第1話
顎に痛みを覚え、意識が覚醒する。
「ぐ……」
うめき声が漏れる。
硬い床の感触と、車輪が地面を噛む音。身体が揺れている。馬車の荷台に転がされているのだと理解するのに、そう時間はかからなかった。
手足は縛られていない。だが、身体が鉛のように重く、指先ひとつ動かすのにも苦労する。魔法毒を入れられたのかもしれない。この感覚には覚えがあった。
「……起きたか」
暗闇にぼんやりと、男が一人、荷台の隅に座ってこちらを見下ろしている。男の隣には、毛布に包まった少女が、男の肩に頭を預け寝ているようだ。
「……クインタス」
男はいつも付けていた色付きの眼鏡を外しており、金色の瞳が薄暗い荷台の中で怪しく光っている。
「もう店主とは呼ばないのか?」
男は煽るように言った。頭に血が上った。数年来の付き合いだった。親しみすら覚えていたのに……。
「……客に対する扱いか、これが」
僕は内心の恐怖と怒りを押し隠し、軽口を叩いた。
さっきから高速で魔力循環をし、魔法毒を中和しようとしているのに、体は重いままだ。頭痛もする。意識を失う前、最後に見た光景――。
異様に静かな病室。
書見台の前で、少女が黙々とページを捲っていた。魂の抜けた顔。けれど指先だけは生きていて、紙の擦れる音が、やけに大きく聞こえた。
噂は、いつの間にか事実になっていた。魔物の暴走は魔人の仕業。クインタスは魔人。新聞がそう書けば、人々はそう信じる。信じる理由が欲しいときほど、言葉は滑らかに正義の顔をする。
僕の頭をよぎったのは、もっと嫌な仮説だった。
もし魔人じゃないなら? もし、操っているのが研究所だとしたら?
そして――母が、その中心にいるのだとしたら。
廊下が騒がしくなり、ナースの声がした。次の瞬間、扉が乱暴に開く。金色の目。色付き眼鏡の下に隠れていたもの。そして僕が反応する間もないまま、視界が傾いて、世界が暗転したのだ。
「――殺さなかっただけ感謝しろ」
クインタスの淡々とした声が、僕を回想から現実に引き戻した。
「……僕をどうするつもりだ? アヴェイラムは僕を惜しまない。人質にするなら人選を間違えているぞ」
「そうか? お前の母親はお前を惜しみそうだが」
「そんなはず……」
ない、と言いかけて、喉が詰まる。エルサは僕なんか見捨てるだろうと思いながらも、どこかで期待する自分がいることに気づいた。
「まあ、人質にするつもりなどさらさらないがな」
クインタスは隣の少女の髪を撫でた。本を扱うように優しく。
「……言っておくが、僕はその子を害するつもりなんてなかった」
精神病院の病室にいた彼女は、クインタスの妹と目されていた。だからと言って、僕も巡察隊のベイカー警部らも、彼女をどうこうするつもりなどなかった。言い訳のように聞こえただろうか。
クインタスは何も言わない。
まだ魔法毒は体内に残っているが、必死の魔力循環のおかげで幾分楽になった。このまま床に寝転がり、隙を見て逃げることを考えたが、彼と僕の力量差では、たちまち捕まるのは想像に難くない。反撃に出るなんてもってのほかだ。敵意を見せた瞬間、胴体とお別れするに違いない。
幸い、クインタスは僕を殺すつもりはないようだから、刺激しないようにするしかない。
なんだか、あのときみたいだ。クインタスが迎賓館を襲撃したとき、僕は生き延びようと必死だった。力量差はわかっていたから、対話で難を逃れようとした。
くそっ。この男は、あんなことがあったにもかかわらず、あの事件のあとも何食わぬ顔で僕と顔を突き合わせていたのか。
僕はクインタスの顔を睨みながら、まだ怠い体をゆっくりと起こし、壁に背中を預けた。
「もう動けるのか? それなりに強い毒のはずだが」
「魔力の操作は得意なんでね」
「なるほど。お前にもしっかりあの人の血が流れているらしい」
あの人、とはエルサのことだろうか。二人はどんな関係なんだ? クインタスが研究者を襲う理由と何か関係があるのか。
聞きたいことは山ほどある。だが気軽に聞ける状況じゃない……はずなんだけど、クインタスがあまりにも普段通りで、どう接すればよいかわからなくなる。自分よりも圧倒的に強い殺人鬼を前にしているのに、油断するとその事実を忘れてしまいそうだ。
「……人質にするつもりがないなら、一度解放してみてもいいんじゃないか」
「残念だが、これからお前は、俺たちとともにこの国を離れる」
「……は? なにを……」
この国を……離れる? 何を言ってるんだ。
「巡察隊の手も伸びてきたからな。お前のおかげで」
「だ、だったら僕を連れていかなくたっていいだろう。クインタスの正体は誰にも言わない。や、約束する」
「だめだ。お前にはやってもらうことがある」
「僕が……何を……」
「お前には、妹を救ってもらう」
「……は?」




