58.決戦は土曜日
「猪野さん」
「お-、長峰さん。なに?」
「今日は月末です。経費の精算は明日の午前中までに必ずお願いします」
「うん、分かって……」
「明日の午前中まで。いいですね?」
「……はい」
突撃くんが目を瞬かせる。
「志保」
「はい!」
「私がミスしないように、しっかり見張っておいてね」
「えっと……」
「頼んだわよ」
「わ、分かりました」
請求処理をしながら、後輩に無茶振りをする。
「長峰さん、何かあったの?」
「私にも分かりません」
「いやいや、絶対何かあったでしょ」
「だから知らないですって」
ポジティブくんと志保の会話も完全スルー。今の私には雑音でしかない。
決戦は土曜日。それまでの平日を、私は鬼気迫る表情で過ごした。
少しでも気を抜けば気持ちが萎んでしまう。
少しでも油断すれば、決心が鈍ってしまう。
そんな危機感が私を鬼にした。
月初恒例、秘密の資料作りの後、部長が私に言った。
「長峰くん、今度何かご馳走するから……」
「結構です」
この後しばらく部長が落ち込んでいたが、それを気にする余裕も私にはなかった。
周囲を怯ませ、自分を奮い立たせながらその週が過ぎていく。
そして、ついに土曜日がやってきた。
買い物デートの時と同じ場所で、私は主任を待っていた。ただし、時刻は夕方にしてもらっている。
理由は単純。明るい場所で主任に向き合う自信がなかったからだ。
戦場に選んだのは、前回行くことができなかった公園。ここから向かえばちょうど暗くなる頃に着くはず。適度に人もいると思うので、沈黙をごまかすのにも都合がいい。
服装には、スーツを選んだ。戦う服と言えばスーツだと思ったからだ。
就職活動で使っていたリクルートスーツではなく、グレーのパンツスーツ。代官産業にお詫びに行った時に着ていたものだ。
主任はラフな格好で来ると思うので、当然チグハグにはなるが、そこは目を瞑ることにする。私の戦意高揚が優先だ。
作戦は、とくにない。突撃くんとポジティブくんを見習って、猪のように前に進むのみ。
時計を見れば、約束の時刻まで十分ちょっと。主任のことだから絶対早く来るはずだ。
心臓が早鐘を打ち出す。手に汗が滲む。
まだ顔も見ていないのに、私の緊張は高まっていった。
だが。
時間になっても主任は来なかった。
五分待っても、十分待っても来なかった。
まさかのドタキャン?
これは完全に想定外だ。主任を待つことになるなんて考えもしなかった。
三十秒おきにスマホを見る。
着信がないか確認する。
緊張していた私の心に、今度は不安が忍び寄ってきた。
主任に何かあったんじゃ……
心配し始めた私の耳に、隣のグループの会話が飛び込んできた。
「タカシ遅れるって。人身事故で電車が止まってるらしい」
「そうなの?」
「じゃあ先に行ってる?」
電車が遅れているのか。それなら仕方ない。
そう思ったのだが、それでも不安は拭えない。
一分待ち、二分待ち、三分我慢したところで、私はスマホのメッセージアプリを立ち上げた。
その時。
「ごめん!」
目の前で大きな声がした。
びっくりして顔を上げる私の前に、荒い息をした主任がいた。
「出るのが遅れて、おまけに人身事故で電車が動かなかったから、隣の駅から走ってきた」
走ってきた!?
驚く私の目に映る主任は、なんとスーツを着ていた。しかもネクタイまで締めている。
「もしかして、仕事だったんですか?」
「いや、そうじゃないんだが」
仕事じゃない?
じゃあどうして?
首を傾げる私に、思い掛けない答えが返ってきた。
「長峰と、ちゃんと話さなきゃって思ったんだ。それで、ちゃんと話すなら、その、スーツの方がいいのかなって……」
主任が目をそらす。
「でも、長峰はスーツなんて着てこないだろうし、俺だけスーツはおかしいし。そんなことを考えていたら、家を出るのが遅くなってしまった」
遅れた理由がそれ?
まさかの理由を聞いて、私は何だか腹が立った。
「行きますよ!」
鋭く言って、クルリと向きを変える。
慌ててついてくる主任に、前を向いたまま言った。
「服装なんて何でもいいじゃないですか」
「ごめん。でも、長峰も……」
「私のことはどうでもいいです!」
言葉の途中で黙らせる。
「それと、遅れるのは仕方ないとして、どうして連絡をくれなかったんですか」
「ごめん」
「事前連絡は社会人の基本です。だめじゃないですか」
「ごめん」
容赦なく主任を叱り付ける。
不機嫌を背中に貼り付けたまま、私は歩き続けた。
駅のロータリーから繁華街へ。
人混みを抜けて川沿いの道へ。
靴音を鳴らして私が歩く。
元気のない靴音がついてくる。
十五分も歩いた頃には、すでに腹は立っていなかった。
反対に、腹を立てたことを後悔していた。
それでも私は顔を上げて歩いた。
自分を鼓舞するために、目的地を目指して、主任の前を早足で歩いていった。




