17.私の失敗
「由香先輩、何かあったんですか?」
志保に聞かれて、私はイラッとしてしまった。
志保の鋭さが、今は煩わしい。
「何もないわよ」
私の声には明らかにトゲがあった。
志保がうつむいた。
私もうつむいた。
私は、自分の情緒は安定している方だと思っていた。だが、ここ数日は苛々して仕方がない。夜もあまり眠れないし、おかげでずっと寝不足が続いている。
不安定の原因は明白だ。志保と主任の密会を目撃してしまったせいだ。
志保から誘ったのだろうか?
それとも主任から?
二人で何を話していたのだろうか?
二人はどういう関係なのだろうか?
考えても仕方がない。
そんなことは分かっていた。
私には関係ない。
それも分かっていた。
それなのに、あの日のことが頭から離れない。
気になって気になって仕方がない。
仕事に集中できなかった。
志保にも申し訳ないと思った。
仕事を休んで旅行にでも行きたい気分だった。
そんな状態が続いたある日、それは起きた。
朝出社すると、部長席の前に、二課の課長と三上主任が深刻な表情で立っていた。間違いなくトラブル発生だ。
ちょうど突撃くんが通り掛かったので、小声で聞いてみる。
「何かあったんですか?」
営業マンは、部内の情報をスマホで共有している。とくに、トラブルについては些細なことでも皆に知らせるというのが今の部長の方針だ。
私を見た突撃くんが、目をそらした。
「えっと、まあちょっと」
答えてそそくさと私から離れていく。
いやな感じだ。もの凄くいやな予感がする。
私、何かやっちゃった?
ここ数日の出来事を思い起こしながら席に着き、とりあえず仕事の準備をしていると、部長席にいたはずの主任がやってきた。
「長峰。朝から悪いが、ちょっといいか」
私の心臓が強く脈打つ。
それは、当然トキメキなどではなかった。
歩き出した主任のあとをついていくと、辿り着いたのは打ち合わせブースだった。主任に続いてブースに入る。すると、すぐに部長と課長も入ってきた。
扉を閉めた主任が私の隣に座る。部長と課長が正面に座る。
こんなの絶対にいい話ではない。
その予想通り、口火を切った部長の話はいいものではなかった。
「長峰くん。きみに、お客様からクレームが入っている」
「私にですか?」
目を丸くする私に、主任が説明を始めた。
「俺が担当している代官産業は知っているな」
「はい」
代官産業は、主任が二課に異動してから取ってきた顧客だ。初回から割と大きな注文を入れてくれて、その請求書を先日送ったばかりだった。
「昨日の夜、先方から連絡があった。どうやら、違う顧客の請求書が届いたらしい」
瞬間、私の顔から血の気が引いていった。
請求処理は、月初に行われる。各営業マンが社内システムで内容を確認した後、それをまとめて印刷して、私と志保が折って窓空き封筒に入れていくのだ。
請求書はシステムが作っているし、封入は単純作業なので、私や志保のミスが入り込む余地はほとんどない。
だが、古くさい体質の企業、もとい、伝統ある企業の中には、請求書の書式を指定してくるところがあった。その場合は手作業で請求書を作成する必要がある。代官産業もその一つだ。
今回は初回だったこともあり、三上主任が請求書を作っている。それを私が封筒に入れて、宛名ラベルを貼って郵便局に持ち込んだ。
「先方に届いたのは、野飛エンジニアリングのものだったそうだ」
主任の言葉で、私は自分のミスを確信した。
野飛エンジニアリングも独自の請求書を発行している顧客だ。それら特殊な請求処理は、全部私がやっている。
間違いなく、私が宛名ラベルを貼り間違えたのだ。
「野飛エンジニアリングとはさっき連絡がついて、代官産業の請求書が届いていたことを確認した。ただ、こっちは問題ない。請求書は返送してくれるし、わざわざ詫びに来る必要もないと言ってくれた」
「そう、ですか」
私はうつむき、そして立ち上がった。
「申し訳ありません。私が間違えました」
深く頭を下げ、ゆっくり顔を上げると、立ったまま言葉を待った。
すると、主任ではなく課長が声を上げる。
「初回の請求書をいきなり間違えるなんて、前代未聞だよ。先方が怒るのも当然だ」
「申し訳ありません」
私には謝ることしかできない。
「代官産業と言えば、中堅の工作機械メーカーだ。今後大口顧客になる可能性もある。それを失えば、我が社にとって大きな損失になるんだよ」
「本当に申し訳ありません」
もう一度深く頭を下げる。今度は、それを上げることができなかった。
「困ったなぁ。本当に困った」
課長の声が胸に突き刺さる。
主任は何も言わない。というより、何も言えないのだろう。
ここ数日の私は集中力がなかった。それが今回のミスの原因だ。
月初まで時間が巻き戻ってほしいと思った。それができるのなら、給料三ヶ月分を差し出してもいい。
沈黙が続いた。
私が頭を下げ続けた。
やがて。
「まあ、長峰くん。とりあえず座って」
静かな声に顔を上げると、松田部長が穏やかに私を見ていた。
「はい」
私が座ると、部長が話し出す。
「長峰くんは、いつもよくやってくれている。今回みたいなミスを、そう何度も起こすことはないだろう。これからは気を付けてください」
「はい、気を付けます」
真剣に部長の目を見る。
「で、普通ならこれで終わりにしたいところなんだけどね。先方が、長峰くんを謝りに来させろって言うんだよ」
「私に?」
私が目を見開いた。
部長の瞳が揺れた。
「請求書に、長峰くんの印鑑を押してもらっただろう? それでね、先方が、まずは事務担当に謝らせるのが筋だって言ってきかないんだ」
古くさい、もとい、伝統ある企業の書類には、やたらと印鑑が押される。代官産業の請求書にも、社印とは別に、事務担当の私、営業担当の主任、上司である課長、部の責任者である部長が印鑑を押していた。
「こんなことは、普通ないんだよ。三上くんと課長がお詫びに行く。それで収まらなければ、部長の僕が行く。それで終わりになるんだけどね」
部長が困ったように言った。
「先方の担当者はともかく、その上の購買部長がどうやら”くせ者”みたいでね」
私も社会人経験が豊富とは言えないが、たしかに事務担当に謝りに来いというのは珍しい気がする。
だが、先方が来いというなら仕方ないだろう。私がミスをしたのは間違いないのだから。
「分かりました。私がお詫びに行ってきます」
「いや、きみ一人という訳じゃないよ。三上くんと、課長と三人で行ってもらうことになる」
「分かりました」
私は、課長と主任に頭を下げた。
「お二人にもご迷惑をお掛けしてしまって申し訳ありません」
課長が渋い顔で私を見る。
隣の主任が、小さな声で言った。
「長峰、すまない」
主任がうつむいた。その両手は、膝の上で強く握られていた。
私の胸が、ぎゅっと痛んだ。




