第2話
その頃、王都の空は低く濁っていた。
境界の演劇団の拠点は、異様な静寂に包まれていた。
いつもならマッシュの弾くピアノの調べや、エベレストとエリィがおしゃべりする声が響くこの教室も、今はただ、埃の舞う冷たい空気が溜まっているだけだ。
スタニスラフ・チェントルム――ペルシャと呼ばれる彼は、教室の隅にあるソファに座り、机に広げられた新聞をじっと見つめていた。
一面の見出しには、扇情的な活字が躍っている。
『アヴェイラム公爵孫、魔人に誘拐さる!』
『王都を襲う恐怖の影――犯人はやはりクインタス』
ペルシャは、透き通ったブロンドの髪を指先で弄りながら、小さく息を吐いた。彼の整った顔立ちは、いつもの張り付いたような笑顔を失い、冷徹な分析者のそれへと変わっている。
ペルシャの背後で扉が乱暴に開いた。
現れたのはヴァン・スペルビアだ。赤黒い髪を逆立て、瞳を苛立ちに燃えさせた少年は、ペルシャの前に歩み寄ると、机の新聞を拳で叩いた。
「チェントルム。何とかしろ、お前のその切れる頭で!」
「スペルビア、冷静になりませんか?」
「冷静になんてなってられるか! ロイが連れ去られたんだぞ! あのクインタスに! この意味がわかるか?」
「ええ。わかりますよ。あなたと違って、私は迎賓館で奴の殺戮ショーを直に見たのですから」
ペルシャは、淡々と答えた。ヴァンは、ペルシャがあの凄惨な事件の当事者であることを思い出し、言葉を詰まらせた。
少しは冷静になったらしいヴァンにペルシャは静かに向き合った。
「ロイ様はこの演劇団の象徴です。我々に役割を与えたのは彼だ。今や、ただの学生の演劇団ではない。反魔運動の旗印として世間は私たちを見るでしょう。しかし今、その船に舵取りがいない」
「なら、俺がロイを探しに――」
「無理ですよ。相手はクインタス。あなたが並外れた強さを持っているのは知っていますが、あの怪物は桁が違う。それに、今あなたが王都を出れば、スペルビア家も黙っていないでしょう。ロイ様もあなたも、少しくらいはご自身の影響力を自覚してほしいものです」
ペルシャの正論に、ヴァンは悔しげに歯を食いしばる。
演劇団の他のメンバーも、不安げな表情で扉の影から二人の様子を伺っていた。いつも落ち着きのないマッシュも今は大人しくしている。
劇団員たちにとって、ロイの存在は単なるリーダーを超えていた。彼のカリスマ性は、彼のこれまでの功績に裏打ちされた本物の実力だった。
彼がいたから、アヴェイラムとスペルビアが手を取り合い、こうしてひとつの組織に所属できたのだ。
「ヴァン・スペルビア」
ペルシャが諭すように名前を呼ぶ。
「あなたがやるべきことは、血気に逸れて飛び出すことではありません。演劇団をまとめ、この王都でロイ様の帰る場所を守り抜くことだ。あなたにはその力がある。現場でのあなたの背中は、ロイ様が最も頼りにしていたものです」
「……どうして俺なんだよ. チェントルム、君の方がずっと頭がいいだろ」
「……私には人の心は動かせません。それができるのはロイ様の他にあなたしかいない」
ペルシャの言葉には、確かな信頼が込められていた。
ヴァンは自分を嫌っているはずの相手からの不意の賛辞に驚く。しかし、その目に宿る炎は、次第に覚悟の色を帯びていく。
「……ああ、わかったよ。ロイが戻ってきたときに、『僕がいないと何もできないのか』なんて言わせないために」
「期待します」
ペルシャがわずかに口元を緩めた。
しかしその目には、隠しきれない不安の色が滲んでいた。
「――それで、俺たちに何ができる?」
ヴァンがペルシャに問いかけた。
「まずは、『究明会』と接触します」
「はぁ? 『究明会』って……ロイのこと、勝手に教祖様とか呼んでるおかしな人たちだろ?」
「ええ。なんでも彼ら、王都で急速に勢力を拡大しているとか」
「嘘だろ……」
* * *
同じ頃、王都アルティーリアの議事堂。
馬蹄形に並んだ議席が、熱気と怒号で揺れていた。
「――これは宣戦布告だ! 魔人どもによる、我がグラニカ王国への明確な挑戦である!」
壇上で声を張り上げているのは、アヴェイラム派閥の若手議員だった。
議場は二つに割れている。向かって右側にはアヴェイラム派、左側にはスペルビア派。保守と自由という二つの思想が相対している。
「今こそ軍備を拡張し、国を守らねばなりません! 魔人は実在する! 脅威はそこにあるのです! 反対派の諸君、君たちはまだ悠長に日和見を続けるのですか!? 人拐いの魔人を前にして!」
アヴェイラム派の議員たちが、拍手と歓声で応えた。
しかし、スペルビア派の席からは冷ややかな視線が送られる。
「お待ちいただきたい!」
スペルビア派の重鎮が立ち上がった. 白髪の老議員だ。
「事件の詳細がまだ明らかになっておらぬ段階で、軍拡を叫ぶのは早計ではないか。誘拐された少年一人を口実に、国家の方針を大きく転換させるなど――」
「一人? 一人とは何事か!」
アヴェイラム派の議員が演台を叩き、怒声を上げた。
「彼はアヴェイラム公爵のご令孫ですよ! 建国以来、国を支えてきた名家の血! それだけじゃない――あの若さですでに国益を生み出すほどの麒麟児だ。今日の議会の招集に彼の革新的な通信技術が使われた事実を、もうお忘れか!」
「……そうではない。私が言いたいのは――感情に流されて判断を誤れば、取り返しのつかない事態を招くと言っているのだ」
議場は騒然となった。
しかし、アヴェイラム派の勢いは止まらない。
「研究所の報告によれば、エルサ・アヴェイラム博士の開発した統一魔力変換技術がすでに実戦を待つのみだといいます。これを軍事に転用すれば、我が国は他国に対して圧倒的な優位を築ける!」
「だからこそ危険なのだ! その技術を活用するために必要な資源は、どこから調達するつもりだ?」
「そのための『特別資源管理法案』ではないか!」
その言葉に、スペルビア派の議員たちがにわかに色めき立った。
特別資源管理法案。
表向きは、魔人との戦争に備えた戦略資源の安定確保を謳う法案だ。
しかし、その実態は――南方アイヒ大陸への侵略と、魔力源として現地民を組織的に活用するためのものである。
「諸君、落ち着かれよ」
低い、しかしよく通る声が議場に響いた。
発言者は、議長席の近くに座る老人だった。アヴェイラム公爵ニコラス――誘拐されたロイの祖父であり、アヴェイラム派閥の実質的な指導者だ。
「孫を奪われた老人が言うのも可笑しな話かもしれんが――感情で動くなとスペルビアの御仁がおっしゃるのは、ごもっともだ」
意外な言葉に、議場が静まりかえる。
「しかし」
老公爵は立ち上がった。
「国家の安全保障は、感情ではなく事実に基づいて判断せねばならん。そして事実は、こうだ――連続殺人鬼が白昼堂々と王立病院に押し入り、公爵家の子息を攫った。巡察隊は手も足も出なかった」
沈黙が続く。
「これは、我が国の防衛体制に重大な欠陥があることの証明だ。スペルビアの諸君も、その点については異論あるまい?」
スペルビア派の議員たちは答えない。答えられなかった。
「よって、私は提案する。本法案の審議を速やかに進め、可決すべきである、と。――孫の安否など、今の私には関係ない。これは国家の未来を左右する問題なのだ」
老公爵の言葉は淡々としていた。
しかし、その冷徹さこそが、アヴェイラム家の血なのだと、誰もが理解していた。
やがて、採決が行われた。
賛成多数。『特別資源管理法案』は、第一読会を通過した。
スペルビア派の中にも、賛同する者が紛れていたのは明らかであった。
議場の外では、号外を手にした市民たちが、魔人を糾弾する声を上げていた。
世論は、確実にアヴェイラムの望む方向へと傾きつつあった。
* * *
アヴェイラムのタウンハウスの一室。
かつて少年が勉強し、母とぎこちなく過ごした書斎。
エルサ・アヴェイラムは、ロイの定位置だったソファを見つめて、一人佇んでいた。
テーブルの上には、冷めたシナモンティー。
『公爵令孫、誘拐さる! 王都に潜む魔人の影!』
机に置かれた新聞の号外が、白々しく事件を報じている。
エルサは、表情を変えない。
取り乱しもしない。泣きもしない。
ただ、研究者としての冷徹な理性が、事態を淡々と処理しているだけだ。
「……行ったのね」
独り言が、誰もいない部屋に落ちた。
カノイの子――世間でクインタスと呼ばれるあの子がロイを連れ去ることは、ある程度予測できていた。彼が欲するもの、そしてロイの研究者としての価値。それらが合致した時、この結末は必然だったのかもしれない。
ロイは、エルサにとって、息子というより研究者だった。
人類の進化を促す研究者として、彼女はこの試練が必要だと結論づけている。
この国にいては、彼の才能は搾取され続けるだけだ。エルサ本人がそうであったように。
現に、彼が発見した魔力波の理論やそれを応用した通信技術は政府によって秘匿され、軍事利用されている。
彼女の手は、カップに伸びようとして、空中で止まった。
先日、彼がおいしいと言ってくれた紅茶。
少しずつ埋まりかけていた溝。不器用に交わした会話。
「ロイ……あなたは彼に会うのでしょうね。そこで、二人して私を責めるのでしょう」
統一魔力変換技術と奴隷化魔法。
エルサがその類まれなる頭脳を使い、生涯を懸けて完成させた理論は、今や、この王国を帝国へと変貌させる触媒となろうとしている。
これから世界は彼女を魔女と呼ぶだろう。
あの子に自分を母と呼ばせなくてよかった。エルサさん、と他人のように呼ばせたのは、彼の母でいる資格などないとわかっていたから。あの子に魔女の息子になってほしくなかった。
でも、今。
あの子が遠くへ行ってしまったと聞いて、胸の奥に走った痛みは何だったのだろう。
「……ふっ」
エルサは笑った. 自嘲の色が濃い笑みだった。
彼女はカップを手に取ると、感情を押し流すように一気に飲み干した。
甘いシナモンの香りが、なぜかひどく苦く感じられた。




