29.人生トップクラスのつらい時間
中学の時にも気になる男子はいた。修学旅行で同じ班になった時は神様に感謝したけれど、残念ながら特に進展はなく、そのまま卒業を迎えた。
高校では、告白された男子と付き合ったこともあった。ただ、試験期間中なのに会いたいとしつこく連絡がきたので、面倒になって半年もせずに別れた。
大学に入ると、男子と出会う機会はそれまでよりも増えた。ただ、家のことがあったので、特定の誰かと付き合う気にはなれなかった。
社会人になってからは、出会いが減った。社内の男性から食事や飲みに誘われることはあるが、今のところ恋愛に発展する気配はない。
そうしてみると、これまで私は、まともな恋心というものを抱いたことがなかったのかもしれない。
そんな私が、初めてまともな恋をした。
そして私は、今、初めて感じる痛みに苦しんでいた。
「由香先輩、ここなんですけど」
「ああ、これね。これは……」
志保と話すのがつらかった。
「長峰、書類作るのを手伝ってもらってもいいか?」
「はい、大丈夫です」
主任と顔を合わせるのがつらかった。
よく眠れない。
食べ物が美味しくない。
テレビもネットも楽しくない。
夜が長い。
休日が長い。
こういう時はとかく失敗しがちだ。
ミスだけは絶対しないように、私は細心の注意を払って毎日の仕事をこなしていった。
そんなある日。
「由香先輩。今日の帰り、食事に行きませんか?」
そろそろ定時という頃、志保に誘われた。
すぐに答えようとしたのだが、たぶん私は三秒くらい沈黙していたと思う。
気持ちを奮い立たせて、私は答えた。
「いいわよ」
ちょっと怪訝な顔をした志保が、それでも笑顔で言う。
「ありがとうございます! 定時で上がれそうですか?」
「大丈夫」
「やった!」
嬉しそうな志保が、私に追い打ちを掛ける。
「由香先輩に聞いて欲しいことがあるんですよ。どうしても黙っていられなくて」
「そうなの? じゃあ楽しみにしてるね」
間を置かずに返事が出来たのは、奇跡に近かった。
「私はラザニアのサラダセット、コーヒーは食後で」
「じゃあ、私も同じで」
「かしこまりました」
スラリと背の高いウェイターが、きれいにお辞儀をして戻っていく。
「あの人、やっぱり格好いいですよね」
「そうね」
志保と時々来るカフェ。
あの、カフェである。
しかも、よりによって志保と主任が話をしていた席。その場所で、私はかなり頑張って平静を装っていた。
志保のテンションは、会社を出る時からずっと高いままだ。よほど嬉しい出来事があったのだろう。
そして、それは私にとって不幸な出来事に違いない。
「で、話したいことってなあに?」
嫌な話はさっさと終わらせたい。
そんな思いで志保を促す。
「そんなに慌てないでくださいよぉ」
志保がヒラヒラと手を振りながら答えた。
人生の中でもトップクラスのつらい時間だ。周りの感情に敏感なはず志保が、今の私の状態に気付かないのが不思議でならない。
とりあえず、お水を飲んで気持ちを落ち着かせる。
苛立ちを悟られないようグラスをそっと置いた時、ウェイターがやってきた。
「セットのサラダでございます」
慣れた手付きでシルバーとお皿を並べていく。
それを見ていた志保が、にこりと笑いながら言った。
「ありがとうございます」
ウェイターが、嬉しそうに笑顔を返した。
志保は、大学時代からそうだった。きついことも言うけれど、基本的には礼儀正しく、そして、その笑顔は女の私から見ても可愛らしい。
そういうところに主任も惹かれたのだろう。
「いただきます」
志保がサラダを食べ始めた。
「いただきます」
私もサラダを食べ始めた。
ブロッコリーにフォークを刺して、それを口に運んだところで志保が話し出す。
「私、サラダを食べる度に思い出すんですよ」
ブロッコリーを飲み込んで、私が志保を見た。
「大学の時、みんなでキャンプに行ったじゃないですか。そこで由香先輩が作ってくれたサラダが、すごくきれいで、すごく美味しかったんです」
大学時代、キャンプには何度か行ったことがあった。アウトドア好きの友達が、お金のない私のために、無料のキャンプ場を探しては誘ってくれたのだ。同じサークルだった志保とも、たしか二回くらい一緒に行ったと思う。
「あの虹色サラダ、私、感動しました!」
「そう言えば、そんなのを作ったこともあったわね」
虹色ではないけれど、たしかに七色のサラダは作った覚えがある。
トマトとかゆで卵とかアボガドとか、色の違う食材を虹みたいに並べたサラダ。キャンプ道具はいつも友達が用意してくれたので、せめて料理だけはと頑張ったのだ。
「あのサラダを見て、私、由香先輩について行こうって思ったんです」
「ついて行こうって……」
私は呆れ顔で志保を見た。
たしかに、あれ以来志保が私にくっついてくるようになった気がする。レポートの書き方を教えて欲しいとか、料理を教えて欲しいとか、どこかへ遊びに行こうとか。
「由香先輩、家のこともあるのに単位を落としたことないし、ゼミにも入ってるし、バイトが忙しいのにちゃんと遊びにも行くし。ほんとにすごい人だなぁって、ずっと思ってたんですよ」
「全然すごくなんてないわよ」
答えて、私は目を伏せた。
志保の話は続く。
「先輩、覚えてます? 私が風邪を引いた時、アパートにおかゆを作りに来てくれたこと」
「覚えてるわよ」
「由香先輩、あの時バイト休んでくれたんですよね。あとでほかの先輩から聞きました」
「そ、そうだったかな」
誰だ、余計なことを言ったのは。
友達の顔を何人か思い出しながら、恥ずかしさをごまかすようにミニトマトをつつく。
「サークルで揉め事があると、最初に割って入るのが由香先輩でした。道に迷ってる留学生に、たどたどしい英語で話し掛けてたこともありました」
「……」
さっきから、ミニトマトにフォークが刺さってくれない。
逃げ回るミニトマトを追い掛ける私の前で、志保が、自分のサラダのミニトマトを一撃で仕留めた。
「はい、どうぞ」
「……ありがと」
差し出されたフォークを受け取り、先っぽのミニトマトを口に入れて、私は志保にフォークを返した。
そのフォークを持ち替えて、志保が言う。
「これ、もらいますね」
私が苦戦していたミニトマトを一撃で仕留めると、それをパクリと食べる。
その顔はやけに嬉しそうだ。
「由香先輩が卒業した後、私、たくさん勉強して、たくさん資格を取ったんですよ。絶対由香先輩と同じ会社に入るんだって」
志保がフォークを置く。
志保が両手を膝に置く
そして志保が、曇りない笑顔で言った。
「私、由香先輩のこと、大好きです!」
まっすぐな言葉。
まっすぐな瞳。
まったくもう
私は諦めた。
まだ割り切れない気持ちはあるけれど、やっぱり志保のことは嫌いになれない。
私が顔を上げる。
私が笑顔を見せる。
「ありがと」
私はもう一度決意した。
志保のことを、私は応援する。志保が幸せになれるように私は応援するのだ。
「それでですね、今日話したいことっていうのは」
志保の目が輝く。
私がお腹に力を込める。
「三上主任のことなんです」
「主任のこと?」
「はい!」
志保が身を乗り出した。
そしてこの後、私は想像もしていなかった話を聞くことになるのだった。




