15.お父さん
定時と同時に志保が立ち上がる。
「お先に失礼します」
「あ、お疲れ様」
ビックリする私を見向きもせずに、志保は更衣室へと向かっていった。
こんなことは、志保が来て以来初めてだ。
いつもなら、
「由香先輩、お仕事終わりそうですか?」
とか、
「お手伝いできることありますか?」
とか、
「よかったらご飯食べていきませんか?」
などと必ず声を掛けてきたからだ。
今日は私も早く帰れそうだったので、志保を誘って食事でもと思っていた。それが完全に肩すかしを食らってしまった。
「仕方ないわね」
更衣室で顔を合わせるのも気まずかったので、少し時間を空けてから私も席を立つ。
すると、更衣室に向かう途中でまたも珍しい出来事に遭遇した。
「長峰、お先」
「あ、お疲れ様です」
なんと、あの三上主任が帰っていった。
残業、休日出勤が当たり前の働き蜂。同僚の誘いを全て断り、仕事一筋で生きている人。
その人が、定時を十五分しか過ぎていないこの時刻に帰って行く。
「今日って、何かあったっけ?」
首を傾げながら、私は更衣室の扉を開けた。
外で食べて帰る気満々だったのだが、一人でお店に入るのは気が引けた。なので、少しぶらぶらしてからお弁当を買って帰ることにした。
ビルを出て、駅とは反対方向に向かう。この先の本屋さんで料理の本を見てみようと思ったのだ。
大学に入学する頃、私は料理に目覚めた。とくに節約料理のレシピにとても興味がある。
きっかけは、父の死だった。
父は、私が大学に入学する直前に交通事故で亡くなっていた。横断歩道を渡っていた父に、信号無視した車が突っ込んできたのだ。
事故を起こした相手は、父と同年代の男性。車は、父を轢いた後も走り続けてそのまま壁に激突。その男性も亡くなった。
目撃者によると、交差点に侵入する前から男性は意識を失っていたらしい。二つの命が失われるというむごい事故だった。
その不幸な事故に、いくつもの不運が重なる。
事故の相手は自営業だったが、経営が不振で、何ヶ月ものあいだ働きづめだったとのこと。借金も膨らんでいて、生活は非常に苦しかったようだ。
そのため、自動車保険は最低限のものしか入っていなかった。その保険から賠償金が支払われたのだが、総額にはほど遠い金額となってしまった。
そして、じつは父も似たような状況だったのだ。
相手同様、父も自営業だった。それがうまくいっておらず、大きな借金を抱えていた。その事実を、私は父が亡くなって初めて知った。体が丈夫とはいえない母が、体調不良を押してパートをしていた理由もこの時分かった。
父の借金は、賠償金を充てることでどうにか解消できた。しかし、住んでいたマンションは賃貸で、資産と呼べるものはほとんどない。おまけに生命保険も解約していたので、死亡保険金すらない。保険料さえ払えないほど、我が家の家計は苦しかったのだ。
両親は二人とも早くに親を亡くしていて、親戚も少ない。私たち家族は、頼れる人もなく、余力もない状態で生きていくことになったのだった。
大きな悲しみと大きな不安。それをもたらした相手を、私は恨んだ。
わざと事故を起こした訳ではないし、相手だって亡くなっているのだ。死者を責めても意味がない。前を向いて歩いて行くしかない。
そう思うように努力したが、やはりそれは難しかった。
父の葬儀の時、相手の家族が詫びに来たが、私は会わなかった。会えば罵声を浴びせていたか、もしかすると掴み掛かっていたかもしれない。あの時の私は、悲しみと憎しみの中でもがき苦しんでいた。
ただ、それが母に大きな負担を強いることになっていたとは思う。母だってつらかったに違いないのに、事故の対応も様々な手続きも、全部母にやらせてしまった。
未成年だったとはいえ、私にだって出来ることはあったはずなのだ。それなのに、私は泣いてばかりで何の役にも立たなかった。当時のことを思い返す度に、私はそのことを後悔するのだった。
葬儀が終わると、母と私、弟の三人は、小さなアパートに引っ越した。マンションの家賃が払えなくなったからだ。
家賃は減ったが、それでも生活が苦しくて、母はパートを増やした。母にかわって、私が家事の多くを担うことになった。
その春から、私は大学に通うことになっていた。しかも私立大学だ。前期の授業料は納入済みだったが、後期の授業料や、それ以降の学費が払えるとは思えない。
弟は今年から高校生。公立高校だから学費は高くないが、それすら今の我が家には厳しいはず。私が大学に行ってる場合じゃない。
入学は辞退しよう
私は決意し、それを母に伝えた。
すると、思い掛けない答えが返ってきた。
「学費は何とかするから、大学には行きなさい」
本当に大丈夫なのかと何度も聞いたが、その度に母は大丈夫だと答える。
結局私は、母を信じて大学に通うことにした。
母の体調は万全とは言えず、時々パートを休むこともあったが、寝込んで動けないということはあまりなかった。家のことは、弟と協力して何とかなった。心配していた後期の学費も、母がちゃんと払ってくれた。生活は楽ではなかったが、食べる物に困るというほどではなく、どうにか毎日を過ごすことができていた。
家事とアルバイト、そして学業。大変な毎日だったが、そんな生活にもいつしか慣れていく。
私の状況を理解してくれる友達もできて、お金の掛からない遊びや貧乏旅行に誘ってくれたりもした。私は、意外なほどキャンパスライフを楽しむことができた。
だが、どうしても気がかりなことがあった。それは、弟の進路のこと。
もし弟が大学に行きたいと言ったら、はたしてお金はあるのだろうか。
それを母に聞くと、またも母は言った。
「お金は母さんが何とかするから、あんたは心配しなくていいよ」
この時も、私は結局頷いた。きっと父が遺してくれた貯金があるのだろう。そんな風に思ったのだ。
そうして、弟も無事大学に進学することができた。
二人分の学費に加えて普段の生活費。パート収入しかない母がどうやってお金を工面していたのか、今考えると不思議でならないのだが、当時は深く考えなかった。たぶん、私は子供だったのだろう。
そんな私も無事卒業し、就職することもできた。それが今の会社だ。
就職を機に、私は一人暮らしを始めた。職場は家から通える距離だったのだが、住んでいたアパートがそもそも三人で住む広さではなかったからだ。母の体調が良くなっていたことも、私の背中を押した。
「毎月仕送りするからね」
真剣に言う私に、母が笑って答える。
「あんただって家賃があるんだし、社会に出ればいろいろ付き合いもあるのよ。仕送りなんていらないわ」
何の気負いも感じないその笑顔に見送られて、私は家を出た。
それでも、母を弟に託すのは心配で、最初のうちはよく実家に帰っていたのだが、その度に弟が怒ったように言った。
「俺を信用しろよ」
その言葉通り、弟はよくやってくれた。
その弟も大学を卒業して、今年の春から社会人として働いている。
いろいろなことがあった。
それなりに苦労もした。
それでも、私たち家族は、ちゃんと生きている。
帰宅の波に逆行しながら、私は小さく呟いた。
「お父さん。私たち、大丈夫だよ」
小さく微笑み、バッグを肩に掛け直すと、私は目的の本屋へと歩いて行った。




