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主任と私  作者: まあく
19/60

19.やっぱり修羅場

 会社を出る前に、松田部長から言われていた。


「先方の狙いは、たぶん価格交渉だ。長峰くんがいろいろ言われるのは最初のうちだけだと思うよ」


 私もそんなところだろうと思っていた。

 だが、それは恐ろしく甘い幻想だったのだ。


「つまり、宛名ラベルを貼り間違えたと」

「はい」

「封をする前に中身を確認するとか、そういうことはしなかったのか?」

「はい、申し訳ありません」


 野太い声が私を責める。


「きみは、入社何年目なんだ?」

「三年目です」

「三年目にもなって、そんなくだらないミスをするのか」

「申し訳ありません」


 もっともな指摘にぐうの音も出ない。


「で、うち宛ての請求書はちゃんと回収したのか?」

「それは……」


 答え掛けた私を遮って、課長が身を乗り出す。


「もちろんでございます。先方から返送していただけると連絡が……」

「きみには聞いておらん!」


 途方もなく大きな声がした。

 私の肩がビクンと跳ねる。


「申し訳ありません!」


 課長が頭を下げて体を引っ込めた。


「で、どうなんだ?」


 目玉がギョロリと動く。


「は、はい。すぐに返送すると、先方にはおっしゃっていただきました」


 掠れた声で私が答えた。

 もともと喉が渇いていた上に、この緊張感。もう喉が張り付いてしまいそうだ。


「すぐに返送と言っても、その前に、コピーを取ることはできるだろうな」

「コピー、ですか?」


 意味が分からず、私が首を傾げる。


「うち宛ての請求書には、明細が入っていたはずだ。つまり、うちがどんな部品を使っているのか、向こうに筒抜けになるということになる」

「それは……」


 確かにそうだろう。だが、それにどんな意味があるのか私には分からなかった。

 それが顔に出ていたのだろう。蔑むように私を見ながら部長が言った。


「野飛エンジニアリングは、うちと同じ工作機械メーカーだ。それくらいは知っているだろう?」

「はい」

「つまり、向こうはうちの競合相手なんだ。そんな相手に、大切な情報が渡ってしまったんだよ」


 私の目が広がった。


「うちが何年もかけて作り上げた製品にどんな部品が使われているのか、何の苦労もなく分かってしまったわけだ。先方としては笑いが止まらないだろうよ」


 言われて初めて、私は自分のしでかしたことの重大性を知った。

 まずいと思った。本当にまずいことをやってしまったと思った。


「きみは、どう責任を取るつもりかね」


 答えようがなかった。

 どうしていいのか分からない。どう答えればいいのか、どう責任を取ればいいのか、私にはまったく分からなかった。


「なぜ黙っている?」


 答えない私にかわって、またも課長が声を上げる。


「部長、その件につきましては……」

「きみには聞いておらん!」

「申し訳ありません!」


 課長の助け船は瞬殺された。


「どう責任を取るつもりかと聞いているんだよ」


 部長が迫る。

 私が両手を握る。


 やがて、追い詰められた私の口から、弱々しい言葉が漏れた。


「責任を取って、会社を辞めます」

「長峰くん……」


 課長のか細い声が聞こえた。

 直後、無慈悲な声が響く。


「きみが辞めたところで、うちには何のメリットもないよ」


 当然の言葉に、私は唇を噛んだ。


「結局、きみに責任を取ることなんてできないんだよ。覆水盆に返らずって知ってるか? きみにはね、もうどうすることもできないんだよ」


 うまく息ができない。苦しくて視界もぼやけてきた。

 声を出すことも、考えることも、たぶん、今は立ち上がることすらできない。

 姿勢を保つのがやっとの状態で、私は次の言葉を待った。鋭い槍が繰り出されるのを、それが胸に突き刺さるのを、私はじっと待った。

 すると。


「やからした本人には何もできない。そうなると、シータテックさんとして、どうにかするしかないよね」


 声の向かう先が変わった。


「どうするべきか、戻って考えてこい。しっかりとした回答がない限り、私は納得しないからな」

「はい、それはもう」


 課長が答える。


「上司と相談して、またご連絡いたします」


 これは終了に向かう流れだ。

 ようやく終わった。長い地獄のような時間だった。あとはどうにか立ち上がって……。


「だが、その前に」


 重たい声が、再び私に向く。


「この事務員にも、できることはしてもらわんとな」


 場が凍り付いた。


「きみ、土下座しなさい」


 私の呼吸が止まる。


「それくらいは、してもいいとは思わないか?」


 私は目を閉じた。

 瞼の裏にじわりと涙が滲む。

 それをグッとこらえ、小さな声で私が言った。


「分かりました」


 目を開いて顔を上げる。

 大きな目玉が私を見下ろしている。その顔には、気持ち悪い笑みが浮かんでいた。


 恐ろしかった。

 悔しかった。


 でも、ミスをしたのは私だ。

 土下座でこの場が収まるのなら、やるしかない。


 両手に力を込め、足に神経を集中させる。

 思った以上に力が入らない。椅子を引こうと下ろした腕さえうまく動かない。

 それでも私は立ち上がろうとした。歯を食いしばり、お腹に力を込めて、私は椅子から……。


「長峰。いいからそのまま座っていろ」


 突然声がした。

 驚いて私が隣を向く。

 そこにいたのは、背筋を伸ばし、両の拳を足の付け根に引き付け、真っ直ぐ前を向いた主任だった。

 その横顔が言った。


「大変失礼ですが、あなたには、代官産業の購買部長としての自覚はあるのでしょうか」


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