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主任と私  作者: まあく
29/60

29.人生トップクラスのつらい時間

 中学の時にも気になる男子はいた。修学旅行で同じ班になった時は神様に感謝したけれど、残念ながら特に進展はなく、そのまま卒業を迎えた。

 高校では、告白された男子と付き合ったこともあった。ただ、試験期間中なのに会いたいとしつこく連絡がきたので、面倒になって半年もせずに別れた。

 大学に入ると、男子と出会う機会はそれまでよりも増えた。ただ、家のことがあったので、特定の誰かと付き合う気にはなれなかった。

 社会人になってからは、出会いが減った。社内の男性から食事や飲みに誘われることはあるが、今のところ恋愛に発展する気配はない。

 そうしてみると、これまで私は、まともな恋心というものを抱いたことがなかったのかもしれない。


 そんな私が、初めてまともな恋をした。

 そして私は、今、初めて感じる痛みに苦しんでいた。


「由香先輩、ここなんですけど」

「ああ、これね。これは……」


 志保と話すのがつらかった。


「長峰、書類作るのを手伝ってもらってもいいか?」

「はい、大丈夫です」


 主任と顔を合わせるのがつらかった。


 よく眠れない。

 食べ物が美味しくない。

 テレビもネットも楽しくない。

 夜が長い。

 休日が長い。


 こういう時はとかく失敗しがちだ。

 ミスだけは絶対しないように、私は細心の注意を払って毎日の仕事をこなしていった。


 そんなある日。


「由香先輩。今日の帰り、食事に行きませんか?」


 そろそろ定時という頃、志保に誘われた。

 すぐに答えようとしたのだが、たぶん私は三秒くらい沈黙していたと思う。

 気持ちを奮い立たせて、私は答えた。


「いいわよ」


 ちょっと怪訝な顔をした志保が、それでも笑顔で言う。


「ありがとうございます! 定時で上がれそうですか?」

「大丈夫」

「やった!」


 嬉しそうな志保が、私に追い打ちを掛ける。


「由香先輩に聞いて欲しいことがあるんですよ。どうしても黙っていられなくて」

「そうなの? じゃあ楽しみにしてるね」


 間を置かずに返事が出来たのは、奇跡に近かった。




「私はラザニアのサラダセット、コーヒーは食後で」

「じゃあ、私も同じで」

「かしこまりました」


 スラリと背の高いウェイターが、きれいにお辞儀をして戻っていく。


「あの人、やっぱり格好いいですよね」

「そうね」


 志保と時々来るカフェ。

 あの、カフェである。

 しかも、よりによって志保と主任が話をしていた席。その場所で、私はかなり頑張って平静を装っていた。


 志保のテンションは、会社を出る時からずっと高いままだ。よほど嬉しい出来事があったのだろう。

 そして、それは私にとって不幸な出来事に違いない。


「で、話したいことってなあに?」


 嫌な話はさっさと終わらせたい。

 そんな思いで志保を促す。


「そんなに慌てないでくださいよぉ」


 志保がヒラヒラと手を振りながら答えた。

 人生の中でもトップクラスのつらい時間だ。周りの感情に敏感なはず志保が、今の私の状態に気付かないのが不思議でならない。

 とりあえず、お水を飲んで気持ちを落ち着かせる。

 苛立ちを悟られないようグラスをそっと置いた時、ウェイターがやってきた。


「セットのサラダでございます」


 慣れた手付きでシルバーとお皿を並べていく。

 それを見ていた志保が、にこりと笑いながら言った。


「ありがとうございます」


 ウェイターが、嬉しそうに笑顔を返した。

 志保は、大学時代からそうだった。きついことも言うけれど、基本的には礼儀正しく、そして、その笑顔は女の私から見ても可愛らしい。

 そういうところに主任も惹かれたのだろう。


「いただきます」


 志保がサラダを食べ始めた。


「いただきます」


 私もサラダを食べ始めた。

 ブロッコリーにフォークを刺して、それを口に運んだところで志保が話し出す。


「私、サラダを食べる度に思い出すんですよ」


 ブロッコリーを飲み込んで、私が志保を見た。


「大学の時、みんなでキャンプに行ったじゃないですか。そこで由香先輩が作ってくれたサラダが、すごくきれいで、すごく美味しかったんです」


 大学時代、キャンプには何度か行ったことがあった。アウトドア好きの友達が、お金のない私のために、無料のキャンプ場を探しては誘ってくれたのだ。同じサークルだった志保とも、たしか二回くらい一緒に行ったと思う。


「あの虹色サラダ、私、感動しました!」

「そう言えば、そんなのを作ったこともあったわね」


 虹色ではないけれど、たしかに七色のサラダは作った覚えがある。

 トマトとかゆで卵とかアボガドとか、色の違う食材を虹みたいに並べたサラダ。キャンプ道具はいつも友達が用意してくれたので、せめて料理だけはと頑張ったのだ。


「あのサラダを見て、私、由香先輩について行こうって思ったんです」

「ついて行こうって……」


 私は呆れ顔で志保を見た。

 たしかに、あれ以来志保が私にくっついてくるようになった気がする。レポートの書き方を教えて欲しいとか、料理を教えて欲しいとか、どこかへ遊びに行こうとか。


「由香先輩、家のこともあるのに単位を落としたことないし、ゼミにも入ってるし、バイトが忙しいのにちゃんと遊びにも行くし。ほんとにすごい人だなぁって、ずっと思ってたんですよ」

「全然すごくなんてないわよ」


 答えて、私は目を伏せた。

 志保の話は続く。


「先輩、覚えてます? 私が風邪を引いた時、アパートにおかゆを作りに来てくれたこと」

「覚えてるわよ」

「由香先輩、あの時バイト休んでくれたんですよね。あとでほかの先輩から聞きました」

「そ、そうだったかな」


 誰だ、余計なことを言ったのは。

 友達の顔を何人か思い出しながら、恥ずかしさをごまかすようにミニトマトをつつく。


「サークルで揉め事があると、最初に割って入るのが由香先輩でした。道に迷ってる留学生に、たどたどしい英語で話し掛けてたこともありました」

「……」


 さっきから、ミニトマトにフォークが刺さってくれない。

 逃げ回るミニトマトを追い掛ける私の前で、志保が、自分のサラダのミニトマトを一撃で仕留めた。


「はい、どうぞ」

「……ありがと」


 差し出されたフォークを受け取り、先っぽのミニトマトを口に入れて、私は志保にフォークを返した。

 そのフォークを持ち替えて、志保が言う。


「これ、もらいますね」


 私が苦戦していたミニトマトを一撃で仕留めると、それをパクリと食べる。

 その顔はやけに嬉しそうだ。


「由香先輩が卒業した後、私、たくさん勉強して、たくさん資格を取ったんですよ。絶対由香先輩と同じ会社に入るんだって」


 志保がフォークを置く。

 志保が両手を膝に置く

 そして志保が、曇りない笑顔で言った。


「私、由香先輩のこと、大好きです!」


 まっすぐな言葉。

 まっすぐな瞳。


 まったくもう


 私は諦めた。

 まだ割り切れない気持ちはあるけれど、やっぱり志保のことは嫌いになれない。


 私が顔を上げる。

 私が笑顔を見せる。


「ありがと」


 私はもう一度決意した。

 志保のことを、私は応援する。志保が幸せになれるように私は応援するのだ。


「それでですね、今日話したいことっていうのは」


 志保の目が輝く。

 私がお腹に力を込める。


「三上主任のことなんです」

「主任のこと?」

「はい!」


 志保が身を乗り出した。

 そしてこの後、私は想像もしていなかった話を聞くことになるのだった。


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