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主任と私  作者: まあく
55/60

55.主任の秘密

「その方のお名前は、長峰達也さん。二人の子供の父親だったの」


 目の前が真っ暗になった。

 心臓の暴走は止まらず、呼吸がどんどん浅くなっていく。

 私の様子は相当おかしかったのだろう。香織さんが、私の横に来て体を支えてくれた。


「大丈夫?」


 聞かれても答えられない。心も体も混乱していて、どうすることもできなかった。




 どれくらい経っただろう。

 気が付くと視界が戻っていた。心臓も呼吸も落ち着いていた。


「大丈夫?」

「大丈夫、です」


 今度はどうにか答えることができた。

 香織さんが私から離れて、隣の椅子に座る。


「とりあえず飲んで」


 勧められるがままにコーヒーを飲む。


「深呼吸して」


 言われるがままに深く呼吸をする。

 気持ちはともかく、体はどうにか正常に戻ってくれた。


「すみませんでした」


 謝る私に香織さんが聞いた。


「続き、どうする?」


 心臓がまたドクンと脈打つ。だけど、それはすぐに収まった。

 正直に言えば、聞きたくない。少なくとも今は聞きたくない。またさっきみたいに体がおかしくなるかもしれないし、これ以上知ることも怖い。

 でも。


「お願いします」


 自分でも驚くくらい、しっかりした声が出た。


「由香ならそう言うと思った」


 小さく笑って、香織さんは続きを話し始めた。


 入社前研修をまともに受けられなかった上に、入社日にも間に合わなかったが、それでも主任はうちの会社で働き始めた。

 主任の働き方は、最初から尋常ではなかったらしい。職場の人たちは、父親のかわりに家計を支えることになって必死なんだろうと同情の目を向けていた。

 だが、実際は少し違った。遺された主任とお母様、そして妹さんは、とてつもなく大きな十字架を背負わされていたのだ。

 それは、お父様の残した借金と、被害者家族への賠償金。

 その事情を知っていたのは、社内では唯一、香織さんだけだった。


「三上くんも、誰かに聞いてほしかったんでしょうね」


 その頃から香織さんは面倒見がよかったのだろう。主任が香織さんに弱みを見せた気持ちはよく分かる。

 借金や賠償金の具体的な額は香織さんも知らなかった。それでも、当時の主任の言葉がその大きさを物語っている。


「退職するまでには、払い終えるといいんだけどな」


 社会に出たばかりなのに、社会人生活の大半を借金返済や償いのために生きなければならない。

 覚悟を決めたその悲壮な表情を、香織さんは今でも覚えているとのことだった。


 そして、運命は奇妙な方向へと進んでいく。


 長峰達也の娘、長峰由香。

 私が、主任と同じ会社に入社し、しかも同じ部署に配属されたのだ。


 配属初日、みんなの前で挨拶をする私を見て、主任は目を丸くしたらしい。

 事故の対応はすべて母がしてくれたこともあって、私は相手側の顔も名前も知らなかった。父の葬儀の時、相手のご家族が来ていたが、私は会っていない。もしかすると、あの時主任が来ていて、遠くから私の顔を見ていたのかもしれなかった。


「由香が被害者の娘さんだって聞いた時は、さすがに私も焦ったわよ」

「ですよね」


 私は苦笑いするしかない。


「でもまあ、だからって特別なことをしたわけじゃないんだけどね」


 香織さんも苦笑しながら続けた。


 当時は香織さんの上に一人先輩がいたのだが、その人が体調を崩して退職すると、営業事務は私と香織さんの二人で担うことになった。

 その頃から、主任が頻繁に私のことを聞いてくるようになったらしい。


「悩んでいる様子はないかとか、体調はどうだとか困っていることはないかとか、そりゃあもうしょっちゅう聞きに来たわ。あんまりしつこいから、思わず”あんたは由香のお父さんか!”って言っちゃって、自分で落ち込んだこともあったわね」


 その突っ込みは、私と主任の関係を考えるとたしかに微妙だ。


「それはとにかく、うちの会社の中で、三上くんが”二番目に”由香のことを見ていたってことだけは間違いないわ。もちろん、一番は私だけど」


 香織さんがウィンクしてみせる。


「私が退職するって伝えた時、あいつ、何より先に”長峰は大丈夫か?”って言いやがったのよ。まったく腹立たしいったらありゃしない」


 頬を膨らませ、そして香織さんは、微笑んだ。


「あいつは本気で由香のことを心配していたわ。まああれは、心配っていうより……」


 またも中途半端なところで話をやめて、香織さんが肩をすくめる。

 そして、私の頭にそっと手を置いた。


「今日の話は、由香にとって衝撃的だったと思う。受け入れることも、受け止めることも難しいと思う。でもね」


 香織さんが優しく髪を撫でる。


「私みたいに、両親が健在でお金に困ったこともない人間が言っても説得力なんてないかもだけど」


 その手が頭を離れ、私の手を握った。


「由香にとって幸せとは何なのか。大切なものとは何なのか。それをよく考えてから結論を出してほしいと、私は思う」


 微笑んだまま、香織さんが強く私を見つめた。

 その目を見つめ、うつむき、わずかに顔を上げて、私が言った。


「ありがとうございます」


 暖かな手を握り返して、私は小さく微笑んだ。


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