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主任と私  作者: まあく
53/60

53.香織さん

 会社の最寄り駅で降りた私は、会社近くの洋菓子屋さんでフルーツゼリーを買うと、もう一度駅に戻って、自宅とは反対方向の電車に乗った。


「これなら食べられるよね」


 ネットでは調べたし、店員さんに聞いて確認もしたのだが、何となく心配になって、私は何度も原材料を見直した。

 そうこうしているうちに、電車は目的の駅に着く。改札を抜け、スマホのナビを頼りに歩いて行くと、緑豊かな公園が見えてきた。

 休日とあって親子連れが多い。はしゃぐ子供と笑顔の両親を横目にそこを通り過ぎた私は、隣に建つマンションの前に立った。


「ここかな?」


 エントランスに入ると、オートロックのガラス扉がある。その脇のパネルから、メッセージにあった部屋番号をコールした。

 チャイム音からほどなくして、明るく元気な声がする。


「由香、待ってたよ!」


 いきなり名前を呼ばれて驚いたが、向こうには私の顔が見えているのだろう。

 久し振りに聞くその声は、以前のままで変わらない。


「ご無沙汰してます」

「さあ、入って入って」


 開いた扉をくぐると、私はエレベータへと向かった。




「このゼリー、覚えててくれたんだ」

「はい」

「わざわざありがとね」

「いえ」


 初めて訪れる家というのはやはり緊張する。

 私の返事は、ちょっとぎこちなかった。


「飲み物は何がいい? 紅茶、緑茶、フルーツジュースに炭酸ジュース、それと、いちおうコーヒーもあるけど」

「じゃあ、コーヒーで」

「フルーツゼリーなのに? 由香は相変わらずだねぇ」

「あははは」


 対面式キッチンの向こうの笑顔に照れ笑いを返して、私は回りを見渡した。

 キッチンからリビングまで一続きの部屋は、窓が大きくてとても明るい。家具は、すべて背の低いもので統一されていた。そのせいか、大画面のテレビがより大きく感じる。

 私の座っているダイニングからは、キッチンがよく見えた。これなら料理をしながら子供の勉強を見るなんていうこともできるのではないだろうか。

 テーブルの上には可愛らしい一輪挿しが一つ。名前の分からない花が生けてあるが、もしかすると、道端に生えていたただの雑草かもしれない。


「香織さんらしい」


 私が小さく呟いた。

 ちょうどそこにカップが運ばれてくる。


「お待たせ。インスタントコーヒー、ブラックでございます」


 私の前にカップを置き、もう一つを手に持ったまま移動すると、香織さんは向かいの椅子に座った。


 今年の三月に寿退社した先輩、望月香織さん。私に仕事や社会人としての心得を教えてくれた人だ。望月は旧姓で、今は長谷川香織さんになっている。

 入社した頃は”望月さん”と呼んでいたのだが、二人だけの歓迎会でご飯をご馳走になった時、急に言われたのだ。


「呼び方を使い分ける練習をしましょう」


 そんな謎の理由で、強制的に”香織さん”と呼ぶことになった。当然私は”由香”である。


「二人だけの時は名前呼び、みんながいる時は名字呼び。ねっ!」


 笑う香織さんの顔を、私は今でもはっきり覚えていた。


 お酒が好きで、飲み会には必ず参加する人。

 時に強引で、だけどすごく優しい人。

 いつも元気で、とても気遣いのできる人。

 私は、香織さんのことがあっという間に好きになった。


「冷たいうちに頂いちゃうね」


 挨拶もそこそこに、香織さんがゼリーのフタを開ける。


「う~ん、美味しい~。久し振り~」


 嬉しそうな顔を見ていると、私も嬉しくなった。


「ゼリーは食べて平気なんですよね?」

「全然平気!」

「それならよかったです」


 微笑む私に香織さんが言う。


「由香のことだから、心配していっぱい調べてくれたんでしょう?」

「えっと、はい」


 完全にバレていた。


「妊娠は病気じゃないんだよ。気を付けるべきところは気を付けるけど、普段の生活はいつも通りよ」


 香織さんがお腹を撫でながら笑う。

 妊娠五ヶ月目だというそのお腹は、膨らみが目立ち始めていた。


 香織さんと一緒にゼリーを堪能し、コーヒーを飲んで一息ついたあと、私はもう一度部屋を見渡しながら聞いた。


「旦那さんは今日お仕事なんですか?」

「そう、仕事。あの人の休みは火曜と水曜なの。でも、毎週平日に休みがあるってすごく便利よ」


 たしかにそうかもしれない。

 土日しか休みがないと、病院や役所に行くのも一苦労だ。


「香織さん、つわりとかは大丈夫なんですか?」

「もう落ち着いたかな。そもそも私は軽い方だったんだと思う」


 人によってはとてもつらいと聞いていたので、ちょっと安心した。


「みんなは変わりない?」

「はい。あ、でも、部長が替わったおかげで、みんなに笑顔が増えました」

「あぁ、そうかもねぇ。権藤さんの怒鳴り声は、私も聞いててイヤだったし」


 香織さんがため息をつく。


「あれに耐えられたのは、猪野くんと前江くんくらいよね」

「そうですね」

「二人は元気?」

「元気です。そう言えば、今度猪野さんが結婚するんですよ」

「そうなの!?」


 香織さんが目を丸くした。


「お相手は、経理部の丸山聡美さんです」

「丸山さん!?」


 香織さんの声がひっくり返る。


「猪野さん本人談なので、話半分で聞いてほしいんですけど」


 そう断ってから、私は突撃くんに聞いた丸山さんとの出会いとその後のいきさつを話した。

 聞き終えた香織さんが、感心したように言う。


「あいつ、やるなぁ」


 その後も社内のことや昔話で盛り上がった後、ふいに香織さんが聞いた。


「ところで、新人の笹山さんはどう?」

「よくやってくれています。優秀な子だから、私なんてすぐ追い越されちゃいそうですよ」


 何気なく私が答える。

 すると、香織さんが笑った。


「あはは、それはないでしょ」


 そう言って私を見つめる。


「由香は歩みを止めない。由香は進歩し続けている。由香が後輩ちゃんに追い越されるなんて、絶対にないよ」


 とくに強い声ではない。

 とても自然に、当たり前のように香織さんが言った。


 ビックリして私が黙る。

 香織さんが、微笑んだまま私を見つめる。


 その言葉と微笑みが、突然私の感情を揺さぶった。

 全然そんな気はなかったのに、自分の意思とは関係なく、涙がポロポロと溢れ出す。

 慌てる私に、ハンカチを差し出しながら香織さんが言った。


「いつもの由香なら、業務時間内にメッセージの返事なんて寄越さない。何かあったんだなって、すぐ分かったわ」


 その声はとても優しかった。


「話してごらん。全部聞いてあげるから」


 ハンカチを目に当てたまま、小さな声で、私は主任とのことを話し始めた。


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