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「いや、覚えてたんだと思って」
それを聞いて、私も「ああ」と笑ってしまう。彼も、同じように思っていたらしい。自分は覚えているけど、相手に覚えられていなかったらどうしようかと。昼間に『どうしよう』ではなく、覚えられていなかった体験をしている私は、その気持ちがよく分かる。
「ちゃんと覚えてるよ。宮瀬さんの方には覚えられてなかったけど」
宮瀬さんの名前が出てくると、彼が『ん?』という顔をした。だけど、すぐに私と宮瀬さんが同じ学類ということを思い出したようで、納得したように「ああ」と声をあげる。その顔には、苦笑いの表情が浮かんでいた。
「あいつ、人見知りだから。一回会ったくらいじゃ、覚えてないかもしれないですね。会ったんですか? 宮瀬に」
「うん。会ったよ。すごく困ってたみたいだったけど」
その時の様子が思い浮かぶのか、彼がおかしそうに笑った。「究極の人見知りなんですよ」と続ける彼には、宮瀬さんの様子がよく分かるらしい。おかしそうに笑い続ける彼につられて、私も笑ってしまった。
「おい、古賀。早く帰ろーぜ」
図書館ということで抑えながらも笑っていると、彼の後ろから別の男の人の声がした。二人同時に声のした方を向くと、一人の男子学生らしき人が二つの鞄を持ってこっちを見ている。
「早くって、お前のこと待ってたんだろ」
「あれ、そうだっけ」
『古賀』と呼ばれた彼が呆れたように言うと、もう一人の方は笑いながら「まあ、気にすんな」と一つの鞄を彼に投げてよこした。
「早く行こうぜ。図書館閉まるぞ」
「ああ」
投げられた鞄を上手くキャッチした彼がこっちを振り返る。それから私の持っている雑誌に視線を落とした。
「それ、借りるんですか?」
「あ、うん。借りれるかな、と思って」
「新刊だったら、借りれませんよ?」
「あ、そっか」
今さらなことに気付いて、持っていた雑誌を棚に戻した。曲がっていた端の方が、くたっと力を失って前のめりになる。彼らは私が雑誌を戻すまで待っていてくれて、三人並んで図書館の出口に向かった。
「えーっと、古賀の知り合い?」
図書館を出たところで、遅れてやってきたもう一人の学生がひょっこり彼の横から顔を出す。
「あー、うん。まあ、知り合いっていえば、知り合いかな」
「へえ。珍しい」
意外だというように隣に並んでいる彼を見るその学生。彼はそんな友達を見て、「うるせー」と悪態をつく。私が意味が分からずにいると、その学生はにやにやと笑って私の方にまた顔を出した。
「こいつ、人見知りなんだ。知らなかった?」
「そうなの?」
思わず隣の彼を見上げてしまう。彼は『まいった』というような表情をして、「まあ……」と言葉を濁す。
そんなこと、まったく分からなかった。確かに、先に声を掛けたのは私だけど、その後の彼は比較的によく話してくれていた。それでも、そういえば、と思い出す。初めてセンターで会った時も、まったく話さなかったなと。
「知らないヤツには冷たいんだ」
「へえ」
「うるせーよ、犬居。それと、この人、俺らより年上だから。職員の人だよ」
「え?」
今度は、『犬居』と呼ばれたもう一人の方が驚いていた。私は曖昧に笑って返す。
20代後半にもなれば、人はみな同じような年齢に見られるんだろう。極端に老けて見えたり、幼く見えたりする人を除けば。
「うん。そこのセンターに勤めてるの。二つくらい授業も持ってる」
「あ、そうなんだ。えと……」
駐輪場までの途中にあるセンターのある建物を指差せば、二人とも揃ってそれを見上げる。そして、『まずい』という顔をした犬居という学生がこっちに目を戻した。その顔を見て、思わず笑ってしまう。
「芹沢。芹沢葵です。初めまして」
歩きながら挨拶すると、笑いに安心したのか、犬居という学生はほっとしたような表情になった。
「生命科学、修士一回の古賀博己です。よろしく」
「俺も生命科学の修士一回です。犬居和真っていいます」
簡単に挨拶をして、頭を下げ合う。
「二人ともバス?」
「いえ。自転車です」
「そっか。じゃあ、ここで」
「はい。また今度」
「さよなら、芹沢さん。気をつけて」
バス停の前まで来て、二人に手を振って別れる。彼らも手を振って、駐輪場の方へと向かっていった。私は私の車以外ほとんど停まっていない駐車場まで行き、自分の車に乗り込む。運転席に乗り込んで、荷物を助手席に乗せて、車のエンジンを掛ける。
車を発車させて駐車場を出ると、二人が自転車で歩道を走っているのが見えた。その横を通り過ぎて、校門を出る。この後に、宮瀬さんの家に行って一緒に夕飯を食べるんだろうか。昼間の宮瀬さんの言っていたことを思い出して、笑みが漏れた。学類が違うともなれば時間を合わせるのも大変だろうに、彼らはちゃんと時間を見つけている。古賀くんは『また今度』と言ったけれど、私がこれから彼らに会う可能性は低いだろう。生命科学の彼らとはまったくもって接点がない。だけど、ほんの数十分の出会いは楽しいものだった。
すでにバックミラーにすら映っていない彼らを思い出し、笑みを浮かべながら家路についた。
***
家に帰ると、ちょうどエントランス前に宅配便の車が止まっていた。もしかしてと思って待っていると、すぐに宅配員が外に出てくる。昨日連絡しておいた不在届けのことを告げれば、簡単な本人確認の後荷物を受け取ることができた。宅配員にお礼を言ってからマンションへと入り、エレベーターで自分の部屋まで上がる。荷物はバークレーの大学からだった。
部屋に帰るとシャワーを浴び、簡単な夕食をとってから、コーヒーを入れて荷物を開けにかかった。カッター片手にノートパソコンの電源も入れる。段ボールに貼られたガムテープを切って、中身を取り出す。荷物は、年度始めに刊行された共同論文集だった。アメリカの年度末は5月だから、その翌月に刊行されたものだ。本来なら年度末刊行予定ということだったが、間に合わずに刊行月をずらすと聞いていた。そのため、6月の中頃に帰国した私は出来上がったものを見ることはできなかった。それをわざわざ送ってきてくれたのだろう。B5サイズの本はハードカバーではなくペーパーバックのような作りだったが、表紙もしっかり作られているし、前書きや後書き、謝辞や著者紹介もしっかりとなされているもの
だった。ぱらぱらとページをめくって中身を確かめる。私の書いたものは本の中盤辺りにあって、その辺りに私と似たような分野の論文が載っていた。
段ボールを膝から下ろして、本片手にコーヒーを一口飲む。合間にパソコンの立ち上がる音がして、パスワードを入力してホーム画面が開かれるのを待つ。コーヒーの入ったマグカップをテーブルに置いたところで、段ボールの底に二つに折りたたまれている紙があるのが見えた。それに手を伸ばして紙を広げる。紙はただの紙ではなく、メッセージが書かれていた。たった二行のメッセージを読み終わって、最後に書かれている名前を見たとき、マグカップを置いといてよかったと心底思った。でなければ、あまりにも予想外なことにマグカップを落としていたかもしれない。実際、もう片方の手で押さえていた本はぱらぱらとページが戻り、ついには膝から落ちてしまっていた。
『研究所の本が刊行されたので、一冊送ります。追加が欲しければ連絡ください。 衣川誠一』
久しぶりに目にする誠一さんの字。途端に、誠一さんの顔も思い出された。落ちてしまった本は無視して、誠一さんの名前を指でなぞる。この本は、誠一さんが送ってくれたものなんだろう。大変だと口にしながらも、論文が刊行されるのを楽しみにしていた私を、誠一さんは知っている。ただの、親切心だ。このメッセージに何かを返す必要はない。
そうやって考えても、それ以上の何かがあるのではと考えてしまって、その手紙を放り投げることができない。縛られたくないと思うくせに、そこに固執してしまう自分がいる。
立ち上がったパソコンの画面と手紙を交互に見やって、パソコンのメールサーバーを開く。アドレス帳の中から未だに消すことのできていないアドレスを選び、それを宛先に選んだ。
手紙を膝の上に置き、一息ついてからメールを打った。
『本をわざわざありがとうございます。研究室用にもう一つ欲しいので、よければ送ってください』
文章を読み返して、アットマーク前に誠一さんの名前が入ったアドレス宛てに、そのメールを送信した。




