで親密な付き合いを出来るとは思えない」


 そう言って、慰めるようにぽんと肩に手を置いた。夕方の風が吹いて前髪を散らす。頬の涙が渇いて肌に張り付くような感触があった。少しの間風に吹かれて、言葉をなくす。


「ただね、あいつは……怒って拗ねると……長いんだよ……」


 少し困ったように言う。わたしはさっきから悲しい波がひいて、また押し寄せて、泣いて、泣き止んでを繰り返していて。だからまた悲しさがぶり返して、ぽろぽろと泣いた。


「すいません……」


 声が消えそうになる。


「いや、いいよ。好きなだけ泣いて」


 そこまで人目のつかない川べりとはいえ、泣いてる女の子とふたりでいるのは外聞が良くないだろう。けれど、お兄さんはそういうことを全く気にしていないようだった。それがものすごく優しくて、余計に泣きそうになる。


 わたしは途中から近くにお兄さんがいるのも忘れて、吐き出すように大声で泣いた。

 悲しくて瑛太が憎くて、自分が狡くて汚くて、情けなくて、それでもやっぱり好きだった。


 限界まで泣いた後、ゆっくりと待っていてくれたお兄さんが口を開く。


「少しはスッキリした?」


「……はい。ごめんなさい……」


「大丈夫。きっと、時間が経てばわかるよ。あいつにも」


 なんとなくそこで話は途切れて、お兄さんが立ち上がって伸びをした。また溜息をついてから笑ってみせる。


「有村さん、実を言うと、俺はあいつが彼女を連れて来るって言った時、最初は嫌な予感がしていたんだよ」


「嫌な……」


「ろくでもないのに引っかかったりしたのかもってな……。でも、連れて来た君は真面目そうで、特別男好きなようにも、自己顕示欲が強そうにも見えなくて……何よりあいつは笑っていた。それですごく安心したんだ」


「……そう、なんですか……」


「瑛太、ガキだし……見た目とちがうだろ」


「……は、い」


「それでも、あいつのこと好きになってくれて、ありがとう」


 強い風が吹いて、わたしの前髪を持ち上げて、川の向こうの遠くに陽が沈んで行くのが見えた。



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