22.給湯室の大きな声
会社に着いて更衣室で着替えると、私は廊下にある自販機を経由してから席へと向かう。最近始めた朝のルーティンだ。
「由香先輩、今日も缶コーヒーなんですね」
「まあね」
砂糖とミルク入りの缶コーヒー。私はブラック派なのだが、朝のこの一本だけは美味しいと思う。
パソコンの電源を入れ、袖机から書類を取り出し、そこに鞄をしまってから缶コーヒーを一口。それを机に置いて、視線を少し離れた島へ。いつもの背中がそこにあることを確認してから、私は仕事モードに入った。
パスワードを入力してログインし、社内システムを立ち上げる。直後、廊下に向かって早足で歩く営業マンを見付けた。
「猪野さん!」
「おー、長峰さん。おはよう」
「おはようございます。猪野さん、昨日社用車使いましたよね。外出する前に、駐車料金の精算済ませてくださいね」
「やばっ、忘れてた」
突撃前に声を掛けられてよかった。今日は月初第一営業日。先月分の精算漏れがあると面倒だ。
画面に目を戻してメールのチェックを始めると、隣から志保の声がした。
「由香先輩、最近何だか張り切ってますよね」
「そう? 普通だと思うけど」
答えながら、私は優先度の高いメールを選んで返信文を打ち始めた。
志保に言われるまでもなく、自分でも自覚があった。
ここのところ、何となく気分がいい。
夜はよく眠れるし、朝はスッキリ起きられる。面倒だと思っていたメイクも、ちょっと楽しいと思えるようになってきた。通勤電車だけは慣れないけれど、改札口を抜けた時の開放感は悪くない。
軽やかにキーボードを叩いてメールを片付けると、缶コーヒーを一口飲む。
今日もいい感じだ。集中できてる。
顔を上げ、姿勢よく座っているその人を数秒見つめた後、私は次のメールの処理に入った。
夕方、予定より早く仕事を終わらせた私は、立ち上がりながら志保に声を掛けた。
「カップ、洗っといてあげる」
「あ、すみません」
残っていたコーヒーを一息に飲んで、志保がカップを差し出した。
今日は、帰りに志保と食事に行くことになっている。
「もう少しで終わるので、ちょっと待っててください」
「慌てなくていいわよ。それより、その仕事をきっちり終わらせなさい」
「はい」
頷く志保に微笑んで、私は給湯室へと向かった。
いつも月末や月初は慌ただしいのだが、今回は驚くほど順調だ。志保が戦力になってきたことが大きいのかもしれない。
明日は、非常に不本意ながら、月初の恒例業務となった松田部長の資料作りがある。
「あれも志保に任せられないかなぁ」
冗談交じりに呟いて、私は廊下の角を曲がった。
すると。
「三上主任って、そんな人だったんですか!?」
給湯室から大きな声がした。
咄嗟に体を引っ込めて、耳だけを給湯室に向ける。
この声は、たしか……
すると、別の大きな声がした。
「そうよ。部長だけ外に飛ばしておいて、自分は平気な顔で本社に残ってるんだから、図々しいったらありゃしないわ」
こちらの声は、間違いなくあの人だ。
正式名称、山下幸子。通称お局様。多くの社員から恐れられている厄介な人物。
「山下さん、どうしてそんな裏事情を知ってるんですか?」
質問しているのは、お局様の腰巾着だろう。総務部所属で、お局様のお気に入りだ。
総務部のフロアは一つ下。二人がここに来ることなんて滅多にないのに、と眉をひそめた瞬間、思い出した。そう言えば、下のフロアの給湯器が壊れたと連絡を受けていた。
タイミングの悪さを呪いながら、私は壁に張り付いて聞き耳を立てる。
「私、聞いちゃったのよ。部長と三上くんが話しているところを」
お局様が話しているのは、間違いなく主任が二課に異動になった時のことだ。部長というのは、今の部長の松田さんではなく、前の部長のことだろう。
「三上くんが部長を責めてたのよ。その時ね、部長が言ったの。”きみだっていい思いをしてたじゃないか。きみと僕は共犯なんだよ”って」
前部長と主任が共犯?
「だからね、私、聞いたことを全部人事部長に報告したのよ。それなのに、部長は左遷で、三上くんは降格なしの異動だけ。おかしいと思わない?」
「それ、絶対おかしいです!」
誰が来るかも分からない給湯室で、しかもあんなに大きな声で話すことではないと思う。
だが、私はその内容が気になって仕方なかった。
「三上くん、もしかしたら、うちの上とつながってるのかもね。じゃなきゃ変よ」
「ですよね」
「今度専務に聞いてみようかしら」
「山下さん、専務とお話できるんですか?」
「まあね。私、田中くんとは同期だし」
田中くんというのは専務のことだ。平社員の中で、お局様だけが専務を”くん付け”で呼んでいる。
「山下さん、凄いですね!」
「そんなことないわよ」
見え見えのヨイショを、お局様が嬉しそうに受け止める。聞いていて呆れてしまうが、それは今はどうでもよかった。
前部長と主任の間に何があったのか。
営業部長が左遷になるほどの出来事とは一体何だったのか。
私は、耳に全神経を集中して二人の会話が再開するのを待った。
その時。
「長峰くん!」
ビクンッ!
心臓が跳ね上がる。
びっくりして振り返ると、そこには満面の笑みを浮かべた松田部長がいた。
「もう仕事は終わったの?」
「は、はい」
「そっか。長峰くん、いつも頑張ってるからね。帰れる時には早く帰った方がいいよ」
そう言うと、にこにこしながら私の耳元で囁いた。
「明日、いつもの、よろしくね」
私の肩をポンと叩いて部長が去って行く。
大きなため息をついて、私はもう一度耳を澄ませた。だが、給湯室は沈黙している。たぶん私と松田部長の会話が二人に聞こえたのだろう。
今なら、何食わぬ顔で「お疲れ様です」と言いながら入っていけるとは思ったが、さすがにそれはやめた。あの二人がいなくなった頃、改めて来ることにしよう。
それにしても。
主任の異動の理由って……
ここ数日の気分の良さは吹き飛んでしまっていた。
疑問とマグカップを抱えたまま、私は意味もなく廊下を歩き続けた。




