18.修羅場の予感
「こちらでお待ちください」
事務の女性は無表情にそう告げると、軽く一礼してドアを閉めた。
小さなテーブルが一つと、両側に椅子が三つずつある小さな会議室。その入り口側の壁に三人並んで立って、代官産業の担当者が来るのを待った。
うちの会社は、営業マンでも普段はノーネクタイで、夏はジャケットも着ない。だが、今は課長も主任もネクタイをきっちりと締めて、ジャケットも着ている。私も、制服ではなくスーツを着ていた。
緊張で硬直している私に主任が言う。
「来るのが担当者だけなら何も問題ない。ただ、購買部長も来た時は、いろいろ言われるかもしれない」
「分かりました」
答えた声が少し掠れていた。飲み物を持ってくればよかったと後悔するが、今となってはどうしようもない。
「鞄は床に置いて、名刺入れだけ持っておけ」
「はい」
「名刺は最初から出しておいた方がいい。念のため二枚だ」
頷いて、名刺を二枚取り出す。
「先方の担当とうちの課長は面識があるから、名刺交換するのは長峰だけになる。俺が紹介したら、前に出て挨拶してくれ」
「分かりました」
「もし購買部長が来たら、最初に俺が課長を紹介する。課長と購買部長の名刺交換が済んだら、次に長峰だ。部長、担当者の順で交換すればいい」
「はい」
事務職の私でも、名刺交換くらいはすることがある。ただ、訪問先で、しかもお詫びの場でどう振る舞えばいいかなんてまるで分からない。主任の細かい説明がとてもありがたかった。
深呼吸をしてから、姿勢を正して直立する。
そろそろ約束の時刻だ。
どうか来るのが担当者だけでありますように
祈りながら、私は扉が開くのを待った。
ところが。
五分経っても、十分経っても扉が開かない。
すでに喉はカラカラだ。何だか頭もぼうっとしてきた。
「長峰、大丈夫か?」
主任の声で、我に返る。
「大丈夫です」
慌てて答えて、また姿勢を正した。
その時、ガチャリと音がして扉が開く。
「お待たせしました」
人の良さそうな男性が入ってきた。小柄で優しそうな顔。たしかにこの人だけなら穏便に済みそうだ。
そう思ったのだが。
ギョロリ
入り口で、大きな目玉が動いた。文字通り上から見下ろされて、私の心臓が縮み上がる。
間違いなく百八十センチ以上はあった。広い肩に分厚い胸。来ているジャケットがはち切れそうだ。
残念ながら、この人が購買部長なのだろう。
部長が部屋に入ってくる。担当者が素早く扉を閉める。
その途端、段取りを無視してうちの課長が動いた。
「この度はご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」
謝りながら購買部長の前に進み出て、名刺を差し出す。
「三上の上司で、杉原と申します」
危険察知センサーが発動したのだろうか。課長の態度は、すでに服従を誓う犬のようだ。
部長が無言で名刺を受け取る。そのまま黙って課長を見下ろし続ける。
この反応はさすがに想定外だったのだろう。課長が狼狽えているのが分かった。
そこに、主任の声がした。
「こちらが、事務担当の長峰です」
課長がすっと下がる。意を決して私が前に出た。
「長峰と申します。この度は本当に申し訳ございませんでした」
目を伏せたまま、名刺を差し出す。
「ふん」
鼻で笑うような声がした。同時に、名刺が乱暴に持っていかれる。
それが私を動揺させた。頭が真っ白になって、どうしていいのか分からなくなる。
すると、横から控え目に声が掛かった。
「担当の佐藤です」
救われたように、私が声の主に向き直る。
「長峰と申します」
私の名刺を、担当者が優しく受け取ってくれた。私も、先方の名刺を両手で丁寧に受け取った。
担当者はとても申し訳なさそうな顔をしている。
この人は、いい人なんだな
気持ちが少しだけ落ち着いた。分からないようにそっと息を吐いてから主任の隣まで下がる。
直後、主任が手提げ袋から菓子折を取り出した。それをうちの課長が受け取って、もう一度購買部長の前に立つ。
「お詫びの気持ちでございます。どうぞお納めください」
部長は、平身低頭の課長からまたも無言で菓子折を受け取ると、それを無造作に担当者に渡した。
受け取った担当者が主任を見る。主任が素早く手提げ袋の口を広げて差し出す。それに担当者が菓子折を入れて、袋の持ち手を握る。
そして担当者が言った。
「どうぞお掛けください」
主任が菓子折を取り出してからここまでの流れにまったく淀みがない。これがビジネスシーンの定番なのだろうか。
などと感心していた私は、やはり未熟者だったのだろう。この後私は、展示会で経験した試練などとは比べものにならない、人生最大級の修羅場を経験することになるのだった。




