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40 枝垂桜の下にて……

 小さな羽を散らしながら飛び立つ鳩。巻き起こした風で栗色の髪が流れ、土ぼこりから顔を守ろうと彼は腕で顔を覆った。


「うっわ、びっくりした」

「……こ、こっちのほうが驚いたわよ」


 過走廊(わたりろうか)のすぐそばにいたのは宵で、鳩のように目を丸くしていた。飛んだ鳩たちは周りの木に避難しており、愉快な鳴き声が響いている。後宮で鳩を見るのは珍しくはないが、これほどの数が集まることはない。


「何で鳩……あなたのせいね」


 不思議に思った鈴花だが、それはすぐに彼の手の内にあるものに目をやった途端理解する。彼は蒸した麺麭(パン)である花巻(はなまき)を持っていたのだ。


「さっき起きたとこでさ、厨房に花巻がけっこうあったからもらってきた。最近、こうやってここの鳩に餌あげてんだ」

「あんまり餌付けしすぎると、庭師に怒られるわよ」


 鳩は数匹なら可愛く愛でられるが、数が多いと庭が汚れる原因となる。宵は花巻にかぶりつき、「わかってるって」と軽く返す。腰にひっかけている袋から次の花巻を出し、ちぎって投げれば鳩が寄って来た。


「小鈴もやる?」

「……まぁ、いいけど」


 鈴花も暇なので花巻をちぎっては投げ、ついばむ鳩たちをぼんやりと眺めていた。最近気が張り詰めていたので、ゆったりとした時間は久しぶりだ。しばらく互いに無言だったが、持っていた花巻を全てあげた宵が鈴花に視線を移した。何か言いたげであり、それに気づいた鈴花は目だけで「何?」と問いかける。


「……ああいうこと、よくあるのか?」


 珍しく表情が翳っており、心配そうに鈴花を見ていた。鈴花は目を瞬かせた後、「そうね」と頷く。


「よく、というほどは起こらないけれど、珍しくもないわ。毒殺のほうが多いけれど、昨日みたいに門衛が眠らされたりしたら、容易に侵入されるもの」


 春明からの報告では、進入路は北と西の門だと聞いた。北は常に閉ざされているが、両方門衛はいる。その門衛を眠らせた後、鍵縄を使って登った形跡があったそうだ。実際死体の持ち物に鍵縄もあった。


「こんな危ないとこに、居続けるのか?」

「ああいうのは、皇帝がちゃんと国を治めればいなくなるわ。こっちだって迎撃できるし、それほど危なくないの」


 むしろ昨晩で玄家に戦力があることを示せたため、今後襲撃は起こりにくいはずだ。毒殺や身内に扮した暗殺を警戒しなければならなくなるだろう。

 今後について思いを巡らす鈴花に対し、宵は腕を組み、何かを考え込むそぶりを見せた。真剣な彼の表情を見ながら、鈴花はそういえばと思い出す。


「昨日は助けに来てくれてありがとね。ちゃんとお礼を言えてなかったわ」


 鈴花の名を呼んで駆けつけたのは減点だが、あの状況で助けようと動けたことは賞賛に値する。そう素直にお礼を言えば、宵は鳩が豆鉄砲を食ったように目を真ん丸にし、ぽかんと口を開けた。


「……小鈴、礼を言えるんだな」

「失礼ね!」


 鈴花が目を吊り上げると、「ほら怖い」と宵はケラケラ笑う。いつだって気安く、軽い調子の宵を見ながら、確かに出会ってから厳しい言葉をかけたり軽く脅したりしたほうが多かったかしらと鈴花は少し反省する。


「けど、よく襲撃に気づいたわね。賊は離れには来なかったんでしょ?」

「ん? あぁ……なんか目が覚めて、外の空気でも吸おうと戸を開けたらなんか動いてさ。最初は獣かと思って、物置から剣と盾取ったところで人影が見えたから叫んじまった」

「野生の勘ってやつかしら」

「たまたまだよ」


 離れには警戒用の鈴をつけていなかったので、気づけたのはなかなかの強運だ。鈴花は「ふ~ん」と頷き、麺麭の最後の欠片を地面に投げると、手を払った。


「もし他家の中に本物の皇帝がいたなら、あなたを本格的に影武者に訓練するのもいいかもね。素質は十分ありそうよ」


 声や動作を再現できる器用さや頭の回転のよさ、それに勘も鋭い。玄家の訓練は死ぬほど厳しいけどと訓練に泣いた過去を同時に思い出してしまい、鈴花は視線を遠くへやった。その視線の先に枝垂桜を捉えて、そういえば一輪咲いた花を見に来たんだったと本来の目的を思い出す。


「そうそう、枝垂桜が咲いたらしいのだけど、もう見た?」

「……いや?」


 鈴花はそう言いつつ、池を回って向こう側にある枝垂桜のところへと向かう。自然と宵も付いて来て、「枝垂桜ねぇ」と呟いた。その顔は面白くなさそうで、口角を上げて茶化すような笑みを鈴花に向ける。


「桜の精、まだ信じてたりすんのか?」

「そんなわけないでしょ!」


 宵がそうやってからかって遊ぶから、鈴花はつい声を荒げてしまう。鈴花はむくれた顔になり、歩く足を速めた。


 そして枝垂桜に近づけば、垂れさがった枝の真ん中あたりに一輪だけ可愛い薄桃色の花が咲いているのを見つけた。これが満開になればさぞかし美しいだろうと、鈴花は顔をほころばせる。この木が見ごろを迎えるころには、全てが解決していてほしいと願う。

 宵は小さな花を見上げてから、鈴花へと視線を戻した。


「小鈴……俺、昨日賊に囲まれるお前を見て思ったんだ」


 その声は固く真面目な口調。鈴花が宵へ顔を向ければ思ったよりも真剣な瞳で、心がざわついた。緊張を含んだ宵の声は皇帝に近くなり、宵の後ろに仮面の姿が重なって見える。


「俺、小鈴を守るために皇帝になりたいって。お前は俺が何言っても、この国のためだ、玄家がって言って、頑張るんだろ? なら俺は、お前が頑張れるような国を作ればいいだけだ。仮面の皇帝よりも、俺の方が上手くやれるさ」

「……何、言ってるのよ」


 その声も言葉も優しく、まるで皇帝が話しているような錯覚に陥る。


「ちょっと、皇帝の真似ができるようになったからって、全然違うんだから」


 鈴花たちが宵を皇帝の身代わりに仕立て上げたのに、逆に惑わされていた。宵は一歩鈴花との距離を詰めると、じっと見つめる。


「……何よ。この前みたいに掴んできたら、遠慮なく池の中に投げ落とすわよ」


 玄家の裏の顔を知られた今、遠慮することはないと鈴花が身構えると、宵は残念そうに肩を落とし溜息をつく。顔に大きく「がっかり」と書かれているのが、なんだか腹が立つ。


「ほんと、可愛げも色気もないな。ちょっとくらい……」

「ちょっとくらい?」

「何でもない」


 鈴花が眉を上げたからか、その先の言葉は飲み込むらしい。


「小鈴……俺は、お前にとって普通のやつかもしれねぇけど、何かあったら頼れよな。一人で抱え込む必要なんてないんだからさ」

「あなたこそ、珍しく優しいわね」


 その言い方が宵らしくなくて、鈴花は照れ隠しにそっけない態度を取ってしまう。少し意地悪で小憎たらしい宵に優しくされると、なんだか調子が狂う。そんな鈴花を見つめる宵の表情は柔らかく、目元が緩んでいた。


「惚れた弱みだ」

「惚れっ……」


 気持ちをそのまま口にするところはいつも通りで、鈴花は心臓を掴まれたような心地になる。宵は顔を少し鈴花に近づけ、艶のある声で囁く。


「だからさ、少しくらい俺といる未来についても考えてよ。后妃になりたいなら俺がさせてやるし、ここから逃げたいなら俺が逃がしてやる」


 月の無い夜の亭が思い出され、鈴花の頬に朱が差した。ほんの一瞬だけ、彼と市井で暮らす自分を想像してしまい、愕然とする。それを見られたくなくて、鈴花は拗ねたようにふいっと顔を背けた。


「勝手なこと言わないで、私には立場があるもの」

「俺はいつだって勝手だぜ。少しくらいわがままになってもいいだろ」


 宵の言葉は甘い点心のように、危ない薬のように鈴花の心に迫り寄って来る。それに呑まれそうになる自分を感じて、鈴花は恐怖に鳥肌が立った。


 そこから逃げたくて苦し気に眉根を寄せると、返事もせずに枝垂桜の下を後にする。宵が追ってくる気配はなく、足取りは徐々に早くなった。


「小鈴、俺は本気だからな」


 その背に、一言だけかけられた。その言葉に、鈴花は揺らぐ。


(なによ……そんな簡単な話じゃないのに。もっと、考えて、慎重にいくべきなのに……。なんでそんなことが言えるのよ。なんで私は、こんなに考えがまとまらなくなるの?)


 鈴花は玄家の娘であり、国を支える義務がある。そこに鈴花は疑問を持ったこともなかった。だが、宵に逃げようと言われて、一瞬揺らいだ自分を認めざるを得ない。


(なんで? なんで……?)


 自分が自分でないような。常に感情を制御できていたはずなのに、宵といると狂わされてしまう。その答えはそう簡単に出ない。いや、出したくない。鈴花は離れの自室へと駆け込み、衾褥(ふとん)の中にもぐりこんだ。固く目を瞑り、頭の中を空にする。


(そんなこと、ないわ。ないんだから……)


 そしてそのまま寝てしまい、日が暮れてから春明に起こされた鈴花は、重い頭に手を当てたのだった。


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