第7話
オーベルト邸を後にしてから、半日が経過した。
街道を外れ、道なき森を歩き続ける。クインタスは迷いなく獣道を選び、僕たちはそれに従った。
森が深まるにつれ、周囲の空気が変わっていった。
「……静かすぎないか」
少し前から、鳥の声も、風に揺れる枝葉の音も、すっかり消えていた。
雪を踏む自分たちの足音だけが、白い世界に響いている。
やがて森を抜けると、そこには絶壁があった。
苔むした岩肌が、まるで大地の傷口のように深く裂けている。
その亀裂の底には、かすかに緑色の光が揺らめいていた。
「降りるぞ」
クインタスは岩にかけられた縄梯子へと歩み寄った。
古びた縄は、しかし丁寧に補修された跡がある。定期的に誰かが使っているのだろう。
アリスが先に降り、次に僕が続く。カエを抱えたクインタスが最後だ。
縄梯子を降りていくにつれ、空気が変わった。
冷たく乾いた冬の空気が、じわりと湿り気を帯びていく。
そして――僕の心臓が、唐突に跳ねた。
「っ……」
ドクン、と。
胸の奥から突き上げるような鼓動。
全身の血液が沸騰したように熱くなり、血管に魔力が逆流してくるような、凄まじい引力を感じた。
「ロイ? 顔色が悪いわよ」
下から僕を見上げたアリスが眉を顰める。
「……何かが、引っ張っている」
足元から、いや、大地のさらに深淵から、何かが僕を呼んでいる。
いや、呼んでいるのではない。繋がっている。
頭の中で、聞き取れない誰かの声が、ノイズのように響いていた。
「身体が反応している。お前の中に眠る血が、ようやく故郷を思い出したのさ」
クインタスが淡々と言った。
縄梯子を降りきると、そこは広い洞穴の入り口だった。
クインタスは懐から小さな銀の鈴を取り出し、静かに鳴らした。
チリン、という涼やかな音が、岩壁に反響する。
しばらくの沈黙。
やがて、洞穴の奥から、足音が近づいてきた。
現れたのは、一人の老人だった。
粗末な麻の衣を纏い、手には杖代わりの枝を持っている。
顔には深い皺が刻まれ、目だけが鋭く光っていた。
「おや……アリスか。また戻ってきたのか」
老人の視線が、真っ先にアリスを捉えた。
どうやら顔見知りらしい。
「ただいま、おじいちゃん。今回はちょっと大所帯なの」
アリスが軽い調子で答えると、老人は細い目を僕たちに向けた。
「アリス、よく帰った。連絡は受けている。……カノイの兄妹と、孫殿だな」
カノイ。その名に、クインタスの肩がわずかに強張った。
しかし、それよりも気になるのは、門番が僕のことを孫殿と呼んだことだ。アヴェイラム公爵のこと……だとは思えない。それならエルサの方の祖父……いや、彼はずっと前に死んだと聞いている。
老人の視線が、クインタスとカエを順に見つめる。
「カノイの血を引く者がこの地を踏むのは、実に……何年ぶりになるか。あの方が来られて、ここは随分と変わった」
そして、老人の鋭い眼光が、僕を射抜いた。
「……なるほど。その魔力の質、間違いない。あの方の血筋だ」
老人は短く頷くと、杖で岩壁を二度叩いた。
ゴゴゴ……という低い振動と共に、壁の一部がゆっくりとスライドした。
継ぎ目もなかったはずの岩が、まるで生きているかのように動く。
その内側に現れたのは、長い下り坂のトンネルだった。
壁には、青白い苔がびっしりと生えている。
その苔が淡い光を放ち、トンネルの道筋を照らしていた。
「入れ。あの方――主席研究員様がお待ちだ。旅の者に核樹様のお力をお貸しください」
老人は祈るように目を伏せると、再び杖で壁を叩いた。
僕たちが中に入ると、背後で岩壁が音もなく閉じていく。
トンネルを歩く。
壁に張り付いた発光苔の光だけが頼りで、まるで巨大な生き物の体内を進んでいるような錯覚に陥った。
やがて、視界が突然開けた。
息を呑んだ。
そこには、巨大な地下空洞が広がっていた。
天井は遥か上方に霞み、壁面には無数の建物が貼り付くように建てられている。
地下であるにもかかわらず、曇りの日ほどの明るさがあった。壁や天井にびっしりと生えた発光苔が、光を放っている。
そして空洞の中心には――。
「……何だ、あれは」
言葉が漏れた。
天井から床まで貫く、一本の巨大な樹。
いや、樹と呼ぶには異形すぎた。
幹の太さは、王都の大聖堂がすっぽり収まるほど。
根は空洞の床を這い、枝は天井の岩盤に食い込んでいる。
その全身から、淡い燐光が脈動するように放たれていた。
「核樹様よ。この都市の心臓で、私たちネハナの民の心の拠り所」
アリスが、静かに言った。
核樹と呼ばれた巨木の周囲には、その巨大な根を削り出して作られた建物が立ち並んでいた。
木造の温かみと、金属の鋲や管が融合した、どこか生々しい質感の建造物たち。
空洞の壁面にも、段々になって住居が積み重なっている。
洞穴を穿って作られたもの、岩棚に木材を組み上げたもの、形は様々だが、どれもこの地に根を張って数十年、いや数百年は経っているような佇まいだった。
通路を歩く人々の姿も見える。
粗末な衣服の者もいれば、研究者らしき白衣の者もいる。
子供が走り回り、老人が井戸端で話し込んでいる。
そこには、確かに人々の生活があった。
「ここが……ネハナ」
僕は、呆然と呟いた。
頭の中で響いていたノイズが、少しずつ収まっていく。
いや、収まったのではない。馴染んでいったのだ。
まるで、ずっと欠けていたパズルのピースが嵌まったような。
そんな、奇妙な充足感が、胸の奥に広がっていた。
「ロイ。お前のもう一つの故郷だ」
クインタスは、僕の肩に手を置いた。
「お前にはネハナの血が流れている」
その言葉に、僕は息を飲んだ。
僕の中に流れているという、ネハナの血。急にそんなことを言われても信じられない。でも、核樹と呼ばれたあの巨大な木に、僕の中に何かが共鳴していることは、まぎれもない事実だ。




