51.告白
展望台に続く道はよく整備されていて、昼間の登山道よりずっと歩きやすかった。二人並んで歩けるくらいの幅はあるし、途中にはベンチもある。
だが、電灯の類いは一切ないので、林の中の道は暗かった。空は晴れているはずなのだが、生い茂る木々が月や星の明かりを遮っていて、薄暗いどころの話ではない。まさに懐中電灯の灯りだけが頼りだ。
緩やかな上り坂を歩き始めておよそ五分。息が上がっているわけでもないのに、私の心臓はさっきからドキドキしっぱなしだった。
主任と二人きりのナイトハイキング。
これが緊張せずにいられようか。
さっきから主任は何も言わない。黙々と展望台を目指している。
その沈黙が、私には耐えられなかった。
何か話題は……
などと考えていたからだろう。私は、小さな段差につまずいて前につんのめってしまった。
瞬間。
「大丈夫か?」
力強い腕が私を支える。
「だ、大丈夫です!」
慌てて答えて私は体を起こした。
すると、私から離れた腕が、今度は目の前に差し出された。
「足下が見えにくい。俺に掴まれ」
私は目を丸くした。
「いえ、そこまでしていただかなくても……」
「いいから」
主任は引かなかった。
「じゃあ、すみません」
諦めて、私はその腕を掴んだ。
「ちゃんと掴まっていろ」
前を向いて主任が歩き始めた。
右手に懐中電灯。
左手に、主任の腕。
ドキドキが加速する。
さっきまで少し肌寒かったのに、今は体が火照っている。
あとどれくらいで着くのだろうか。
あとどれくらい、こうしていられるのだろうか。
苦しくなって、私がうつむく。
その時、ふいに主任の声がした。
「長峰、ありがとな」
「え?」
顔を上げて主任を見る。
「長峰のおかげで、こんなに楽しい時間を過ごすことができた」
「いえ……」
私は曖昧に返事をした。
楽しいと言いながら、主任の声はどこか寂しげだ。
「会社に入ってからは、ほとんど働きづめだった。遊んでる余裕なんてなかったし、遊んでる場合じゃないって思ってた」
突然始まった話に首を傾げるが、今は話し掛けてはいけない気がする。
「それは今でも変わらないし、これからも変わらないだろう。だけど」
前を向いていた主任が視線を落とす。
そして、蚊の鳴くような、とても弱々しい声で言った。
「これからも、時々でいいから、こうやってキャンプができたらいいのにな」
それはキャンプを楽しんでいる人の声ではなかった。
あの時と同じだ。買い物の後に寄ったカフェで、窓越しに外を眺め、頬杖をついていたあの時。
苦しそうで、つらそうで、泣きそうで。
そう思った途端、私は大きな声を出していた。
「何を言ってるんですか! 主任はこれからもキャンプに来るんです!」
主任の足が止まった。
「私が何度でも誘います。イヤとは言わせません。絶対に来て頂きます!」
驚いて主任が振り向く。
「私に火のおこし方を教えてください。飯ごうでご飯を炊いてみせてください。山の果物を取ってきてください。私の知らないことを教えてください」
主任が目を見開く。
その目を強く見つめて私が言った。
「主任がたくさん働くのには、きっと理由があるんでしょう。だから、残業も休日出勤も止めません。サービス残業も、仕方がないので目を瞑ります」
主任の腕を強く握る。
「でも、仕事だけの人生なんて寂しすぎます。主任には、仕事以外のことにも目を向けてほしいんです」
握った腕を引き寄せる。
「もっと自由に生きてほしいんです。もっと毎日を楽しんでほしいんです」
強く主任を見つめ、その腕をさらに引き寄せながら、想いのすべてを言葉に乗せて、私が声を響かせた。
「主任には、ずっとずっと笑っていてほしいんです!」
必死に訴える私を主任が見つめる。
大きく開いたその目で見つめ続ける。
その口許が、緩んだ。
「ありがとな」
穏やかに主任が微笑んだ。
「これからも、よろしく頼む」
たしかに主任は笑っていた。
でも、その顔はやっぱり寂しげだ。
だから、私は全力で笑った。
「はい、お任せ下さい!」
そして私は前を向く。
「まずは展望台です。レッツゴーです!」
掴んでいた腕を放し、主任の手を握り直すと、その手を引っ張って私は歩き出した。
引っ張られながら、主任が言う。
「ごめん」
何のことだか分からない。
分からないけど、今はそれを確かめる気もない。
小さな声を無視して私は歩いた。
きっと私の知らない主任がいるのだ。
職場では見せない、キャンプでも見せることのない主任がいるのだ。
それでもいいと、私は思った。
それを知っても、知らないままでも、そんなことはどうでもいい。
だって私は、主任のことが好きなのだから。
ぼんやりしていた気持ちが明確になる。
想いが形をなしていく。
この人と一緒にいたい。
この人といろいろなところに行ってみたい。
この人のことを、守りたい。
とても不思議な気持ちだった。
不思議と私は嬉しくなった。
その時、突然視界が開けた。
坂を登り切り、林を抜けたその先に、それはあった。
「主任!」
手を引いたまま私は走った。
「お、おい」
慌てる主任をぐいぐい引っ張る。
そして私たちは辿り着いた。
遠くに広がる街の灯り。
頭上で煌めく満天の星。
隣で主任が息を呑む。
私が呼吸を整える。
想いが込み上げてきた。
それが体中から溢れ出すのを感じた。
心のままに、私は言った。
隣を向き、その顔を見上げながら、自分でも驚くほど自然に言った。
「主任。私は、あなたのことが好きです」
風景が輝いていた。
心が光で満ちていた。
穏やかな気持ちで答えを待つ。
やがて主任が、私から目をそらして言った。
「ごめん」
一瞬で輝きが消えた。
街の灯りも星の光も、何もかもが見えなくなった。




