35.飛び出したものの
「長峰さん!?」
お局様の声がひっくり返る。
「お、おぉ、長峰くんか」
権藤さんが狼狽える。
隣に人がいることは分かっていたはずなのに、その人間が目の前に現れることは考えていなかったらしい。
「久し振りだな。元気にしてたか?」
取って付けたような言葉を無視して、私は全身で怒りをぶつけた。
「あなたたち、何か根拠があって言ってるんですか!? 松田部長のことも三上主任のことも、全部ねつ造で、全部デタラメですよね!」
目を見開く二人に畳み掛ける。
「降格させられたのは、権藤さん、あなたが悪いことをしたからでしょう? それを主任に見付かって会社にバレた。逆恨みしているのは権藤さんの方じゃないですか!」
頭が沸騰しそうだった。
溢れ出る感情を言葉に載せて、私は二人を責め立てる。
「山下さんもどうかしてるんじゃないですか? ありもしない話をあちこちで言い触らして、何が楽しいんですか!」
お局様が何かを言い掛けたが、私はそれを許さなかった。
「人間としてはだめだとか、裏で何をしてるか分からないとか言ってましたけど、それ、全部あなたたちのことですよね!」
言い放って、私が二人を睨み付ける。
そこに、私は突然不意打ちを食らった。
「長峰くん。きみは、人事異動の裏事情を誰に聞いたんだ?」
「それは……」
咄嗟に答えられなかった。
松田部長の名前を出すわけにはいかない。他言無用と約束したのだ。
「そ、そんなこと、どうでもいいじゃないですか」
弱々しい反撃を聞いて、権藤さんがにやりと笑う。
「大方、松田か三上と言ったところだろう。で、長峰くん。きみに聞きたいんだが」
権藤さんが足を組む。
テーブルに片肘を載せ、余裕の表情で、私に言った。
「当事者の二人から聞いた話と、同じく当事者の俺の話。どちらが正しいのか、きみはどうやって判断するんだね?」
何も返せなかった。
その問いに、理路整然と答えるだけの用意はない。
「きみは松田や三上が正しいと思っている。俺や山下くんは、俺が正しいと思っている。で、長峰くん。きみがあの二人を正しいと思った理由を、きちんと明確に説明できるのか?」
完全に形勢が逆転してしまった。
相手は営業のプロ。その道を何十年と歩き続けて部長にまでなった人だ。
不用意だった。感情に任せて飛び出したものの、事務を三年やっただけの私が、百戦錬磨の権藤さんに勝てるはずなかったのだ。
「どうした? さっきまでの勢いがないようだが」
立っている私を、座っている権藤さんが見下したように見る。
「ほら、さっさと答えなさいよ!」
お局様が勝ち誇ったように叫ぶ。
悔しかった。
悔しくて悔しくて、私の目から涙がこぼれた。
「女の涙は武器だと言うが、俺には通用しないからな」
一切の容赦はない。
獲物を狙う猛獣が私を追い詰める。
「まさか、泣いたら許されるなんて考えてないわよね」
逃げ場はない。
陰湿な声が私に絡みつく。
「早く答えてくれよ」
「答えなさいよ」
すでに頭の中は真っ白だ。
ただただ悔しかった。
ただただ泣きたかった。
誰か……
私は願った。
誰か助けて
私は祈った。
心はもう限界だ。消える直前の線香花火のように、微かな光を放つだけ。
その光も消えた。
真っ赤な輝きが色を失い、そして地面に……。
……その時。
「しっかりしろ」
崩れ落ちる私を力強い腕が支える。
驚いて私が顔を上げた。
涙で滲む視界の中で、その人が言った。
「もう大丈夫だ」
それを聞いて、私はまた泣いた。
崩壊寸前だった私の心に、光が戻った。




