57.贖罪の年月
「この口座は、事故の後に作ったものなの」
そう言いながら、母が通帳を開いた。その最初の行に、大きな金額が刻まれている。
「これは、相手の保険会社からの振り込み。保険からの支払いはこれだけよ」
聞いていた通りだ。先方は最低限の保険しか入っていなかったので、賠償金の一部しか補償されなかった。
だが、振り込まれたその金額は、直後に丸々無くなっている。
「お父さんの借金を返すのに使ったの。それだけでも助かったのよ」
母は笑うが、私は笑えなかった。
「で、ここからね」
指先の日付は、事故のあった年の夏。その右側には、十五万円という金額があった。
その翌月にも十五万円。翌々月にも十五万円。それがしばらく続いた後、ある時期から金額が二十万円になっていた。それは最高で三十万円にまで増えていたが、今は二十五万円に減っている。
この毎月の振り込みのほかに、年二回大きな振り込みがあった。時に百万円近いそれは、妙に中途半端な金額だ。
そうして積み上がった金額が、年に二回、ガクンと大きく減っている。
「母さんも頑張ったんだけど、やっぱり足りなくてね。由香と和人の学費は、ほとんどここから払っていたの」
私と弟の学費。大学の授業料と教材費。
勉強をして、バイトをして、サークルに入って、キャンプに行って。
そのすべてが、このお金に支えられていた。
私は唇を噛んだ。
涙が出そうになるのをぐっと堪え、改めて通帳を見る。
振り込み人の名前は、すべて”ミカミユウスケ”。
振り込み日は、月末日の少し前。年二回の大きな振り込みは、七月初めと十二月半ば。
間違いなかった。
給料は、五万円単位で切りのいい金額を。
賞与は、おそらく全額を。
社会人になったその夏から毎月毎月。
賞与が出る度に毎回毎回。
朝早く出社して、夜遅くまで残業して。
土曜日もほとんど出社して、サービス残業までして。
上司や先輩、後輩の誘いを全部断って。
何年も同じ服、同じ靴、同じ鞄を使い続けて。
自分だって父親を亡くしているはずなのに。
自分だって、悲しかったはずなのに。
やっぱり我慢できなかった。
「由香……」
心配そうな母の前で、私は泣いた。
拭っても拭っても、その涙は止まってくれなかった。
泣いて泣いて泣いて、いい加減泣き疲れた私は、涙を拭いて顔を上げると、黙って待っていてくれた母にすべてを話した。
話を聞いた母は、やはり驚いていた。
母も、相手の住所や連絡先は知っていたが、その家族の勤め先までは知らなかったようだ。もし知っていたら、さすがに私の入社を止めただろう。
母も知らないままに、娘が相手の家族と同じ会社の、しかも同じ部署で働いていた。
そして、自分の娘が、その人に恋をした。
私が母だったらどう思うだろうか。
娘に掛ける言葉を見つけることができるだろうか。
視線を落とし、じっと考えていた母が、膝の上にあった両手をゆっくりとテーブルに載せる。
そして顔を上げ、私を見て、落ち着いた声で言った。
「心の底から割り切れるなんてことはないけれど、過去に引きずられてしまうのも良くないことだと、母さんは思う」
母の両手が伸びる。
それが、私の手を握った。
「大切なのは、あなたが幸せになること。それを間違えてはいけないわ」
とても優しい微笑み。
私の目にまた涙が滲んだ。
「母さんは、いつでもあなたを応援してる。母さんや和人のことは心配しなくていいから、あなたは、あなたのことだけを考えなさい」
そう言って、母は笑った。
「ありがとう」
涙を拭って、私も笑った。
その後、母が入れ直してくれたお茶を飲み、一緒にどら焼きを食べて、私は実家をあとにした。
家に帰る途中も、帰ってからも、寝るまでの間も、私は自分に問い掛けた。
何度も何度も問い掛けて、自分の気持ちを確かめた。
そして私は、結論を出した。
翌、月曜日。
「おはようございます、由香せんぱ……」
志保の挨拶が途中で止まる。
「長峰さん、おはよ……」
通り掛かったポジティブくんが後ずさった、かと思うと、恐る恐る近付いてきて、志保を壁際に引っ張っていく。
「何かあったの?」
「私にも分かりません」
「いやいや、絶対何かあったでしょ」
「だから知らないですって」
全部聞こえていたが、私は無視した。
私のターゲットはただ一人。二つ離れた島で、姿勢よくキーボードを叩くその人のみ。
その人が立ち上がった。鞄を持っているので外出に違いない。
瞬間。
ガタン!
「ひぇ!」
ポジティブくんが怯むほどの勢いで立ち上がると、私は大股で廊下へと向かう。そして、エレベータホールにいたその人に声を掛けた。
「主任!」
ビクンと体を震わせて、主任が振り返る。
「な、長峰か。どうした?」
久し振りにちゃんと見る主任の顔は、もの凄くぎこちない笑顔。
それを真正面から見据えて私が言う。
「今日の仕事の後、お時間をいただけないでしょうか」
そう言って主任を睨む。
「き、今日か? 今日はちょっと……」
言葉を濁す主任に、私が近付いた。
「何時になっても構いません。お時間をください」
強硬に迫る。
「ごめん、後日ってことじゃだめかな」
「後日っていつですか?」
顔をそむける主任にさらに迫る。
「ほら、今週って月末月初があるだろ? 俺もそうだし、長峰も忙しいと思うんだ」
「月末月初……」
そう言えばそうだった。今週は、営業マンにとっても私たち事務にとっても忙しい週だ。
ちょっと安易だった。気持ちが少し萎む。
だが。
「じゃあ、金曜日の夜はいかがですか? 請求処理も終わってますので、私は大丈夫です」
「えっと、その日は接待が……」
「じゃあ土曜日で!」
一歩も引かない覚悟を私が見せた。
諦めたように、主任が言った。
「じゃあ、土曜日で」
「ありがとうございます!」
こうして私は、強引に主任との約束を取り付けたのだった。




