最後にひとつだけ
「斉木さん……ごく稀に、あなたのような人がいるんです。ここへ入った後に、それが覆るような人が……」
「え?! 」
「病院関係者が何とか踏みとどまらせようと、手を尽くして頑張ってくれたみたいですね。うん、きっとそう。事故の状況を知って、この病院の中に残されていた、あなたのカルテと身体を見れば、誰でもそう思って当たり前なはずなんだから! こうなる可能性だって、最初から無くはなかったんですよ。それにしても、ああ、本当によかった! 早くその扉に……! 」
俺は椅子を蹴飛ばすような勢いで、思わず立ち上がった。
「でも少し力が弱いみたい、私が助けますから、早くその扉から外へ出て下さい! 」
「本当に戻れるのか?! 」
俺の言葉に、ほっとしたように女が大きく頷いて見せた。
性格がきつくて強そうなギャルではない、普通の優しそうな女の子の顔に見えた。
気が緩んで本当の素顔が出たのかもしれない。
少しの変化でそんな風に感じてしまったのは、ただ俺が単純すぎるせいなのかもしれないが。
最初から、この様子だったなら、理系な学校を出て、職場も男ばかりで出会いもなくて、環境的に女の子に全く免疫が無い、俺は惚れてたのかもしれないのになぁ、惜しいことをした、なんて別れ際の今になって、何となく思った。
元の身体に戻った後は、もう二度と、俺は彼女には会えないんだろう。
だからこそ、余計にそう思った。
「災い転じて何とやらですよー。他のところだと相談室も、建物の立て直しに伴って、何処ももう電子化されちゃってますから、やろうったってなかなかごまかせないんですけど、ここならまだアナログなまんまだから、改ざんだってやろうと思えば出来ちゃうし! さ、早く行っちゃって下さいねー」
「そんな風なんだ」
「そんな風なんですよ。何でもかんでも電子化すると、便利だけどやりにくくなって、そのせいで難しいことも、時にはあるんですよー」
「そうか」
「斉木さんって、生まれた時から、何歳まで生きられるか分からないって言われてて、身体中が手術の傷痕だらけの、あなたがせっかく元気で暮らせるようになったんだから、もう誰かを庇って、車にはねられたりしちゃ、絶対駄目なんですからね? ちゃんと生きててください。私との約束ですからね! 」
「知ってたの? 」
「知ってますって、そりゃ。だから、斉木さんが部屋に入ってくる前には、どうすればいいか分からなくて、緊張で心臓がバクバクしてて、やたらテンションが変に高くなっちゃったんですよ、私! 」
さっきのあれをテンション高いだけで済ます気か。
「あはは。ごめん、俺の昔の子供の頃を知ってる人じゃないと、外から見ただけだと、今は誰も気が付いてなんかくれないから、分かってもらえてよかったよ。なんだかんだで心配してくれていたんだね、ありがとう」
「お礼なんて言わなくていいですから、早く行ってください! せっかく開いた帰り道が、本当に消えて無くなっちゃいますよ! 」
「最後にひとつだけ……名前、まだ聞いてなかったから、教えてくれないか? 」
「葵です。戻ったら、ここで起きたことなんて、全部忘れちゃうかもしれませんけどねー」
「俺は忘れないでいるつもりだけど? 」
「あ、そうだ! もうひとつだけ! 本当は斉木さんのような人が、元の身体に戻るのって、原則禁止事項なんですよ! だから、ここでのことは覚えていたとしても、私達ふたりだけの秘密ということで、今後もずっと黙っていて下さいね! 」
最後にそう言った、葵の言葉を聞いて、俺のこの臨死体験のような、短くもめまぐるしい怒涛の時間はようやく終わった。
葵の言葉に反して、あの部屋での記憶は、そのまま消えることなく、病院のベットの上で目を覚ました、俺の中に残ったままになっていた。
奇跡的に事故としての目立った後遺症は特に無く、俺はしばらくの入院後、また元の生活に戻った。
あの時助けた、子供の親には、後に随分感謝された。
だからと言っても、俺の人生が何かが特別に劇的に変わるわけでもなく、今も相変わらずな大して変わり映えのないような、地味な生活を続けている。
少し前にあの病院の前を通りがかったら、既に老朽化しすぎていた建物の取り壊しが始まっていて、何台もの解体用の重機が唸りを上げていた。
それを見て、俺がもう一度、何処かで葵と会えるかもしれないと感じていた、最後に残されていたなけなしの繋がりは、もう完全に消えて無くなってしまったんだな、と何となく淋しく思った。
今年、俺は親と同居している古い家の庭に、立葵の花を植えた。
葵が花の名前であると知ったのは、少し前のことだった。
ホームセンターの園芸コーナーで買ってきた時には、小さくて頼りなさそうに見えた、立葵の苗は、夏の日差しの中でぐいぐい伸びて、今では家の塀よりも高くなりそうな程の大きさにまでなっている。
何処でもこっちの都合も考えずに、幅をきかせようとするのが、何となく似ているような気がするのは気のせいか?
センチメンタルでもないけれど、その立葵への毎朝の水やりが、俺の日課になった。
今朝も乱反射するような日差しが眩しい。
さあ出かけようか。
前を向いて、色々な人が繋いでくれた、大切な自分の時間を生きていく為に。




