34.前部長とお局様
「ここを使うのも久し振りだな」
「そうですよね」
よりによって、声は隣のブースに入ってきた。
私のいるブースの扉は閉まっていて、”使用中”の札が掛けてある。人がいることは分かっているはずなのに、どうしてわざわざそこを選ぶのか。
苛立つ気持ちを抑えて、私は耳に神経を集中させた。隣の扉が閉まったら、速攻でここから脱出するつもりだ。
だが、腹立たしいことに、扉の閉まる音が聞こえてこない。
「部長、ここのお弁当お好きでしたよね」
「そうなんだよ。この肉が柔らかくてたまらんのだ」
「ですよねぇ。お高いだけのことはありますよ」
扉を閉めないまま、二人は弁当の話を始めた。
「これの代金は?」
「気になさらないでください。講師用のお弁当が余っただけですから」
「そうか、悪いな」
講師の人数は最初から分かっているのだ。弁当が余るはずない。
何もかもが腹立たしかった。
すでに部長ではない人を部長と呼び、社員同士のランチのために経費を使う。
「うん、うまい!」
「美味しいですね!」
この二人は、やっぱり何かがズレていた。
営業部の前部長、権藤猛夫。
そして、お局様こと山下幸子。
決して顔を合わせたくないと思っていた二人が、隣のブースで、扉を開け放ったまま弁当を食べ始めた。
居酒屋で人事異動の裏事情を聞いた時、松田部長が言っていた。
「経営陣にとって、権藤さんが会社に残ったのは誤算だっただろうね」
本来は懲戒解雇にしてもいいはずなのだが、経営陣は表沙汰にしない方法を選んだ。
部長から課長補佐に降格し、営業から外して本社からも追い出す。そこまですれば辞めてくれるだろうと経営陣は考えたらしい。
ところが、本人は辞令を受け入れて工場に移っていった。そこで何食わぬ顔をして働き続けている。
「このまま何も起きなきゃいいんだけどね」
松田部長の心配そうな顔が今でも記憶に残っていた。
「そう言えば、猪野くんが結婚するんだって?」
「そうなんですよ」
権藤さんとお局様の会話は続く。
この二人は以前から仲がよかった。声が大きい者同士、気が合うのだろうか。
「大した成績も上げてないのに結婚だなんて、大丈夫なのかしらねぇ」
余計なお世話だ!
と、突撃くんのかわりに心の中で言ってやった。
「それにね、この四月から、営業部の売上が落ちてるんですよ。やっぱり部長がいないとダメなんですねぇ」
お局様の大げさなため息が聞こえる。
「そうか、やっぱりな」
何が”やっぱりな”だ。
営業部の売上が落ちた最大の原因は、権藤さんと共謀していた取引先の売上がなくなったことだ。
自分が原因だということを分かっていないのだろうか。それとも、あのままズブズブの関係を保っていた方がよかったとでも思っているのだろうか。
「ところで、三上は元気にやってるか?」
私の眉がピクリと跳ねた。
「平気な顔で仕事をしていますよ。部長を追い落としておいて、いい気なもんです」
私が拳をぎゅっと握る。
「三上にはやられたからな。二課に異動が内定したことを逆恨みして、人事部に偽情報を持って駆け込むとは、俺も想像しなかったよ」
「ほんと、ろくでもない男ですよね」
私のこめかみに血管が浮いた。
「先方とのやり取りは適正だったし、経費処理だって正規の手順で済んでいる。ねつ造と言われた領収証も、全部三上に処理を任せたやつだ。彼を信用してめくら判を押した俺が悪かったと言えばそれまでだが、ちょっとやりきれんなぁ」
「誰も本当のことは知りませんからね。みんな三上くんに騙されてるっていうのに」
怒鳴りつけたくなるのを必死に堪えて、私は静かに深呼吸をする。
隣に人がいると分かっていてこんな話をするのは、社内に噂を流したいからに違いない。
だが、噂になったところで権藤さんの降格が取り消しになるはずがない。経営陣は明確な証拠を掴んでいるし、本人だって白状しているのだ。
それなのに、この人たちはいったい何を考えているのだろうか。
「私、松田さんも怪しいと思うんですよ」
今度は松田部長の話が出てきた。
「この間、松田さんに言われたんです。”社内で変な話をしないように”って」
「変な話?」
「今年の人事異動のことです。もうその件は決着がついてるんだからって、怖い顔で言われちゃいました」
松田部長はきちんとお局様に言ってくれたようだ。
ただ、この様子だと本人はまったく意に介していないらしい。
「今回の黒幕、じつは松田さんなんじゃないでしょうか」
お局様の暴走は止まらない。
「松田さんの指示で三上くんが動く。権藤部長を引きずり下ろしておいて、自分がそのポジションに座る。三上くんが二課に異動になったのはあくまで一時的で、来年には一課に復帰する。そんなシナリオだったりして」
馬鹿げた妄想に、権藤さんが輪を掛けた。
「営業マン時代、俺と松田はライバルだったからな。それが、あいつは支社の支援に回され、俺は本社で部長になった。あいつが俺を妬んでいても全然おかしくないな」
私は落ち着こうと必死に努力した。
頭のおかしな二人のことなど放っておけばよい。幸い、ここにいるのは私だけ。私が何もしなければ、妙な噂が広がることもない。
だけど。
「松田が部長では、営業部も終わりだな」
私が細く長く息を吐き出す。
「そうですよねぇ。松田さんに部長が務まるはずありません」
私が目を閉じる。
「三上も、営業としては優秀なんだがな」
私が息を止める。
「でも、人間としてはだめですよねぇ」
私が目を開く。
「真面目そうな顔して、裏では何をしているのか分かったもんじゃ……」
「いい加減にしてください!!!」
瞬間、私はありったけの声で叫んだ。
もの凄い勢いで扉を開けて、隣のブースに突入する。
「あなたたち、一体何なんですか!」
目を丸くする二人に向かって、私は人生最大級の怒りをぶつけていた。




