〔井上 ありさ〕
パソコンの主電源を落とし、一息ついて席を立つ。
ソファーに座る前に冷蔵庫が目に入り、考えるより先に手が伸びた。
「っ……ふぅ」
いつも通りにミネラルウォーターを半分飲み干した僕は、ソファーの上に転がったリモコンを手に取った。全く、リモコンは机の上に置け、と何度も言っているだろうに。
そんなことを考えながらテレビのスイッチを入れる。まだ七時を過ぎたばかりだからか、つまらないニュースくらいしか番組が無い。いつもならしばらくチャンネルを回した後に、溜め息をついてテレビを消すところなのだが……今日は違う。
なぜなら――今日は、『復讐姫』の仕事の翌日だから、だ。
「うん。いつも通り」
流れるニュースにしばらく耳を傾ける。視線は外。
「――春先から始まったこの『犯罪者殺害事件』は、夏になった今現在も収束する気配はありません。今回殺害されたのは――」
プツッ、とテレビが消える音。
なんだと思い視線を戻せば、そこには頭にタオルを被った晶がいた。不機嫌そうにリモコンを投げ捨て、床に落ちたリモコンから電池が飛び出すのを見て、僕は晶の顔を覗き込む。
「やめて」
「はいはい」
ばさりとタオルが投げ付けられる。僕の視界が真っ白になり、顔からタオルを剥ぎ取った時、すでに晶は背を向けて歩いていた。
本日早くも二回目の溜め息をついた僕は、迂闊だったなと思いながら電池を拾う。
晶は、復讐が終わった人物の情報を酷く嫌う。思い出したくないのか、それとも単純に気分が悪くなるのか。僕にはそれぐらいしか考えが及ばない。嘘。考える意味が無いから考えないだけだ。
制服に着替え、鞄に授業道具を詰め込んでいる晶の姿を見つめる。その姿は普通の女子高生のものでありながら――どこか、危うさそのものを滲ませていた。
視線を外す。無駄に見ていると文句を言われるに違いない。なら、地雷を踏む前にその場所から逃げ出すのが懸命だ。はて、この表現は正しいものなのか。
「送って」
「はいはい」
先程と全く同じ返事を返し、僕は立ち上がる。時刻は七時半を過ぎたところ。
……毎度のことながら、 こんな早くから学校に行って何をしているのか。僕は彼女の裏の顔は知っているがら、表の顔はさほど知らない。大して知ろうとも思っていないのに毎回そう考えてしまうのは、暇人の性質とでも言えばいいのか。
「早く」
「はいはい」
再三、全く同じ返事を返す。それが気に入らなかったのか一瞬動きを止めた晶を置いて先に部屋を出た。
「ついたよ」
「…………」
僕の言葉に無言と言う返事を返し(つまるところ無視)、晶は鞄片手に車を降りた。
瞬間、聞こえてくる明るい女子高生の声。
人が変わったかのように明るさを振り撒いて走っていく彼女は、今この瞬間、ごく普通のとても明るい女子高生となった。
「……まぁ、どうでもいいんだけど」
ただ、晶が何を思って自分を造っているのかは、ほんの少しだけ気になった。
依頼人から振り込まれた金。それを五枚程財布に入れて銀行を後にする。最近はあまり気にしなくなり、あまり注意して見ることはなかったが、気が付けば零の数が八つ程横に並んでいたことには少し驚いた。基本的に報酬はキリの良い数字で振り込ませるし、おろす時にキリが良くなるように計算しておろしている。何故かと聞かれれば、まあ何と無くとしか答えられないのだけど。
変なところでキリの良さを求めるのは、普段曖昧な世界に生きているからだろうか、なんて。
「あ」
不意に走った手の痛み。見れば、朝に巻き直したはずの包帯が崩れ、その下にある赤く爛れた肌がこちらを覗きこんでいた。
軽く息を吐き、銀行の壁に背を預けて包帯を解きはじめる。健全な肌とは百歩譲っても言い難い僕の手が現になり、通行人はそんな僕の手を横目で見ながら通り過ぎていく。
注目を浴びるのは、いろんな意味であまり好ましくなかったので、手早く包帯を巻き直してその場を後にした。と、そこでがしりと掴まれる我が右手。後ろ髪を引かれたようにして立ち止まり、多少唇が突き出しながら振り返る。晶じゃなければすぐにでも振り払うつもりだったが、そこにいた人物の笑顔を見てしまってはもう終わり。息を吐いて、向き直る。
「お久しぶりです。い」
「こら。名前は禁止だと言ってるだろ?」
「そうでした。では改めて、お久しぶりです」
「うん。……まぁ、先週会ったような気がしないでもないけど」
そうですか? とニコニコしながら答える、晶と同年代であろう見た目の彼女――井上 ありさ――は、僕の右手を先程よりも幾分力強く握り締めた。それとなく振り払おうとしていたのがばれていたらしい。
仕方がないので右手右腕、右肩右半身ごと身体を反転させてありさを横に並ばせる。それからゆっくり歩き出すと、ありさも僕に合わせて小さく足を踏み出した。
「どうかしたのかい? いつもなら、この時間は家にいる時間帯だろうに」
「私だって年がら年中おんなじ生活をしているわけじゃないですよ? まぁ、特に用が会った訳でもありません。見掛けたから、捕まえただけです」
「ふうん……。なんでもいいけど」
いつもながらの笑顔に、堅苦しい訳では無いけど、柔らかくは無い口調。これでも、最初の頃よりかはかなり軟化した方だ。
今でこそこの笑顔に慣れてはいるが、最初はその笑顔が不気味でしょうがなかった。女性の笑顔が不気味、だなんて失礼極まりないとは思うが、何も知らない人が彼女と三日も共に過ごせば、十人中九人は僕と同じ印象を抱くであろう。
「どうかしました?」
「いいや……」
尚も笑顔で、僕の顔を覗き込んでくるありさ。その顔を見て、いつか彼女にした問いを思い出す。
確か、僕はあの時こう聞いた。
――ずっと同じ顔をして。疲れないのかい?
そう。確かあの時は、彼女の笑顔がどうにも能面じみているように見えていて。
大袈裟に言えばハイクオリティなマスクでも被っているんじゃないか、なんて考えていた時に、今と同じように顔を覗き込まれたものだから、思わずそんなことを聞いてしまっていた。
そんな僕の問いに、彼女は小さく小さく首を傾げ、変わらない笑顔でこう聞き返してきた。
――貴方こそ、そんなに表情を変えたりして、疲れたりしないんですか?
驚きはしなかった。ただ、あぁやっぱりそうなんだ、と。彼女に対する理解を深めた気分になっただけ。
――笑顔と無表情以外の表情を失った女の子、井上ありさ。
いいや……失った、というのは不適切なのかもしれない。どちらかと言えば、笑顔しか『手に入れられなかった』のが、彼女という人間なのだ。
彼女の笑顔は、生き残る為の文字通りの仮面。ただ、その仮面は一枚しか無くて。裏にあるのは色さえ見失いそうな無表情だけ。ともすれば、マネキンのような味気無いものしか残らない。
この世に生を受けた瞬間に母親を失い。
弱冠十二歳で孤独の街に投げ出され。
その二年後に、自らの手で天涯孤独の身となった。
生き残る為に、無駄なモノは容赦無く削ぎ落としていく。或いは、最初から手にいれようとはしない。
結果、彼女に残ったのは、敬語と、笑顔と、欠落した穴ぼこだらけの感情だった。
……まぁ、彼女の過去はどうでもいい。大切なのは、一年前に彼女を見つけ、今こうして共に行動することもある、ということだ。
たった独り、働き口も見つからなかった(見つけようともしなかった、が正しいのだろうが)彼女が、どうして生きていられたのか。答は単純に、手段を選ばなかっただけの話。
金が無ければ人から奪い。
腹が減ればどこぞで盗む。
常識を知らない……いいや、知らない訳ではないのだろう。ただ、それが一般世間とはどこかが違っているだけで……それは常識とは言わないか。やはり彼女は常識を知らないのだ。
まぁ当然、そんなことをしていればいずれは国家権力宜しく誰かさんのお世話になる。そうなる前に、と僕は彼女を引き入れた。ただでさえ後始末というものをしない彼女だし、『罪悪感』なんて知らない彼女にいくらそれ『らしさ』が無かったとしても、捕まってしまえばそれでオシマイなのだ。
だったら、晶にしていることをありさにもしてやればいい。そうすれば、捕まることはまず無いし、いずれ二人がかちあった時に変なイザコザが起きることも無い……と、信じたい。というか、信じさせてほしい。復讐の姫と笑う略奪者のカードなんてどこに行っても見れはしないが、別に見なくたって生きていける。寧ろ見たくない。
「何、考えてます?」
「家の姫様はどうしてるかなぁって」
「本当は?」
「握られてる手が痛いなぁって」
「結局?」
「……割にしつこいね、ありさも」
ため息をついて、繋いでいる手をぶんぶんと歩きに合わせて振ってみる。ありさの笑顔が数割深くなって終わった。
思ってもいないことを言うのは得意。考えといたことは特異だから言わない。別にシャレじゃないけど。はて、誰に向かって言い訳をしているのやら。
「ところで、どこまでついてくるんだい」
「どうしましょう。どこまでついてきてほしいですか?」
「……どうせ、最後までくっついてくるつもりなんだろう? 別に構わないけど、お願いだから大人しくしておいてくれ。もう家には新調するようなものはないんだから」
「了解です。代わりに、今日の晩御飯は私が作りましょう」
「なら、帰る前にデパートにでも寄るとするか……。さ、乗って」
駐車場に止めてあった僕の車。鍵を開け、ありさが助手席に乗ったのを確認してから運転席に乗り込む。どうやら久々に、あの冷蔵庫にマトモな食材が入りそうだ。
……さて、晶はどんな反応をするのかな。ま、隣の彼女みたいな顔は決してしないんだろうけど。
願わくば、一度くらいは和気藹々とした雰囲気で食卓を囲みたいものだ。
――あーあ、他人に聞こえない嘘なんて。




