52.曇天に差す光
サイトに戻ると、志保が一人で火の番をしていた。
「お帰りなさい!」
振り返った志保の笑顔が、私たちを見て曇る。
私の前を歩いていた主任が、懐中電灯を消して志保に聞いた。
「前江は?」
「もう、寝てます」
「そうか。じゃあ、俺たちも寝ようか」
「はい……」
主任が焚き火の後始末を始めた。
その横を無言で通り過ぎた私が、荷物を探りながら言う。
「歯、磨いてくるね」
この後、志保と交わした言葉は「おやすみなさい」だけだった。志保は何も聞かず、私も何も話さなかった。
今夜は眠れない。そう思ったのだが、寝袋に入った私は、意外とすんなり眠ることができた。寝不足や疲れもあったのだろうが、たぶん、この時の私にはまだ実感がなかったのだと思う。
翌朝は、思い切り寝坊した。目覚ましを掛け忘れた上に、志保が起こしてくれなかったからだ。
テントから這い出すと、ほかの三人はすでに起きていた。朝食は志保が作ってくれていた。ベーグルサンドとチーズ入りスクランブルエッグ、そして七色サラダ。二人で作るはずだったメニューだ。
「笹山さん、これ美味しいね!」
朝食の時、ポジティブくんだけが笑っていた。
残るかと思った七色サラダも、ポジティブくんが全部平らげてくれた。
片付けをして荷物を積み込むと、私たちは早々に帰路に着いた。これは計画通りで、昨夜の出来事とは関係ない。
ポジティブくんは車を返しにいかなければならないし、主任はキャンプ道具の片付けがある。そして明日は四人とも仕事だ。渋滞にはまって帰りが遅くなるのは避けたかった。
帰りの車の中も、ポジティブくんは楽しそうだった。志保がそれに頑張って合わせてくれていた。
ポジティブくんがいなかったら、道中の会話は皆無だっただろう。本当に感謝だ。
志保には、落ち着いたらご飯をご馳走しよう。ありがとうと、ごめんを伝えなくては。
車は順調に走り、昼過ぎには私の家に着いた。
「ありがとうございました」
「長峰さん、またね!」
最後もやっぱりポジティブくんとだけ言葉を交わして、私は部屋に入った。
窓を開けて風を通す。
洗濯をしてそれを干す。
コーヒーを飲んで、ぼうっとする。
「シャワー、浴びてこよう」
独り言を言って、私は風呂場に向かった。
熱めのお湯を浴びながら、ふと思う。
私、フラれちゃったんだ
この時初めて私は泣いた。
声は出なかった。ただただ涙だけが零れてきた。
その夜、私はずっとテレビを見ていた。疲れて眠ってしまうまで、テレビの前でクッションを抱えていた。
次の日、私はどうにか会社に行くことができた。
ポジティブくんは、相変わらずポジティブくんだった。
志保は明らかに気を遣っていた。
主任の様子は分からなかった。その姿が視界に入った瞬間、私が目をそらしてしまうからだ。
お昼ご飯は、志保と一緒に公園で食べた。
本当はもう少し落ち着いてからにしたかったのだが、志保があまりに気を遣うので、耐えられなくて私から誘ったのだ。
私の話を聞いた志保が、地面を見つめながら小さな声で言う。
「おかしいです。絶対おかしいです」
志保にとって、主任の答えは予想外だったのだろう。
だが、私がフラれたのは紛れもない事実だ。
「いろいろありがとね。それと、いろいろ気を遣わせちゃってごめんね」
志保は返事をしない。かわりに、悔しそうに唇を噛む。
「このことはもう忘れて。私も気にしないようにするから」
そう言って、私は志保の手に自分の手を重ねた。
私の手の中で、志保が強く拳を握った。
それから数日、私は平静を装っていた。だけど、それはあくまで表面上の話。心の中はずっと曇天のままだ。
更衣室で着替えながら、私が呟く。
「今なら気持ち、分かるなぁ」
去年、一人の女性社員が退職した。社内恋愛が破綻して、会社に来なくなってしまったのだ。
仕事と恋愛を混同するなんてと、その時は冷めた目で見ていたのだが、どうやらそれは私が未熟なだけだったらしい。
朝起きるのがつらかった。
会社に来るのがつらかった。
志保に気を遣わせるのがつらかった。
主任の姿を見るのがつらかった。
時間が経てば、きっとこの気持ちも薄らいでいくのだろう。
だけど、出来れば今すぐどうにかしてほしい。
眠りが浅くなり、食が細くなった。
顔色が悪くなり、表情が乏しくなった。
志保が本気で心配し始めた。
そんなある日、ふいに私のスマホが震えた。メッセージの着信だ。
仕事中なので、とりあえず相手の確認だけしておく。
だが、その名前を見た瞬間、私はロックを解除してメッセージを読み始めた。続いて即座に返事を返す。
”行きます! 絶対行きます!”
送信を終えた私は、縋る思いでスマホを握り締めていた。




