54.長峰達也
話を聞き終えた香織さんが、椅子に背を預けてカップに手を伸ばす。
「新人ちゃんとのことかと思ったら、全然違ったのね」
そう言って、香織さんはコーヒーを一口飲んだ。
話してスッキリしたせいか、私の気持ちはずいぶん落ち着いていた。ハンカチを畳んで脇に置きながら、私が言う。
「フラれたのは仕方ないです。でも、あの日以来、主任の顔を見ることができなくなってしまいました。主任も私に話し掛けてきません。志保にも気を遣わせてしまっています。このままだと、仕事に支障が出ちゃいそうなんです」
それを聞いた香織さんが、小さく笑う。
「真っ先に仕事の心配をしちゃう当たり、由香らしいとは思うけど」
香織さんがカップを置いて、身を乗り出した。
そして両手を組み、その上に顎を載せて、私に聞いた。
「由香は、三上くんのこと、諦めるの?」
思い掛けない問いだった。
フラれたショックもあったが、その後の自分の不甲斐なさばかりが気になっていて、そこに思いが至らなかった。
私は、主任を諦めるの?
瞬きもせず、テーブルを見つめたまま私が黙る。
何も言わず、私を見つめたまま香織さんが待つ。
三分か五分か、もしかするともう少し長い時間、私は自問自答していた。
やがて。
「私は」
顔を上げて、香織さんを見る。
「主任のことを、諦めるなんてできません」
はっきりと私は答えた。
そうなのだ。今も私の中にはその気持ちがしっかりあるのだ。
「私は、今も主任のことが好きです」
心のままを、素直に言葉にした。
香織さんが私を見つめる。
私が香織さんを見つめ返す。
やがて。
「そっかぁ」
組んでいた手をほどくと、香織さんは椅子に背を預けて天井を見上げた。そして体を元に戻し、小さくため息をついて言った。
「諦めてくれたら、助かったんだけどなぁ」
「えぇっ!」
私が声を上げる。
まったくの予想外だ。香織さんなら応援してくれる。勝手にそう思い込んでいた。
悲しそうに目を伏せる私に向かって、香織さんが話し出す。
「私さ、三上くんとは同期入社なんだよねぇ」
それは知っていた。香織さんから聞いていたし、二人が親しげに話しているのを何度も見たことがある。
「でね、入社前の研修も当然一緒だったんだけど」
そこまで言って、香織さんが黙った。
あまりに中途半端だったので、続きがあるのだろうと待っていたが、なかなか香織さんが口を開かない。
「あの、香織さん?」
我慢できなくなって私が声を出した。
私から目をそらし、コーヒーを飲み、天井を見上げ、もう一度私を見て、香織さんが言った。
「私の話は、由香を混乱させちゃうと思う。でも、こうなった以上、由香には話をするべきだと私は思う」
その顔は、これまで一度も見たことのない表情だった。
とても真剣で、それなのに、とても苦しそうで。
そんな顔で言われたら、不安になるに決まっている。
話をするべきと香織さんは言うが、それを私は聞くべきなのだろうか。
聞きたいという思いと不安のせめぎ合い。
だが、結局私は、前に進むことを選んだ。
「聞かせてください」
香織さんはまたため息をつくと、一度目を閉じたあと、ようやく続きを語り始めた。
「入社前研修の途中から、三上くんが急に来なくなったのよ。その理由がね、お父様の事故だったの」
私が目を見開いた。
「お父様は、その事故で亡くなってしまった。だけど、それだけでは終わらなかった。お父様は、人を轢いてしまっていたの」
私の心臓が強く脈打つ。
「轢かれた人も、亡くなった。その方のお名前は……」
それ以上聞きたくなかった。
耳を塞ぎたかった。
だけど、私の体は動かない。指を動かすことすらできない。
心臓が暴走して全身が脈打つ。
呼吸が浅くなって視界が霞む。
私の願い、私の希望を打ち砕くように、香織さんが言った。
「その方のお名前は、長峰達也さん。二人の子供の父親だったの」




