26.夜の公園
店の前で部長と別れた私は、駅と反対方向に歩き始めた。酔いを醒ましたかったのもあるが、どうにも心のモヤモヤが晴れなくて、夜風に当たりたいと思ったのだ。
この辺りは飲み屋が多い。ご機嫌で歩く人たちの中を、私は不機嫌な顔で歩いていった。
私が行っている仕事の中に、営業マンの勤怠チェックがある。
出退勤時刻は、フロア入り口のリーダに社員証をタッチすることで自動的に記録されるのだが、営業マンは直行直帰があるので、自分のスマホからも登録ができるようになっている。この漏れをチェックするのだ。
つまり私は、業務上、誰がどのくらい働いているかを知ることになる。
主任は、一課の時から毎月の残業が”みなし残業時間”ぎりぎりだった。みなし残業とは、勤務時間の管理がしにくい営業マンたちに最初から”みなしで”支払われている残業分のことだ。この残業時間を超えて働くと、上司の呼び出しを受けるなど面倒なことになる。
でも、私は確信している。主任は絶対それ以上働いている。なぜなら、主任が作った電子ファイルのタイムスタンプが余裕で定時を過ぎているのに、その日主任が”定時退社”していることが何度もあるからだ。
うちの会社の場合、社員証のリーダタッチとドアロックが連動していない。つまり、社員証をタッチしないで会社を出て、あとからスマホで定時退社にすることができてしまう。これを主任は”悪用”しているのだ。まさにサービス残業である。
そこまでして働いているのに、どう考えても、主任の給料は二課に移ってから減っていた。
さすがの私も、営業マンの給料までは分からない。でも、営業成績は分かる。給与規定と照らし合わせれば、おおよその額は計算できてしまうのだ。
一課と違って、二課は新規獲得時のインセンティブが給料に大きく影響する。だが、新規をそう簡単に取ってこられるはずもなく、ノルマ未達の月も珍しくない。
それは主任も同じだ。給料を何に使っているのかは知らないが、貯金に回すにしろ趣味に使うにしろ、厳しい状況には違いない。
そして、腹立たしいことに、この四月から一課全体の売上が落ちていた。
最大の原因は分かっている。とある大口顧客の売上がなくなったからだ。そして、その原因もさっき分かった。とある大口顧客とは、前部長と共謀していた相手だったからだ。
だが、売上の減少はほかの取引先にも及んでいる。そのほとんどが、もと三上主任の担当だ。
つまり。
「主任の異動が間違ってるのよ」
酔っ払いのダミ声に混じって私がつぶやく。
「くだらない噂話を気にするなんて、うちの経営陣はバカなんだわ」
怒りの矛先は経営陣で、しかも他言無用の話。今回ばかりは気持ちの持って行き場がなかった。
思考がグルグル回る。一周するごとに感情が膨らんでいく。
「あー、もう!」
明滅するネオンに不満をぶつけた、その時。
「長峰?」
真正面に予想外の人が現れた。
「主任!?」
完全に油断していた。目をまん丸くして私が立ちすくむ。
「こんなところで何してるんだ?」
「えっと、あの……」
頭が回らない。
うまい答えが見付からない。
「と、友達と、その……」
怪しさ満点の返事をして、私がうつむく。
気まずい。めちゃくちゃ気まずい。
このままではいけないと、とりあえず私は無理矢理顔を上げた。
「主任は、どうしてここに?」
すると、今度は主任が気まずそうな顔をした。
「一課の時のお客さんと飲んでたんだ。まあ、接待とかじゃないんだけど」
一課の時の?
私が首を傾げる。
「俺が引き継いだ営業マンの対応が、あんまりよくないらしくてね。ただ、会社にクレームを入れるほどじゃないから、俺からうまく伝えてくれないかって、まあ、そんな話だ」
主任が苦笑する。
「このことは誰にも言わないでくれ。俺がそいつにちゃんと言うから」
「分かりました」
私は頷いた。
またもや他言無用の話。
それはいい。私も大人だ。お局様のように、意味もなく社内を引っかき回すようなことはしない。
だけど。
「それって、主任には一円の得にもならないですよね」
低い声に、主任が怯んだ。
「ま、まあ、そうだな。でも……」
「でもじゃないです!」
私が大きな声を上げた。
無性に腹が立って、掴み掛からんばかりの勢いで主任に迫る。
「どうして主任はそうなんですか! 余計なことを引き受けて、苦労ばっかり背負い込んで」
周りの人が何事かと私たちを見たが、構わず私は続けた。
「異動のことだってそうです! 主任は全然悪くないのに、どうしておとなしく二課なんかに移ったんですか!」
私は主任を睨み付けた。
直後。
「二課は、会社にとって必要な部署だ。二課を悪く言うのはやめろ」
落ち着いた声に、膨れ上がった感情が一気に萎む。
「すみません」
言い過ぎた。今のは明らかに失言だ。
私がうつむく。主任の顔を見るのが怖くて、私は視線を上げることができなかった。
すると。
「こっちへ来い」
主任が私の腕を掴んで歩き出した。
引かれるがままに私も歩き出す。
主任の手の熱を感じながら、私は泣きそうになった。
主任に怒られるかもしれない。
主任に嫌われたかもしれない。
主任は歩く。止まることなく歩き続ける。
繁華街を抜け、オフィス街も抜けた私たちは、やがて小さな公園へとやってきた。
「ここで待ってろ」
ベンチの前で私の腕を放すと、主任は足早に公園を出て行った。
力なくベンチに腰を落として、私は地面をじっと見つめた。
不安な時間が過ぎていく。膝の上で両手をぎゅっと握る。
ほどなくして、主任が戻ってきた。
「どっちがいい?」
右手には缶コーヒー。
左手にはミネラルウォーター。
「えっと、こっちで」
私はミネラルウォーターを受け取った。
「とりあえず飲め」
「はい」
隣に座った主任が、黙って缶コーヒーを飲み始めた。
私もミネラルウォーターを飲んだ。
一口飲んでチラリと主任を見る。
主任は無言。
二口飲んでチラリと主任を見る。
主任は反応なし。
仕方なく、私はミネラルウォーターを飲み続けた。
半分以上を飲み終えた時、ようやく主任が口を開く。
「酔いは醒めたか?」
ちょっと驚きながら、小さな声で私が答える。
「はい、大丈夫です」
さっきまでは間違いなく酔っていた。でも、今は完全に醒めている。
私をチラリと見た主任が、前を向いて言った。
「俺の異動の時の話、誰に聞いたんだ?」
「それは……」
部長との約束だ。この問いには答えられない。
だが、主任は簡単に言い当てた。
「松田部長だな」
否定も肯定もできずに、私はまたうつむく。
「まったく、あの人は」
主任がため息をついた。
「どこまで聞いたのかは知らないが、俺は今回の異動に納得している。だから、お前が気にすることじゃない」
それを聞いて、私の不満がまたもや首をもたげ始める。
「でも、悪いのは前の部長で、主任は……」
「まあ聞け」
主任が体の向きを変えて、私を見た。
「相手の会社は、うちの上得意だった。俺はそこの担当だったんだ。給料にもボーナスにもそれは反映されていた。俺は、間違いなく恩恵を受けていたんだよ」
「それは」
言い掛けた私を、主任が片手で制する。
「前の部長と一緒に何度も接待の場に同席した。うまい料理も食べた。客観的に見れば、俺もやっぱりいい思いをしていたということになるだろう」
納得できないという顔の私を見て、主任が笑った。
「もちろん、それを俺は望んでいなかったし、不当な見返りを受け取ったこともない。それは経営陣も分かってくれた。だから、この件と俺の異動は関係ないんだよ」
「そうなんですか!?」
私が声を上げる。
「そうだ。そもそも、今年の初めには二課への異動を打診されていたからな。あの事件のせいでバタバタして、発表が急になっただけだ」
私は目を丸くして主任を見つめ、その視線を地面に落とし、最後にため息をついて、脱力した。
主任が、缶コーヒーを一口飲んで続ける。
「松田部長も、事情をすべて知っているわけじゃない。そもそもあの人は本社にいなかったんだし、部長の交代こそが急な話で、俺より松田部長の方がよっぽど慌ただしかったと思うよ」
「そうだったんですね」
何だか急に恥ずかしくなった。
一人で不満を爆発させて、一人で大騒ぎして。
「長峰も知ってる通り、二課って人が定着しないだろ? だけど、新規顧客の開拓は、会社にとって必要なことだ。だから、俺は二課の仕事を全力でやる。二課でも成果を上げて、さすがは三上だって言わせてみせる」
力強い声。
力強い言葉。
私は、主任のことを何も分かっていなかった。
この人は、ちゃんと考えて仕事をしている。
この人は、真面目に仕事に向き合っている。
そう思った瞬間、私はミネラルウォーターを脇に置いて、勢いよく立ち上がった。そして、くるりと主任に体を向ける。
「さっきは余計なことを言ってすみませんでした」
両手をきちんと前で揃え、腰を四十五度に負けて頭を下げた。
「あ、いや……」
主任が何かを言い掛けたが、私はそのままの姿勢でいた。
三秒か、五秒か、十秒か。
気の済むまで頭を下げ続けた私が、ゆっくりと顔を上げる。
その私の目が、不思議な光景を捉えた。
主任が、奇妙な格好をしていた。
片手に缶コーヒーを持ったまま、腰を半分浮かせ、両手を私に向けて中途半端に伸ばしている。
狼狽えたように泳ぐ目線とパクパク動く唇。その様子は怪しさ満点だ。
さっきまでの男らしさはどこへやら。
その情けない姿がおかしくて、私は笑いそうになるのを必死に堪えた。
さすがに今は笑ってはいけない。そう思うのに、奇妙な格好のままで、主任はパクパクと口を動かし続ける。
そんな主任が、私には、とても可愛らしく思えた。
柔らかな声で私が言う。
「主任、座ってください」
「あ、ああ」
素直に主任が腰を下ろす。
私も静かに隣に座る。
主任が恥ずかしそうに缶コーヒーを飲んだ。
それを膝の上に載せ、大きな両手でそっと包む。
「えっと、まあ何というか」
そして主任が、とても小さな声で言った。
「長峰が俺のことを気に掛けてくれてるのは、その、すごく嬉しいと思うよ」
それに、私は大きく反応した。
「今、なんて?」
聞こえていた。
ちゃんと聞こえていた。
だけど、私はもう一度その言葉が聞きたかった。
「今、なんて言ったんですか?」
聞こえないふりをしてさらに聞くと、主任が顔を背ける。
「何でもない」
「えー!」
私の声に、今度は主任が大きく反応した。
「もう遅い。帰るぞ!」
缶コーヒーを一気に飲み干して主任が立ち上がる。
「主任、さっきのをもう一度……」
「帰るぞ!」
ものすごい勢いで主任が歩き出した。
慌てて飲みかけのペットボトルを鞄にしまいながら、走るように私はあとを追った。だが、あまりに早すぎて追い付けない。
「主任、待ってください!」
途端、ピタリと主任が止まった。
私が追い付くと、私を見ずにまた歩き出す。でも、今度の歩みは緩やかだ。
空き缶をゴミ箱に放り込んだ主任が、前を見たまま言う。
「駅まで送る」
半歩先にいる主任の顔は、よく分からない。
「ありがとうございます」
礼を言って、私は隣に並ぼうとした。
ところが、主任は足を早めて並ばせてくれなかった。そのくせ、すぐに速度を落として私から離れることはしない。
私のほんの少しだけ前を白いワイシャツが歩く。
背筋を伸ばし、前を睨むように歩いて行く。
この時、私はとんでもないことを考えてしまった。
駅に着いたら、電車が止まってたりしないかな
たぶん私は、まだ酔っていたのだろう。
そういうことにしておこうと自分を納得させつつ、大きな背中を追って、私は夜の街を歩いていった。




