37.瓢箪から駒
うちの会社では、役員や来客の弁当手配を総務部が行っている。今回の研修には役員も参加するため、講師の分と合わせて総務が弁当の手配をすることになった。
それをお局様が悪用したらしい。
お局様の子供じみた不正は、いとも簡単にバレた。そもそも今日は午後からしか研修がない上に、役員の参加もないので弁当は必要ない。それなのに、堂々と二つだけ弁当を発注していたのだ。
弁当の手配はお局様の担当だ。総務部の課長や部長が明細レベルで細かくチェックしない限りバレることはない。主任の告発がなければ、今回もまんまと経費を不正に使うことができたということになる。
総務部長に問い詰められたお局様は、意味不明な言い訳をしたらしいが、当然そんなものは受け入れられなかった。
権藤さんにもヒアリングが行われ、同じく意味不明な言い訳をしたようだが、こちらも一蹴された。
お局様は、減給の上一週間の自宅謹慎。
権藤さんも減給と自宅謹慎。謹慎明けには平社員への降格が待っているとのことだ。
「結局、あの二人は何がしたかったんでしょう?」
会社帰りのカフェ。その壁際の席で、事の顛末を教えてくれた主任に私が聞く。
アイスコーヒーをストローでクルクルかき混ぜながら、主任が答えた。
「話を総合すると、いわゆる”むしゃくしゃして”やったってことになるんだろうな」
「はい?」
まったく理解できないという顔の私を見て、主任が苦笑する。
「俺の想像が大部分を占めるんだが」
コーヒーを一口飲んで、主任が続けた。
「権藤さんは、家を買って間もなかった。ローンもあるし、お子さんの進学のこともあるから、家族のためにも簡単に転職はできない。だから会社に残ったものの、慣れない仕事や環境にイライラしていた。その矛先が、俺や松田部長に向かった」
「そんな!」
「あくまで俺の想像だ。事実じゃない」
なだめるように私に言って、主任がまたコーヒーを飲む。
「で、山下さんは、もともとゴシップが大好きだ。それを自分が作り出し、広めることに喜びを感じている」
それは分かる。
あの人の行動に深い考えがあるとは思えない。
「山下さんは権藤さんと仲が良かったから、たぶん権藤さんの愚痴を聞いていたんだろう。で、二人で共謀して、俺と松田部長の評判を落としてやろうってことになったんだと思う」
あくまで主任の想像の話だ。
でも、もの凄くありそうな話で私は納得してしまった。
「あの研修の日、営業部が空っぽだってことは、山下さんが確認していたらしい。だから、噂話を聞かせるターゲットは長峰か笹山、もしくは昼食でブースを使う女性社員だったんだろう」
それも納得だ。もしフロアに松田部長か三上主任がいたら、あんな話はできない。
「女性社員の間に噂を流し、それが何となく本社内に広がっていく。根拠なんてなくても、面白そうな話に人は飛び付くからな。疑心暗鬼が生まれ、亀裂が生まれる。それを見て、あの二人がほくそ笑む。そんな計画だったんじゃないかな」
何だか気分が悪くなってきた。
そして、腹が立ってきた。
「あの二人、頭がおかしいと思います」
強い声に、主任が目を見開いた。
「そんなことしたって何も変わらないじゃないですか。権藤さんが部長に戻れる訳じゃないし、山下さんの給料が上がる訳でもない」
私が身を乗り出す。
「第一、やることが幼稚すぎます。ちょっと調べれば分かるような嘘を言って、ちょっと調べれば分かるような不正をして」
私がまくし立てる。
「馬鹿みたいです。本当に馬鹿みたい。あんな馬鹿な人たちが、頑張っている主任や部長の悪口を言い触らすなんて許せません!」
言っているうちに、何だか涙が出てきた。
「私、悔しいです。主任は悪くないのに。全然悪くないのに……」
そこで言葉が止まってしまった。
泣くつもりなんてなかったのに、次々と涙が溢れてきて止まらない。
唇を強く結び、黙ったまま私は主任を睨み続けた。
そんな私を、目を見開いたまま主任が見ていた。
ふと。
「ありがとな」
主任が笑った。
「長峰がそう思ってくれるのは、すごく嬉しいよ」
その瞬間、私の心は大混乱になる。
恥ずかしくて、嬉しくて。
嬉しくて、恥ずかしくて。
私は慌ててハンカチを取り出した。
涙を拭き、そのままハンカチで目を覆って思い切り下を向く。
「すみません」
どうしていいか分からないまま、私はとりあえず謝った。
「長峰が謝ることないだろ」
その通り。
私は何を謝っているのだろう。
ますます顔を上げられなくなった私の耳が、小さな音を捉える。
カラカラ……
軽やかな氷の音。
ズズズ……
グラスが空になる音。
カタン
グラスが置かれる音。
そして。
「この間、買い物に誘ってくれただろう?」
私の肩がピクリと跳ねる。
「もし、まだ弟さんのプレゼントを買ってないんだったら、だけど」
その言葉を、私は目を閉じたまま聞いた。
「俺なんかでよかったら、買い物、付き合うよ」
人の気持ちは、どうしてこうも簡単に沈んだり浮いたりできるのだろう。
相変わらずハンカチで目を覆い、下を向いたまま私が言った。
「すみません」
「だから、何で謝るんだ」
何度言われても、もうどうしようもなかった。
この後も、私はすみませんを連発した。その度に主任は困ったような顔をしていた、と思う。
ハンカチを外した後も、お手洗いで化粧を直した後も、店を出た後も、私は主任を見ることができなかった。
そんな状態だったのに、ちゃんと買い物の日時と待ち合わせ場所の約束ができたことを、私は自分で褒めてあげたいと思った。




