61 陛下から報告を聞きます
だが、うきうきした気分だったのもつかの間で、景雲宮へと戻った鈴花は空気に緊張が走っているのを感じ、小首を傾げて迎えに出てきた春明に顔を向けた。春山宮までの護衛を兼ねて側についていた宮女も、慌ただしさを感じて持ち場へと戻っていく。
「どうかしたの?」
目につくところで言えば、あちらこちらで下女たちが掃除をしている。皆鈴花の帰りに気が付くと礼を取るが、すぐに作業に戻っていた。
春明は少し戸惑いを浮かべて、「実は」と理由を話し出す。
「先ほど、陛下がいらっしゃるという先触れがあったんです」
「え、陛下が?」
外の回廊を歩きながら話を聞いていた鈴花は、思わず空に視線を向けた。皇帝のお渡りは夜が基本で、まだ日は高い。日が出ている時間は政治を執っているのだから当然だ。それと同時に、なぜ皆が掃除をしているのかも納得がいく。
「おそらく何か動きがあったのでしょう。報告があるとだけ言付かっております」
「ふ~ん。それでみんな張り切ってるのね」
景雲宮全体に緊張感はあるが、宮女も下女も顔が晴れやかで鼻歌が漏れている者もいる。皇帝のお渡りは宮に仕える者たちにとって、最高の名誉なのだ。
「はい、通常のお渡りではないとは伝えたのですが……なおのこと、夜も来てもらえるように宮を磨き上げないと、と」
「……熱心なのはいいけど、張り切りすぎてばてないでね」
「はい、注意をしておきますね。皆、やっと先行きが明るくなってきて、喜んでいるのですよ」
そう話す春明も心なしか嬉しそうで、鈴花の表情も柔らかくなる。
「そうね。来る皇帝が皇帝だけに複雑な気分だけど、皆が喜ぶなら悪くないわね」
春明も同じ思いだったのか、くすりと笑い「そうですね」と返した。やって来るのが宵だと思うと、今まで気軽に接していただけにむずがゆさがある。
「はい。もう少し時間はあると思いますので、それまで自室でお休みください」
「そうするわ」
皇帝の渡りともなれば、着飾り、化粧も気合を入れたものにするのが普通だが、すでに一級品の襦裙を身に着けており、化粧も手直しをすればいいくらいだ。何より、今更翔月相手に気合を入れたところで笑われる未来しか見えなかった。
そこで、鈴花は潤にお土産として渡された、市井で流行っている娯楽小説を読みながら時間を潰すのだった。
鈴花が小説を半分くらい読んだところで、皇帝が奥殿を出たという先触れが届き、景雲宮の宮女たちが迎える準備を始めた。春明が鈴花の服装と化粧を整え、万全の状態で迎えに出る。勝手を知っている宮なのだから、好きに入って来ればいいと思うが、形式というのは大切らしい。
何より宮女たちにとっては、こうやって出迎えることが楽しみであり、仕事の醍醐味だ。皇帝の目に触れて気に入られ、妃嬪となった宮女も歴史的には珍しくない。特に先帝の時代は宮女がお手付きになることも多かったのだ。
表に鳳輿が付けば皆の期待感が高まる。そして姿を見せた皇帝は藤色の袍を纏っており、金糸で織り込まれた鳳凰が見事だ。髪は纏められ、冠を乗せている。そばかすは消えており、宵とはまるで別人だ。宮女たちはその凛々しい姿に圧倒されており、鈴花も内心「化けたわね」と驚く。
(皇帝の役、合ってるじゃない)
鈴花は恭しく礼を取り、「よくおいでくださいました」と挨拶をした。
「堅苦しい作法はなくていい」
鼓膜をくすぐる弦楽器のような美声であり、皇帝をさらに魅力的に見せる。鈴花は計算尽くされた演技に溜息をつきたいのを堪え、房室へと案内するのである。そして春明以外に人払いを命じ、聞き耳を立てるものがいないか十分確認した後で戸を閉める。
その瞬間、姿勢よく椅子に座っていた翔月は体の力を抜き、冠を取って背を預けた。
「あ~、疲れた」
気取った声ではなく、人間味のある声を出す翔月に、鈴花も妃嬪としての態度を引っ込めて呆れ顔になる。
「そりゃあ、あれだけ作り込んでいたら疲れるでしょうよ」
「皇帝として振舞うのはまだしも、俺がそこそこできると判断したじじいたちの難題がひどい」
翔月は春明が淹れたお茶を一気に飲むと、息を吐いた。すぐ飲める温度にしているあたり、春明も気遣っているのだろう。
「じじいって……」
皇帝に物申せる壮年の臣といえば、左丞相と太師を含む政治を統括する三人くらいだ。誰も一癖も二癖もある人物だと聞いているので、鈴花は「ご苦労さま」と労いの言葉をかけるのだった。翔月は小腹が空いていたのか、点心をつまみ、二つ、三つと食べたところで「それでさ」と姿勢を正し本題に入った。
「珀家の処遇が決まった」
鈴花はやはりその話かと、背筋を伸ばし心して聞く。
「右丞相が皇位争いへの関与を認めたんだ。詳細はまだ明らかになっていないが、今後さらに取り調べを進めていく。それが終わり次第、処刑だ。本人曰く、玉座を狙ったのは野心からだそうで、山間の部族には勝てば国を半分やると言っていたらしい。まだそれだけしか分かっていない」
右丞相の口をなかなか割らせることができず難航していると、零す翔月の表情は硬い。顎に手をやり視線を落としており、何かを考えているようだった。
「……それで、今回珀家についたものはその度合いに応じて処罰していく。あまり首を切ると、朝廷が回らなくなるからな。だが、中には別件で不正を働いていたものもいるようだから、朝廷は浄化が進むだろう」
その辺りは左丞相と太師が腕を振るっているらしい。
「政治がしやすくなるなら、いいことね。……それで、珀妃は?」
鈴花としては、彼女の処遇は気になるところだ。翔月は「あぁ」と低い声を返し、悩ましそうに眉間に皺を寄せた。
「結論から言えば、国外追放だ。右丞相は公子を殺害し、国に乱を招いた大罪人。一族郎党処刑するのが常だ……。だが、即位から日が浅く建国祭もあるため、恩赦をという声もあって、意見が割れた。あまり命を奪うと負に傾くって、易学のやつらが主張してきたんだよ」
「あぁ……そうでなくても、最近血が流れ過ぎているものね」
いたずらに命を奪えば血が流れ、国が負に傾く。そうすればさらなる災厄を招くという考えが昔からあった。鈴花はひとまず珀妃の命があると知り、少し気持ちが楽になる。後宮を乱し、父親を止められなかった点で責はあるが、直接関与していたわけではなかった。そのため処刑されれば後味が悪いと思っていたのだ。
翔月は重いため息をついて、春明がお茶を注いだ茶杯に手を伸ばす。
「そう。だから、珀家は家を潰して右丞相と計画に関わっていた者は処刑。関係の薄かったものは国外追放になった」
「そうなのね……教えてくれてありがと」
「あぁ。処罰を決めるだけで半日が潰れた……本当に嫌になる」
翔月はお茶を飲み干すと、ふぅと軽く息をついて立ち上がった。そのまま吸い寄せられるように長榻へと向かい、横になる。体を伸ばす姿は猫のようで、鈴花は口元を緩めた。
「ちょっと休む。春明、もし朝廷から催促が来たら小鈴といい感じだからって追い払っといて」
肘置きに頭を乗せ、だらりと体の力を抜いている。春明は「かしこまりました」と頭を下げ、隣の房室に下がっていった。鈴花も寝るのなら席を外そうと立ち上がりかけたところに甘えた声がかかる。
「なぁ小鈴。二胡を弾いてくれよ」
「……え?」
「前に聞いた二胡、すごくきれいだった」
すでに眠たそうな声で、瞼も半分閉じている。鈴花はしかたがないわねと春明に取って来てもらった。長榻の側に椅子を置いて、眠りの邪魔にならないように、静かでゆったりとした曲を奏でる。翔月の表情は和らぎ、安心しているようだった。
(こうやって見ていると、翔月は翔月なのね……)
二胡を弾きながら目を閉じている翔月の顔を眺めていると、宵とは違う表情をしていることに気づく。意地悪で勝気な笑みではなく、穏やかで優しさが溢れる笑み。それを見ていると胸のあたりが温かくなってくる。
「……小鈴」
翔月は細く目を開け、ふわりと微笑んだ。毒気のない笑みに鈴花の胸は高鳴る。
「小鈴がここにいるなら、俺は頑張れる気がする……」
「陛下……」
「なぁ、翔月って呼んで?」
甘えた声で発せられたお願いに、鈴花の頬は朱くなる。蕩けるような黒い瞳に見つめられ、鈴花は恥ずかしさから少しぶっきらぼうになった。
「……翔月、様」
すると翔月は幸せそうに顔をほころばせ、そのまま目を閉じた。ほどなく規則正しい寝息が聞こえ始め、鈴花はさらに二胡の音を小さくする。
(何よ……こいつ)
弦を押さえる指が震える。顔を見ていられなくて、俯く鈴花の顔は紅潮していた。そして西の空が赤くなり、しびれを切らした朝廷からの催促が三度目を超えるまで鈴花は無心になって二胡を弾き続けたのだった。




