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主任と私  作者: まあく
31/60

31.誘いたいのに

 ラザニアは、やけどすることなく無事食べ終えることができた。少し落ち着いたところで、タイミングよくコーヒーが運ばれてくる。


「どうぞごゆっくり」


 ウェイターが去って行くと、コーヒーを脇に追いやって、志保が身を乗り出した。


「由香先輩、作戦を練りましょう」

「なんの?」

「先輩と主任が幸せになるための作戦です」


 カップを持ったまま、私が固まった。


「放っておいたら、二人の関係が進展することはありません。それは由香先輩にも分かっていますよね?」

「そ、そんなことは……」


 ない、と答えることができなかった。

 志保は、私の性格も主任の性格もよく分かっている。


「主任との仲を深めるに、まずはデートをしましょう」

「いきなり!?」

「当然です。最初は、買い物に付き合ってもらった後に食事をするくらいでいいと思います」

「くらいって……」

「由香先輩の弟さん、今年から社会人でしたよね」

「そうだけど」

「じゃあちょうどいいです。社会人になった弟さんへの誕生日プレゼント選びを手伝ってもらうという口実で、主任を買い物&食事デートに誘ってください」

「弟の誕生日って、まだ三ヶ月も先よ」

「そこは適当にごまかしてください」

「……」

「主任は絶対先輩に気があります。誘われたことが嬉しくて、理由なんて気にしませんよ」

「そんなものかな」

「そんなものです」


 志保は自信たっぷりだった。


「主任は奥手です。向こうからは来ません。先輩から行くしかないんです」

「そう、かな」

「そうなんです。だから由香先輩、頑張ってくださいね!」

「……分かった」


 志保の勢いに押されて私は頷いた。


 この日の夜、私は枕を抱いてベッドの上をゴロゴロ転げ回った。

 当然、翌日は寝不足だった。




「おはようございます、由香先輩」


 上機嫌で志保が笑う。

 続けて。


「頑張ってくださいね!」


 いきなりプレッシャーを掛けてきた。


「こういうのは勢いが大切です。さっそく今日誘ってみましょうか」

「今日!?」

「そうです」


 目を見開く私に志保が顔を近付ける。


「由香先輩、昨日眠れてないですよね」

「ま、まあ」

「その寝不足は、主任を誘うまで続きますよ」


 真顔で恐ろしいことを言ってきた。


「で、でも、主任にだって都合が……」

「その都合をつけてもらうために誘うんじゃないですか」


 たしかにその通りだ。

 反論できない私に志保が畳み掛けてくる。


「仕事帰りのちょこっとデートなんかじゃダメですよ。時間がなさ過ぎます。土曜か日曜の午後がいいです。買い物をして、夜ご飯を一緒に食べる。そこまでの約束を取り付けてください」


 具体的な指示が飛んできた。


「主任がトイレに立った時がチャンスです。トイレの近くで待ち伏せして、出てきたら声を掛ける。いいですね?」

「そんなストーカーみたいなこと……」

「ストーカーじゃないです。だって、主任は先輩に会えることが嬉しいんですから」


 当然のことのように志保が言う。


「主任は絶対に断りません。安心して誘ってきてください」

「……分かった」


 ぐいぐい迫ってくる志保に押されるように、私は頷いた。

 こうして私は、仕事をしながら主任の動きを見張ることになったのだった。


 だが、そういう時に限ってチャンスが来ないのは、私に運がないからだろうか。

 この日は、主任が外出したまま会社に戻ってこなかった。

 次の日は、外出から戻ってすぐ主任が会議に入ってしまって、そのまま定時を迎えた。

 その次の日は、戻ってきた主任が一度もトイレに立つことなく定時が過ぎた。少し粘ってみたが、意味なく残ることもできないので、諦めて会社を出た。


「もう、何なんですか!」


 志保が怒るが、こればかりは仕方ないだろう。

 その頃には、私の気持ちもちょっと萎んでいた。

 だからなのだろう。翌日一度だけチャンスがあったのだが、思い切りが足りなくて私は席を立てなかった。呆れる志保にごめんと言って、その日も終了した。


 こうして、何もないまま数日が過ぎていった。いつからか志保は何も言わなくなった。プレッシャーが少なくなったせいか、私は夜眠れるようになった。

 ホッとしたような、残念なような。

 心に平穏が訪れ、日常が戻ってきた。

 そう思っていたある日。


「俺、結婚することになりました」

「え?」


 突撃くんが、突然私に言った。

 うまく反応できない私に代わって志保が大声を上げる。


「そうなんですか!?」

「そうなんです」


 満面の笑みで突撃くんが答えた。


「猪野さん、付き合ってる人いたんですね」


 志保の失礼な言葉にも、突撃くんの笑顔は変わらない。


「まあね。相手は誰だと思う?」

「そんなの分かるはずないじゃないですか」


 志保は頬を膨らませたが、私は考えた。

 そう聞くということは、社内の人に違いない。


「笹山さんも知ってる人だと思うよ」


 やっぱりそうだ。


「正解は、経理部の丸山聡美さんでした!」

「丸山さん!?」


 志保がまたも大声を上げる。

 声こそ出さなかったが、私も内心驚いていた。


 経理部の丸山聡美さん。たしか、私より三つか四つ上の先輩だ。

 前髪パッツンの黒髪ショートにレンズ厚めの黒縁メガネ。とても無口な人で、ちょっと、というより、だいぶとっつきにくい印象がある。そのせいもあって、話したことはほとんどない。

 表情も乏しくて笑ったところを見たことがないので、丸山さんが男の人と付き合うということ自体想像できなかった。


「去年の夏、運命的な出来事があってね」


 聞いてもいないのに突撃くんが語り出す。


「ずぶ濡れになった俺に、彼女がタオルを貸してくれたんだよ」


 その長いノロケ話を要約すると、次のようなものだった。


 営業先からの帰り、あと少しで会社というところで土砂降りの雨にあった突撃くんは、会社の入り口で丸山さんに会った。

 丸山さんは銀行に行くところだったが、びしょ濡れの突撃くんを見ると、鞄からタオルを取り出し、それを突撃くんに渡しながらこう言った。


「営業のお仕事、お疲れ様です」


 その時、丸山さんが微笑んだらしい。

 その笑顔が天使のようだったらしい。

 丸山さんが立ち去った後、突撃くんはタオルで顔を拭いた。その時、とても慣れ親しんだ香りがした。それは、突撃くんの家で使っている柔軟剤と同じ香りだった。

 この瞬間、突撃くんは恋に落ちた、らしい。


 その後突撃くんは、持ち前の突撃精神で丸山さんにアタックを開始した。最初のデートを取り付けるまでに十回以上断られたというから、誘う側も断る側も、そのタフさには恐れ入る。

 デートを重ねるうちに、突撃くんは丸山さんのことをますます好きになっていった。


 丸山さんは料理が上手らしい。

 丸山さんは編み物が趣味らしい。

 丸山さんはメガネを外すと可愛いらしい。

 以下省略。


 で、プロポーズをしてOKをもらい、先方のご両親の承諾も得たので、こうしてみんなに触れて回っているということだった。


「日取りが決まったら連絡するから、結婚式には出てくれよな!」


 そう言い残して、弾む足取りで突撃くんは去っていった。


「猪野さん、嬉しそうでしたね」


 毒舌娘の志保でも、人の幸せにケチを付けることはしないようだ。

 と思ったのだが。


「私だったら、百回誘われても猪野さんはNoですけど」


 やっぱり毒舌だった。


「でも、結婚式は出てみたいです。先輩も行きますよね?」

「そうね、行くと思うわ」

「やった!」


 嬉しそうな志保を見て、私は苦笑い。

 ふと見れば、一課の島で突撃くんが笑っている。またあの話をしているのだろう。

 その姿を見ながら、私は小さく呟いた。


「あの丸山さんが……」


 この時私は、間違いなく二人の幸せを願っていた。

 だが、同時に別のことを考えてもいた。

 もちろん、二人の不幸を願っていたわけではない。この時の心境を言葉にするのは難しかった。

 あえて言うなら、それは”焦り”だったのかもしれない。


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