36.もう怖くない
「三上!」
驚く声がする。だが、その大きな声も、もう怖くなかった。
涙を拭いて、私は自分の足で立つ。
「ありがとうございます」
気持ちが落ち着くと、今度は恥ずかしくなった。
主任の顔が、めちゃくちゃ近い。
「あの、主任、外出してたんじゃあ……」
動揺をごまかすように私が聞いた。
私を支えたままで、主任が答えた。
「もともと昼には戻るつもりだったんだ。長峰と笹山が心配だったからな」
私が目を見開く。
「遅れてすまなかった。そのせいで、長峰にイヤな思いをさせてしまった」
「そんな……」
主任が謝る話ではない。
だけど。
その気遣いが嬉しかった。
その優しさが嬉しかった。
主任が来てくれたことが、何よりも嬉しかった。
「立っていられるか?」
「大丈夫、です」
本当はこのまま支えていてほしかったのだが、理性がそれを止める。
主任が私の腕を放した。
私が、残念そうにうつむいた。
「さて」
私の気持ちに気付くはずもなく、主任が前を向く。
「途中からしか聞いていなかったのですが、お二人は、今年の人事異動に何かご不満があるんですか?」
言葉は冷静だが、声には明らかに怒気が含まれている。
「いや、別にそういうわけでは……」
「本当ですか? 俺にはそうは聞こえませんでしたが」
権藤さんは、足を組んだ姿勢を変えていない。だが、その顔にはまったく余裕がなかった。
「山下さん。あなたも、また余計なことを言って回ってるんですか?」
「な、何も言ってないわよ!」
視線をそらしてお局様が答える。
こちらもまた余裕はない。
額にうっすら汗を浮かべる二人を主任が見下ろす。
何も言わずに黙って二人を見下ろし続ける。
「ぶ、部長、そろそろ研修のお時間では?」
「あ、ああ、そうだな。そろそろ行かないとな」
そそくさと二人が弁当を片付け始めた。
それを見た主任が、静かに聞く。
「ところで、お二人が食べていたのは、講師の方と同じものですよね」
「そ、そうかな」
「それ、自腹で買ったんですか?」
「もちろんだ!」
「そうですか。では、このまま総務部に行きましょうか。今日の講師はお二人です。その弁当がいくつ発注されているのか、その申請書類を作ったのは誰なのか、確かめてみないといけません」
「それはっ!」
お局様の顔が真っ青になった。
「不正な経費使用が”また”行われたとなれば、今度は降格では済みません。その共謀者にも、何かしらの処分があるでしょう。お二人が潔白であることを証明するためにも、ぜひ確かめておきませんと」
そういうと、主任はポケットからスマホを取り出して、二人が弁当を手にしている姿を写真に撮った。
「貴様、何してる!」
権藤さんが怒鳴る。
「証拠写真ですよ。あなたたちは、嘘をつくことに何の罪悪感もないみたいですから」
主任がスマホをポケットにしまう。
「写真は撮ったので、権藤さんは研修に行ってきてください。山下さんは、一緒に総務に行きましょうか」
促されても、二人は動けない。
「行かないんですか? じゃあ、俺が確かめてきます」
「あっ!」
お局様が腰を浮かせたが、主任はそれを無視して踵を返した。
「長峰。悪いが、一緒に来てくれるか?」
「はい」
頷いて、歩き出した主任に続く。
「主任」
「なんだ」
前を向いたままの背中に、私が言った。
「ありがとうございました」
前を向いたままで、主任が答えた。
「俺のせいだ。すまなかった」
主任のせいなんかじゃないです
そう言おうと思ったのだが、なぜか言葉が出てこない。
頼もしくて、優しくて暖かい。
心強くて、嬉しくて安心できる。
置いてきてしまった自分のお弁当のことを頭の片隅で考えながら、私は、広い背中を追って歩いていった。




