〔井上 ありさ:2〕
まぁ、予想出来ていた事態ではあるんだけれど。
「……………」
「……………」
「……………」
何だろう。空気に鉛の成分でも混ざってしまったのだろうか。肩凝りが酷くなってきた気すらする。
いやまぁ、先程言った通り、予想はしていた。
晶は基本的に無口。
僕も、頭の中はともかく、あまりお喋りな方では無い。
ありさは……正直よくわからない。
無口プラス無口プラス不明。三で割ればわからないけどとりあえず無口。
……まぁ、早い話。誰も口を開かずに、無言の空間が出来ているだけの話なのだけれど。
「ねぇ」
と、そこで僕に声がかけられる。最初に口を開いたのは、基本無口な晶だった。
素晴らしく不機嫌な彼女からの視線を軽く流しつつ、僕はやや冷たくなったご飯を口に入れた。
晶の言いたいことはわかっている。僕の隣にいる、笑顔絶えない彼女のことだ。
「……なんでいるの」
「いてはいけませんか?」
「アンタに聞いてない」
「私がついてきただけですけど」
「だから」
「うーん、少し寒いですねえ」
「……喧嘩売ってんの?」
「大安売りです」
……本当に。いつ聞いても、この二人の会話には耳が痛くなってくる。
不機嫌な晶の問いに、関係あろうが無かろうが言葉を滑り込ませていくありさ。
我慢出来ずに晶がありさに詰め寄れば、ありさはまるで見当違いな言葉を放って晶の神経を逆撫でし、当然頭にきた晶はその手にナイフを握る。
こうなってしまえばもうおしまい。僕が考えることと言えば、事後の後片付けをどうしようか、それぐらいのものだ。
「……上等。今日こそアンタのその顔を苦痛に歪ませてやる」
パチン、と。
晶の手に握られたナイフが、ワンタッチで刃の顔を出す。
晶は普通の女の子だ。頭の回転こそ人より速く、秀才と呼ばれる程度には勉強もしている。鍛えた男には及ばずとも、身体能力は軒並み平均以上。加えて飾りの仮面が人懐っこいものとくれば、才色兼備とは彼女の為にある言葉だ。
ただ、彼女はひとつだけ、間違った方向に飛び抜けてしまった。
それは絶対的な復讐心。ある程度の苦痛ならばものともせず、到底耐えきれるものではない苦痛ですら、復讐の為ならば舌を噛み切り噛み潰す。
それが、彼女の強さに直結している。
犯罪者と相対し、一方的に蹂躙出来る人並み外れた暴力は、そこから来ている。
と、そこまで考えて。
隣から、何かが割れたような音が聞こえてきた。
「あはは」
チラリと横を見てみれば、そこには粉々になったコップを拾うありさの姿。
落として割ってしまった? いいや、違う。
「もう。だからガラスのコップって嫌いなんですよね」
言いながら、残っていたコップの底の部分を握り、パキィン! とガラスを撒き散らすありさ。
顔を歪ませる晶と僕。晶はありさの行動に対して、僕は飛び散ったガラスの後片付けのことを考えて。
ナイフを握りしめたまま、笑顔のありさを睨み付けている晶。
警戒するのも当然だ。ありさもまた、晶に負けず劣らずの存在なのだから。
「ごめんなさい。また、駄目にしちゃいました」
言いながら、ガラスを広い集めていくありさ。
彼女の使っていたコップは、何の変鉄もない普通のコップだ。ひび割れてもいなければ、特別脆くとも薄くともない、少なくとも握っただけで砕け散るような代物ではない。
だが、ありさはそれを、己の握力のみで、文字通り破壊した。悪い意味で、種も仕掛けもない。
――異常なまでの怪力。それが彼女、井上ありさの強さ。
晶が精神面から来る強さなら、ありさは肉体面から来る強さを持っている。
それが何故かは取り合えず置いておくとして、とにかく彼女は見た目からは考えられない程の力があるのだ。
今のようにコップを割るのはほんの序の口。片手で成人男性を持ち上げて壁に投げつけるのを見たのは何時だったか。そういえば、鍵のかかった車のドアを、無理矢理抉じ開けようとしていたこともあった。流石に素手では彼女の手が先に悲鳴を上げたので止めさせたが、微妙にフレームが歪んでいたのを見て苦笑いしたこともあった。
と、例を挙げればキリがないのでこれくらいにするとして。
「まぁ、二人とも。せめて飯を食べてから喧嘩してくれないかな」
せっかく用意された御飯を生ゴミにしてしまうのは忍びない。そう考えた僕は、喧嘩を止めはせずとも先伸ばしにさせるのであった。
カチャカチャと、食器を洗う音だけが部屋に響いている。今しがた晶がバスルームに向かったので、もう少ししたらシャワーの音が部屋に追加されるだろう。
……だからなんだ、と言われれば、返す言葉は見当たらないけれど。
結局、晩御飯を終える頃には晶の頭も冷えており、部屋が散々たる状況になることは避けられた。片付けと御近所への対応が無くなって良かった、と言うのが僕の感想である。
「ありさ。今日は泊まっていくのかい?」
台所に立っているありさにそう問い掛ける。泊まるのならば、今の内に予備の布団を出して置かなければ。
そう考えた僕だったが、ありさは肩越しにこちらに笑顔を向けて、
「いいえ。今日は帰ろうと思います。描きかけの絵が残っていますので」
そう言って、また食器に目を向けてしまった。
てっきり泊まっていくものだと考えていた僕としては拍子抜けだったが、なるほど、絵か。
色々と奇異な面が目立つありさだが、彼女には意外な趣味がある。それは先程言った絵、つまり『絵画』である。
彼女が何を思って絵を描き始めたのかはわからないが、少なくとも僕と出会う前から描いていたのだろう。彼女の部屋には、完成した絵がところ狭しと並んでいる。
だが、勘違いしてはいけない。奇異な彼女が描く絵は、そのどれもが彼女とは正反対の美しい絵――ではなく、やはり、奇異なものばかりなのだ。
際立った芸術は得てして際どいバランスの上に成り立っているものだが、彼女の絵はそんなレベルではない。バランスの足場から根こそぎ破壊して、その瓦礫の上に倒れているような……正直何を言っているのか自分でもよくわからないが、とにかくそんな絵を描いているのだ。
時折、バランスの足場が辛うじて堪えてくれたような絵がネットで物議を醸し、挙げ句高値で売れるようなこともあるみたいだが……あんなぶっ飛んだ絵の何が評価されるのか、凡人の僕にはわからない。
と、ここで不意に部屋が静かになった。ありさが手を拭きながら玄関に向かっていくのを見ると、食器洗いは終了したらしい。
立ち上がり、ありさの背中を追う。
「送ろうか」
心にもないことを言ってみる。
「お願いします……と、言いたいところですが。今日はいいです。また今度、お願いしますね」
返事に苦笑する。僕が送るつもりがないのを、ありさはしっかりと理解している。
では、と一言おいて、ありさはドアの向こうへと姿を消した。
「帰ったの、あいつ」
「今、丁度ね」
「そう」
背後からかけられた声に、驚いたのを隠すような『振り』をして振り返る。そんな僕を見て呆れたような視線を向けてくる晶に、僕は小さく肩を竦めた。
「今日は、姫の出番は無しでございます」
「わかってるわよ。あいつが出歩いてる夜なんか、動きづらくてしょうがない」
「おや、珍しい。『復讐姫』ともあろう君がそんなことを言うなんて」
おどけた僕に、むっとした表情で睨み付けてくる晶だったが、反論してこないところを見れば、どうやらありさのことを警戒している様子。
まぁ、無理もない。だからこそ僕も、『今日は絶対に外には出ない』のだから。
部屋から出たありさは、街灯に照らされる路地をゆっくりと歩いていた。
既に外は真っ暗。予想外に長居してしまったな、とありさは笑顔のままで考える。
しかし、彼女にとって、この路地をこの時間に歩くことは予定通りだった。
最近、この路地で多発している『引ったくり』。照らす街灯は淡いもので、人通りも少なく、車は道幅故に殆ど入ってこない。
ありさは、懐から『空のバッグ』を取り出した。わざと甘く右肩にかけ、自身は道の左側に寄る。お膳立てはこれで完了だ。
それから数分、ゆっくりと歩いたありさは、背後から聴こえる音に、持ち前の笑顔を更に深くした。
バイクではない。しかし確かにアスファルトを走るような音に、ありさは自転車だと当たりを付ける。激しくペダルを踏む音が聞こえ、ありさは確信を深めてバッグの持ち手を強く握り締めた。
直後に、強い衝撃。
「――――――っ!?」
声にならない声。
肩が抜けるような衝撃に顔を歪め、次いで訪れた浮遊感に内臓が浮き上がるような感覚を覚えるも、それも一瞬で。
アスファルトに叩き付けられた衝撃で、肺にたまった空気が、吐瀉物と共に無理矢理に吐き出された。
自身に起きた異常に混乱する『男』は、嗚咽に苦しみながらも顔を上げ――そして、無意識に呼吸を止めた。
そこには、笑顔で自転車を『振りかぶっている』、『引ったくりを仕掛けたはずの女』の姿。
叫ぶ間もなく、彼の頭に自転車は降り下ろされた。
「少し、濁ってますか。これじゃあ、あの絵には使えませんね」




