60.主任と私の物語
「猪野、そっちを支えていてくれ」
「お任せください!」
キャンプ初参加の突撃くんは、出発した時からテンションが高い。
「丸山さん、じゃなかった。猪野さん、の奥さん、手伝ってもらってもいいですか?」
「由香先輩、その呼び方はおかしいです。丸山さんが困ってるじゃないですか」
「そ、そうだよね」
「えっと、丸山で、いいです」
こちらも初参加の、戸籍上は猪野さん、会社では丸山さんが恥ずかしそうに笑う。
ふと見ると、ポジティブくんが自分の荷物から何かを取り出そうとしていた。それを見た志保が、鋭い視線を送る。
「前江さん。遊びは後でって言いましたよね」
「ごめんなさい……」
ボードゲームを手にしたポジティブくんが、叱られた子供みたいにしょげていた。
手分けしてテントとタープを設営し、テーブルと椅子を並べると、主任がシングルバーナーを出してくる。
「コーヒー飲む人は……」
「はい!」
「はいはい!」
「えっと、全員だな」
主任は苦笑い。
「カップ洗ってきますね」
「じゃあ私はお水を!」
私と志保が、カップとやかんを持って洗い場へと向かった。
最初と同じキャンプ場に、最初と同じく朝一番でチェックインした私たちは、これまた同じように朝のコーヒーを楽しんだ。
最初と違うのは、猪野夫妻がいること。車も二台になって、今回は六人での賑やかなキャンプだ。
キャンプチェアに埋もれながらポジティブくんが言う。
「やっぱりマイチェアはいいなぁ」
今回のために、ポジティブくんは自分用のチェアを購入していた。
「そうですねぇ。これで仕事がしたいですぅ」
同じく自分用のチェアで志保が目を閉じる。
この二人は、すっかりキャンプにハマってしまったようだ。
静かにコーヒーを飲んでいた主任が、みんなに聞く。
「ところで、この後の買い出しは……」
「主任と由香先輩でお願いします」
速攻で志保が答えた。
初参加の突撃くんが、気を遣って言う。
「俺も行きましょうか?」
腰を浮かせた突撃くんを、志保が睨んだ。
「二人で行かせてあげてください」
「そ、そうだよね」
ポジティブくん同様、突撃くんも志保には逆らえないようだ。
三人の年次を考えると不思議な関係と言えるが、私はそれでいいような気がしている。先月から志保に経費精算を任せるようになったのだが、それ以来、この二人のミスが激減したからだ。それどころか、最近ではなぜか営業成績まで向上している。まさに志保様々だ。
苦笑しながら主任が立ち上がる。
「じゃあ長峰、行くか」
「はい」
同じく立ち上がる私に向かって、志保がこっそりウィンクしてきた。
まったく、この子は
志保の頭をコツンと叩く振りをして、私は主任と車に向かった。
デコボコの林道を抜け、舗装された道路に出たところで私が聞く。
「そう言えば、妹さん、こっちに戻ってくるんですよね」
「ああ。来月には本社勤務になるらしい」
一年目から単身赴任していた妹さん。某有名大学に通っていた彼女は、社会に出る時、給与の額最優先で仕事を選んだ。
理由は、借金返済のためだ。
事故の後、長峰家への賠償金は主任が、自分の家の借金は妹さんが支払うことにしたそうだ。
その借金も、ついに返済のめどが立ったらしい。さらに、妹さんの働きが認められて本社に栄転になったとのこと。
「お母様も一安心ですね」
「まあな」
必死に働いて三上家の生活を支え続けたお母様。
凜として気高く、それでいて優しい。
初めて会った時から、お母様は私の尊敬の対象になっていた。
緩やかなカーブを曲がりながら、今度は主任が聞いてきた。
「お母さんは大丈夫か?」
「はい。寝込むこともなくなって、元気いっぱいです」
母はすっかり元気になっていた。
パートから正社員になって、今では週五日、休まず働いている。
「弟さんは?」
「和人は変わりません。ただ、取引先に出向になったせいで、”在宅勤務がなくなったー”ってぼやいてましたけど」
二年目からは在宅勤務かも、という淡い期待を打ち砕かれて、弟は不満たらたらだ。
そんな弟に、私は言ってやった。
「若者よ、苦労は買ってでもするものなのだよ」
頬を膨らませる弟が、社会人として立派に育つことを願っている。
カーブが増えてきたせいか、主任が運転に集中し始めた。会話が途切れ、エンジン音と風音だけが車内に響く。
外を流れる風景を眺めながら、私は最近の出来事を思い出していた。
あの夜の公園以来、本当にいろいろなことがあった。
私と付き合うには私の家族の許しが必要だと言って、主任が実家に挨拶に行った。
挨拶からの、主任の土下座。
慌てる母と、仏頂面の弟。
その後の地道な活動が功を奏して、今では弟も笑って接してくれている。
主任と付き合うにはご家族への報告が必要だと思って、私が先方にご挨拶に行った。
自己紹介が済んだ後の、母娘揃っての土下座。
慌てる私と、途方に暮れる主任。
その後の交流で、こちらもいい関係を築けている。
賠償金については、長峰家がその権利を放棄した。
両家揃っての食事会で、母が宣言している。
「もう十分です。これからの人生は、どうか皆さんご自身のために使うようにしてください」
号泣する妹さんをお母様が抱く。
主任は、天井を向いて必死に涙を堪えていた。
不幸な出来事を乗り越えて、両家は前に進み始めた。
幸せを求めてもいいのだとみんなが思い、幸せに向かってそれぞれが歩き始めていた。
ふいに日差しが目に飛び込んでくる。
眩しい光に目を細めながら、私は小さく微笑んだ。
緑ばかりだった風景に、いくつもの建物が混じってくる。
車が街に入ったあたりで、私が聞いた。
「ところで、主任は本当に一課には戻らないんですか?」
主任は即答だった。
「二課は、うちの会社に必要な部署だ。猪野と前江と俺の三人で、二課を盛り上げていきたい」
以前にも聞いていたその答え。
小さくため息をついて、私が言った。
「分かりました」
松田部長が、主任の一課復帰を検討してくれていた。
その話が持ち上がった時、主任が私に言ったのだ。
「俺は、二課に残りたいと思う。それでもいいか?」
本音を言えば、一課に戻ってほしかった。その方が間違いなく年収が上がるからだ。
だが、私は主任の言葉に頷いた。貧乏には慣れているし、何より、主任にはやりたいことをやってほしいと思ったからだ。
「ところで」
今度は主任が、小さな声で言う。
「その、何だ。俺のことを、主任と呼ぶのは、そろそろどうにか……」
驚いて横を向けば、主任の頬がほんのり赤い。
途端に私も顔が熱くなる。
「そ、そうですよね。いつまでも主任って呼ぶのは、おかしいですよね」
うつむいた私が、もう一度隣を見る。
「じゃあ、名前で呼べばいいですか?」
「えっと、そうだな」
それだけ言って、主任は黙った。
主任の顔はますます真っ赤だ。私まで恥ずかしくなってきたが、同時に、ちょっといたずら心が湧いてきた。
「主任ことを名前で呼ぶなら、私のことも、名前で呼んでほしいなって、そう思うんですけど」
「え?」
びっくりしたように主任が私を見る。
それに私はびっくりした。
「だって、私は”長峰”って呼ばれるのに、主任のことだけ名前で呼ぶなんて不公平じゃないですか」
「そ、そうかな」
「そうですよ。だから、私のことも名前で呼んでほしいです」
当然の主張だと思うのだが、主任にとっては予想外だったようだ。
「それは……」
動揺しまくりでハンドルを握る。
「どうなんですか」
横顔に私が迫る。
主任は視線を前に固定したまま車を走ら続けた。そのまま車はスーパーの駐車場に入っていく。
車を停めた主任が、やっぱり前を向いたまま私に言った。
「じゃあ、俺も主任のままでいい」
「えぇっ!」
私が叫んだ。
「それはひどいです!」
「ひどくない。俺が主任なのは間違いないからな」
「もー、この頑固者!」
私の声を無視して主任が車を降りる。
私も慌てて車を降りる。
ドアをロックした主任が、スーパー目掛けてもの凄い早さで歩き出した。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
広い背中が前を行く。
私がそれを追い掛ける。
追い掛けながら、私は思った。
この人は、これからもこんな感じなんだろうなぁ
ため息をついた私が、前を見て、微笑んだ。
主任の歩みが緩くなっている。
ちゃんと私を待ってくれている。
追い付いた私が、その背中に触れた。
大きな背中。
頼もしくて、とても暖かい。
その優しさと体温を感じながら、小さな声で、私が言った。
「大好きです、雄介さん」
背中が硬直したが、やっぱり振り向いてはくれなかった。
まあ、仕方ない。今はこれでよしとしよう。
主任と私の物語は、まだ始まったばかりなのだから。
主任と私 完




