24.大人の気遣い
松田部長から指定されたのは、会社から電車で二駅離れた場所にある普通の居酒屋だった。
先に来ていた部長が私を見付けて手を振る。もっと大人の雰囲気漂うお店をイメージしていた私は、拍子抜けしたように席に座った。
「期待外れだったかい?」
「いえ」
志保だけでなく、松田部長にまで気持ちを読まれてしまった。
ちょっと落ち込む私の前で、部長が店員に向かって手を振りながら私に聞く。
「いつもは何飲んでるの?」
「ビールが多いです」
「了解」
やって来た店員に、部長がビールを注文する。
営業部伝統の瓶ビールではなく、ジョッキ生が二つ。
「すみません、部長に注文させてしまって」
またも落ち込む私を見て、部長が笑った。
「いいのいいの。僕は、長峰くんと一緒に飲めて嬉しいんだよ。だからね、今日は僕のおごりだ」
「そんな」
「いいからいいから。立場上も割り勘なんてできないしね。素直におごられてよ」
「……分かりました」
諦めて私は頷いた。
じつは、私はおごられるのが苦手だ。そう思うようになった原点は、大学時代にある。
三年生の時、ゼミで一緒だった男子の先輩の研究を手伝ったことがあった。そのお礼にと、先輩が私に昼食をおごってくれたのだ。
場所はファミレス。それは全然問題なかったのだが。
「長峰さんのおうち、いろいろ大変なんだよね」
「まあ、はい」
「今日は何を食べてもいいからね」
笑顔で言う先輩は、メニューを広げると、一分もしないうちにある料理を指さした。
「俺はこれにするよ。長峰さんは?」
「……じゃあ、私も同じもので」
「いいの? 俺に合わせなくていいんだよ」
「いえ、大丈夫です」
「分かった」
先輩がタッチパネルで注文を始める。
「飲み物はどうする? 俺は水でいいけど、長峰さんは?」
「私も、水でいいです」
「ほんとにいいの?」
「はい」
「分かった」
注文を終えた先輩は、タッチパネルを元の場所に戻すと私に言った。
「デザートも食べていいからね。俺は食べないけど」
「私も、大丈夫です」
こうして私は、そのお店で一番安いランチを食べ、先輩にお礼を言って店を出たのだった。
おごってくれたことに感謝はしたが、正直に言うと、全然嬉しくなかった。
社会人になってからもおごってもらう機会はあったのだが、メニュー選びとか食べるスピードとか、とにかく気を遣うことが多かった。唯一、この春退社した先輩におごってもらった時だけは食事を楽しめた気がする。
そんな訳で、私は誰かと食事をする時にはなるべく割り勘にしてもらっている。営業マンと飲む時もそうだし、志保との食事もそうだ。だから、部長におごりと言われた瞬間から、私はちょっとブルーだった。
ところが。
「つまみは何がいい?」
部長がメニューを広げる。そのページは肉料理。お腹が空いていた私の目は、自然と唐揚げに向かった。
すると。
「唐揚げとかどう?」
「あ、はい」
「よし。じゃあそれと、焼き鳥の盛り合わせもいっちゃおうか」
そう言って部長がページをめくる。そこは魚料理。
私の目が刺身の盛り合わせを捉えた。一人暮らしだと、魚料理、とくに刺身を食べる機会はとても少ない。
するとまたも。
「刺身もいいね。長峰さんは?」
「そうですね」
「よし。じゃあこの七点盛りがいいかな。それと、焼き魚もいってみようか」
部長がまたページをめくる。そこはサラダ関連。
私は、居酒屋に来るといつもサラダを頼んだ。定番は、野菜だけのシンプルなもの。
そして今度も。
「あっさりしたサラダもいいよね。やみつきキャベツってやつと大根サラダだったらどっちがいい?」
また、私が気になる料理を当てられた。
驚いて顔を上げた私は、どうして部長が私の好みを知ったのかを知った。
部長はメニューを見ていなかった。部長は私を、おそらく私の目を見ていたのだ。
「部長って、凄いんですね」
「ん?」
「いえ、何でもありません。えっと、じゃあ大根サラダで」
「いいね。じゃあ僕は……」
ちょうどその時、店員がビールを持ってきた。
「ありがとう。料理の注文、いい?」
「はい、どうぞ」
店員がポケットからハンディターミナルを取り出すのを待って、部長がメニューを指さしながら注文を始めた。店員のペースに合わせて、一つずつゆっくり伝えていく。
店員が去って行くと、部長がジョッキを持ち上げた。
「今日も一日お疲れ様」
「お疲れ様です」
軽くジョッキを当てると、部長はとても美味しそうにビールを飲んだ。
「ああ、いいねぇ。美味しいねぇ」
その笑顔が私を安心させた。
私もジョッキに口を付ける。瓶ビールではなくジョッキだったからなのか、それとも部長と一緒だったからなのか。
そのビールを、私はとても美味しいと思った。
本当はすぐ本題に入りたかったのだが、私はお腹を満たすことを優先した。料理が美味しかったこともあるが、部長の話が面白かったことも理由にある。
仕事の話はまったくなかった。趣味の釣りのことや旅先でのエピソードなどを、軽妙なトークで話してくれる。
自慢話も説教もない。同じ話の繰り返しもない。適当なタイミングでお休みが入るので、私が料理を食べられないということもない。
すっかりリラックスした私は、ちょうどやってきた焼き鳥の盛り合わせを店員から受け取りながら、部長に聞いてみた。
「これ、串から外した方がいいですか?」
居酒屋で先輩たちと飲む時に、いつも悩んでいたのだ。
焼き鳥は串から外すべきか否か。
「僕はそのままでいいよ」
「分かりました」
お皿をテーブルに置いて、私が笑う。
「焼き鳥って、どうしたらいいのかいつも迷っちゃうんです」
「分かるなぁ。先輩や上司と飲みに行くと、そういうところ気を遣うからね」
部長も笑う。
「焼き鳥の扱いに正解はないと思うけど、無難なのは、今みたいに聞くことだろうね」
「やっぱりそうですか」
「気遣いっていうのは、相手に満足してもらわなければ意味がない。相手の知識や性格、相手と自分との関係。それを総合的に判断して、その場に応じた気遣いをする必要がある。気遣いっていうのは、相手のためにあるものだからね」
私は大きく頷いた。
「気遣いをする場合、まずは相手を知ることから始める。その一番簡単な方法が、聞くっていうことだ」
志保ではないが、何だかメモしたくなる内容だ。
「たとえ聞いても、相手が本音を言ってくれないことだってある。そのために、相手が心を開いてくれるよう工夫することも大切だね」
「なるほど」
強く大きく頷いて、私が言った。
「すっごく勉強になります!」
「そう? それならよかった」
ここに瓶ビールがないのが残念でならない。あれば、私は喜んで部長にお酌をしていたことだろう。
身を乗り出すように部長を見つめる私を笑顔で見つめ返して、部長はジョッキを持ち上げた。それをぐいっと一口飲むと、笑ったまま私に言う。
「じゃあ、そろそろ本題に入ろうか」
その言葉で私は姿勢を正した。
部長はジョッキをテーブルに置くと、水滴で濡れたテーブルをおしぼりで拭いてから、ゆっくりと本題を話し始めた。




