初恋の相手に「地味で可愛げがない」と言われた眼鏡っ子令嬢が、前世の自分がニューハーフなおっさんだったことを思い出して、全力で弾けた結果。
しばらくリアルがめっさ忙しいから、小説を書いている暇などないはずだったのに……。
このおっさんが「アタシの出番よー!」とはしゃいだために、作者は大変寝不足です(´・ω・`)。
その日、シャリエ男爵令嬢、リュシエンヌ・シャリエは最低な気分だった。
彼女は生真面目な性格で、貴族の子弟が通う聖マリオン学園に入学してから三年、常に品行方正な成績優秀者として日々を過ごしている。
それは別に、家族や教師からの圧にリュシエンヌが屈しているというわけではない。
ただ単に、そうしておいたほうがラクに生きられるという、彼女なりの処世術の結果である。
毎日の課題だって自宅へ戻ってから取り組むよりも、学園の図書室で済ませてしまったほうが効率がいい。
それに、国内でも有数の蔵書量を誇るこの図書室には、リュシエンヌの心をときめかせてくれる素敵な書籍が、山のように収蔵されているのだ。
日々の課題を終えてから、そういった蔵書の中から好みの書籍をゆっくりと選んで読みふけるのが、リュシエンヌのささやかな楽しみである。
だがその日の放課後、図書室で鞄を開いた彼女は、教室のロッカーにペンケースを忘れてきたことに気が付いた。
結構な距離を歩いて戻ることにうんざりしたけれど、仕方がない。
自分のうっかり具合を嘆きながら教室へ戻ると、そこには数名の男子生徒が居残っていた。
(あ……)
少しだけ開いていた扉の隙間から、彼らの姿を目にした瞬間、リュシエンヌは思わず足を止めてしまう。
――オーギュスト・フィヨン。
彼女の初恋の少年が、その中にいたからだ。
華やかな金茶色の髪に胡桃色の瞳をした彼は、幼い頃からとても可愛らしい少年だった。
フィヨン子爵家の次男である彼とはじめて会ったのは、どこかの貴族家で開催されたガーデンパーティーの会場だ。
同じような年頃の子どもたちが集まる中でも、彼の愛らしさは格別に見えた。
くるくるとよく変わる表情と、明るい笑顔。
天使のように可愛らしい顔立ちをしているくせに、やんちゃな彼は同い年の少年たちと走り回り、木登りをしたりと、少しもじっとしていなかった。
男の子というのは、女の子とはまるで違う生き物なのだな、と感心したことを覚えている。
自己主張が下手で、同年代の少女たちと話すのが精一杯のリュシエンヌにとって、いつでも元気いっぱいに駆け回っているオーギュストの姿は、とても輝いて見えた。
そのとき感じた眩しさが恋心に変わっていくのに、さほど時間は掛からなかったと思う。
ただ、リュシエンヌはその恋心を彼に伝えるつもりなど、さらさらなかった。
勉強ができることと、賢いことは、決してイコールではない。
彼女は学業の成績こそ常にトップクラスだけれど、友人たちと気の利いた会話を続けることは難しかった。
何かひとつの話題について考えているうちに、コロコロと可愛らしく笑い合う少女たちの話題は、あっという間にふたつもみっつも進んでしまう。
そのテンポのよさに、いつも感心するばかりで、彼女たちの会話についていけないことにも慣れてしまった。
よけいな口を挟まず、ひたすら学友たちの話を聞いて、たまに意見を聞かれたときだけ頭をフル回転させてそれに答える。
本当に情けない限りだけれど、リュシエンヌにはそれが精一杯なのだ。
そんな自分が、いつもクラスの中心にいるオーギュストの隣に立つなど、想像すらできなかった。
彼の隣には、華やかで気の利いた少女が相応しい。
だから――。
「あー、もしクラスの女の子の誰かと付き合うとしても、リュシエンヌ嬢だけはないよなぁ。見た目は眼鏡で地味だし、成績はいつもトップで可愛げがないし」
扉を開こうとした瞬間、オーギュストのそんな言葉が聞こえたとしても、リュシエンヌが傷つく必要などないはずだった。
おまえひどいな、と彼の近くにいたクラスメートの少年が苦笑する。
「成績が学年トップなのは普通に凄いし、立派なことだろう。それがなんで、可愛げがないなんてことになるんだ?」
「え? 頭のよすぎる女の子って、イヤじゃねえの? 喧嘩にでもなったら、普通に負けっぱなしになりそうじゃん」
きょとんとした様子のオーギュストに、クラスメートが真顔になって重々しく言う。
「おれの兄貴に聞いた話だが、恋人や奥方には口で勝とうと思ってはいけないらしいぞ」
「いや、そういう感じじゃなくってさー……。単純に、自分より上の女の子はイヤなんだよな。おれはちょっと成績が悪いくらいの、明るくて可愛いタイプがいいわ」
――つまり、地味で成績がオーギュストよりも良好で、そのうえ可愛げがないリュシエンヌは、彼の好みのタイプとは真逆だということか。
指先が、冷たい。
自分がオーギュストに相応しくないことなんて、とうの昔に理解している。
それでもこんな形で、彼自身の口から出た言葉で、ずっと大切にしていた初恋を粉みじんにされるとは思わなかった。
頭がぐらぐらしたけれど、彼らの会話を盗み聞きした形になった自分にも、まるで非がないとは言えないだろう。
ぐっと唇を噛みしめたリュシエンヌは、少年たちの会話がふと途切れた瞬間を狙って扉を開いた。驚いた顔をした彼らが振り返るのには気付かなかったふりをして、自分のロッカーからペンケースを取り出す。
そのまま足早に去ろうとした彼女に、オーギュストがなぜか慌てた様子で声を掛けてきた。
「リュ、リュシエンヌ嬢……! あのさ……!」
自分を呼ぶ彼の声を聞いて、こんなにイラついたことはない。
ひとつ深呼吸をしたリュシエンヌは、ことさらゆっくりと振り返った。
「なんでしょうか? オーギュストさま」
にこりと笑って返すと、彼はあからさまにほっとした顔になる。
「え、や、えっと……なんでもないんだ。――あ、そうだ! 今度、また経済地理のノートを貸してくれないかな? 前に借りたきみのノート、ものすごく見やすくてわかりやすかったんだ」
「お断りいたします」
反射的に出た断りの言葉に、オーギュストがひどく驚いたようだったが、リュシエンヌ自身も驚いた。
けれど、これは紛れもない自分の本音だ。
オーギュストとは、元々そう親しい間柄ではない。精々が顔見知り以上の友人未満、というところだ。
そんな彼女に『ノートを貸せ』というのは、彼が言うところの『可愛げがない』成績を維持している相手の努力を、搾取しようということに等しい。
今までは、彼に声を掛けられるだけでも嬉しくて、請われればむしろ喜んでノートを貸していた。
けれど、オーギュストの本音を知った今、自分はなんてばかなことをしていたのだろう、と呆れてしまう。
リュシエンヌがこれといった特徴のない茶色の髪に、薄い水色の瞳という地味な容貌をしていることも、視力の低下を補う眼鏡がその地味さに拍車を掛けていることも、ただの事実だ。
それでも、彼女自身を尊重しようとしない相手を、尊重してやる理由などない。
再びにこりとほほえみ、彼女は言った。
「今後そういうことは、あなたのお好みだという、華やかで明るくて可愛げのある方にお願いなさいませ」
「……っ」
オーギュストがさっと顔色を変えて立ち尽くし、彼の近くにいたクラスメートたちも気まずそうに目を逸らす。
そんな彼らを一瞥して教室を出たリュシエンヌは、指先はいまだ冷え切っているというのに妙に暴れる心臓がうるさくて、人気のない廊下の壁に手をついた。
――これからあの場にいたクラスメートたちとは、きっと気まずくなるだろう。問題ない。元々、まるで親しくもなかった相手だ。こんなことがあってもなくても、今後彼らと会話をする機会が最低限であることは変わらない。
妙に冷静な頭で、そんなことを考える。
けれどもうひとりの臆病な自分は、わざわざあんなことを言って波風を立てるようなことをしなくてもよかったのではないか、と怯えだす。
平凡で、穏やかな日常。
リュシエンヌは、それをこよなく愛していた。
多少の面倒や不利益を被ることがあっても、何事もない日々が続くのであれば、それでいいと思っていたのだ。
……それでも。
(わたしは……お慕いする殿方に、『地味で可愛げがない』と言われたことが、悲しいのだわ)
どこにでもあるような、本当にありふれた初恋ではあったけれど、リュシエンヌにとってはとても大切な宝物だった。
それがこんなふうに壊れてしまったことが、悲しい。悲しくて、辛い。
どうにか図書室に戻って、その日の課題だけは機械的に終わらせたけれど、とても読書を楽しめるような気持ちにはなれなかった。
いつもより早めに帰宅して、ぼんやりとしたまま食事と入浴を終えるなり、ベッドに入る。
なかなか寝付くことができなかったけれど、ぎゅっと目を瞑り続けていれば、いつしか意識は眠りの底に沈んでいった。
――そして、その翌朝のこと。
リュシエンヌの脳内には、前世のニューハーフだったおっさんの記憶が、「アタシの時代、キター!」とばかりに甦っていたのである。
早朝の寝室で、混乱しきった脳内情報をどうにか整理し終えたリュシエンヌは、「ぬぁあああにが『地味で可愛げがない』よ、あンの顔だけクソガキ野郎が! 女の子は、自分よりバカなほうが可愛いってか!? 何そのモラハラ予備軍全開の思考回路! ホンット、気持ち悪いったらないわー!!」と全力シャウトするおっさんの主張に、圧倒されつつ頷いた。
何しろこのおっさんは、常日頃から「男の価値は、逞しい胸筋と大臀筋よッ!」と主張してはばからない御仁だったのである。そんなおっさんの価値観に照らせば、まだ十七歳という若年であることを考慮しても、オーギュストの『ザ・美少年!』タイプの華奢な体躯は、完全に守備範囲外。
リュシエンヌ自身は、さほど男性の筋肉に興味はないのだけれど、おっさんがあまりにもオーギュストの言いように怒り狂っているせいか、妙に気持ちが落ち着いてしまった。
正直、なかなかに最悪な形でブロークンした初恋のことも、もはやどうでもよくなっている。ありがとう、おっさん。
一息吐いたリュシエンヌは、寝間着姿のまま鏡の前に立つ。
同じ年頃の少女よりも高めの身長に、ほっそりとした体つき。腰まで伸びた茶色の髪は、毎日丁寧に手入れしているため、艶やかな美しさをキープしている。
数年前から掛けはじめた眼鏡のせいで、普段ははっきりと見えなくなっている水色の瞳も、こうして明るい光の中で見ると、さほど地味な印象はない。
脳内のおっさんが、キラーン! と瞳を輝かせた。そしておもむろに頭を抱えたかと思うと、「女の子は誰でも磨けば光るものだけど、これだけの素材! なぜ今まで磨かずにいられたのかしら!? 誰か、責任者呼んできてー!」と嘆き出す。責任者は、リュシエンヌだ。申し訳ない。
だが、この件については少々言い訳をさせていただきたい。
シャリエ男爵夫人――リュシエンヌの母は十年前、双子の弟を産んだときに体を壊して以来、ベッドにいるほうが多い生活を送っている。
父と四歳年上の兄は、王都から遠く離れた領地の経営にかかりきりだし、古くからいる使用人たちは、まだまだやんちゃ盛りの弟たちの養育で、これまたてんやわんやな状況なのだ。
そんな中、リュシエンヌが家族のためにできることといえば、可能な限り『手の掛からない子ども』でいることだった。
とはいえ、シャリエ男爵家の財政事情は豊かなほうだ。両親も兄も、ある意味放置状態のリュシエンヌには若干の引け目があるのか、顔を合わせるたびに何か欲しいものはないかと聞いてくる。
今までは特に欲しいものがあったわけでもないので、弟たちのための珍しいお菓子などをねだっていた。だが、ここは一度、おっさんのパッションの赴くままに、ぱーっと弾けてみるのもいいかもしれない。
端から見れば、「なんでそーうなるの!?」という思考回路だったかもしれないけれど、何しろリュシエンヌの脳内にはニューハーフのおっさんがいるのである。
こんなわけのわからない状況になったばかりで、まっとうな判断ができるわけがないではないか。
それから、「いいのね!? リアルマイフェアレディ、しちゃっていいのねー!?」と、やたらとテンションの上がったおっさんの指示は、実に早く的確だった。
両親に『眼鏡は重くて邪魔だから』と訴え、少々高価な瞳に入れるタイプの視力矯正魔導具をゲット。
それまでまっすぐに切りそろえて流すだけだった髪も、前髪の分け目を変え、毛先を少し巻くだけでまるで印象が変わってしまう。
元々インドア派のため白かった肌は、母にねだって手に入れた化粧水や乳液で丁寧にケアをすれば、見違えるように透明感のある滑らかさを手に入れた。
ニューハーフの美容技術、本当にすごい。
そうして半月ほど経つ頃には、リュシエンヌは以前の『ガリ勉眼鏡の真面目っ子』から、『華やかながら上品な知的美少女』への素晴らしきビフォーアフターを遂げていたのである。
脳内で「やりきった……!」とドヤ顔をしているおっさんには、心からの感謝を捧げたい。
何しろ、床に伏せがちな母が、久し振りに挨拶をしたリュシエンヌを見て「わたくしの娘が、こんなに可愛い……!」とうれし泣きをしてくれたのだ。
弟たちにも実に好評で、以前よりも遙かに彼女の言うことを聞くようになった。小さくとも、男は男ということか。彼らが思春期に入る前に、『女性を外見で判断してしまうのは仕方がないが、外見で差別をするような男は最低だ』ということを、一度きっちり教えこんでおく必要があるかもしれない。
父と兄は現在領地に詰めているため、いまだ感想を聞くことができていないけれど、彼らと会える日が楽しみだ。きっと、さぞ驚いてくれるだろう。
そして現在、リュシエンヌは放課後にその日の課題を終えると、読書を楽しむ代わりに騎士科の学生たちの課外訓練を見学にいっている。
なぜなら、騎士科の課外訓練にはその指導員として、現役の立派な騎士たちが派遣されてきているのだ。
騎士。
すなわち、国家公認のエリートマッチョ。
たとえ頑丈な訓練着に包まれていても、その素晴らしい肉体美は実に鑑賞に値する。
訓練場の脇に設えられているいくつものパラソル付きテーブルセットは、騎士科に恋人、もしくは婚約者がいる少女たちのためのものだ。
彼女たちが親しげに語り合っているところを見るに、おそらく『将来の同僚の妻同士』の交流の場でもあるのだろう。
恋人も婚約者もいないリュシエンヌは、いつもその隅にこっそりと紛れ込んでは、脳内おっさんとともに素敵な騎士たちの肉体美を視姦――もとい、堪能していた。立派な変態の所業であるが、今の彼女は清楚可憐な美少女であるため、黙っていればそんなことはわからないのだ。
そして、そんなある日の放課後のこと。
約束していた本を読み切ることができた弟たちへのご褒美として、リュシエンヌは流行のお菓子を買うため街に出た。
以前は放課後といえば、図書室で読書をしているだけだったため、こうして外の世界に触れるたび、なんだかすべてが眩しく思える。
(騎士さま方の素敵な肉体美を拝見できないのは、少し残念ですけれど……。弟たちの笑顔だって何にも代えがたい宝物ですもの。あんなに可愛い弟たちがいるわたしは、完全に人生の勝ち組というやつですわね!)
そんなことを考えながら人気の菓子店に向かったリュシエンヌは、華やかなディスプレイを施された店舗の前に、何やら遠巻きになっている人垣を見つけた。
いったいなんだろう、と不思議に思いながらそちらに近づいた彼女は――。
(さ……最推しの筋肉――もとい、素敵な騎士さまー!? え、こんなに可愛らしい菓子店の前で、なぜそんな人のひとりやふたり、平気で殺せそうなお顔をしていらっしゃいますの!?)
周囲から頭ひとつぶんは背の高い騎士の青年が、ものすごく難しい顔で腕組みをしながら、じっと菓子店のディスプレイを睨みつけている現場に遭遇し、固まった。
なぜなら、訓練着姿も実に眼福だったが、シンプルな私服姿はまた違う趣があり、咄嗟に言葉を失うほど魅力的だったのである。
特に、すっと伸びた逞しい背中から引き締まった腰へのラインが、本当に素晴らしい。これはもう、国宝指定をしてもいいのではなかろうか。
衝撃のあまり、ついとっちらかったことを考えてしまったけれど、ほぼ同時に脳内のおっさんが「きゃああぁああー! 今日は拝めないと思っていた、A5ランクの大胸筋ッ! ステキー!」と叫んだため、すぐに我に返ることができた。
どうやら街行く人々も、菓子店の前で佇んでいる彼の迫力に恐れをなし、少し離れたところにある入り口にすら近づくことができずにいるようだ。なんという営業妨害。
そして見たところ、騎士の青年は自分がそんな状況を作り出していることに、まったく気付いていないらしい。
少し迷ったけれど、幸い今のリュシエンヌは聖マリオン学園の制服姿だ。
彼女が突然声を掛けても、さほど警戒される心配はないだろう。
意を決して彼に近づいていくと、脳内のおっさんが「はあぁああん……。至近距離で、あの大胸筋と僧帽筋を拝めるだなんて……。アタシもう、いつ死んでもいいわ……」とウットリしているが、おまえはすでに死んでいる。
どこかの世紀末覇者のようなことを考えながら、リュシエンヌは青年を見上げて問うた。
「あの……失礼ですが、何かお悩みなのですか?」
「え?」
ぱっと勢いよく振り返った彼は、ひどく無防備に驚いた顔をしていて、寸前の殺人犯のような迫力が嘘のように若々しく見える。短く整えられたさらさらの黒髪が、実に艶やかだ。
脳内のおっさんが「ギャップ萌ええぇええーッッ!!」と絶叫していたし、リュシエンヌも心の底から同感だったが、どうにか堪えてにこりとほほえむ。
「突然、申し訳ございません。聖マリオン学園で、何度かあなたさまをお見かけしたことがございまして……。不躾かとは存じましたが、声を掛けさせていただきました」
「あ……ありがとうございます……?」
不思議そうな顔で首を傾げる彼は、リュシエンヌを警戒してはいないようだが、その仕草が実にあざとい。
(なんですの、この可愛らしい殿方……!)
きゅんきゅんときめく心臓をどうにか宥めつつ、改めて青年を見つめてみる。
遠目に見ているときにはよくわからなかったけれど、彼はとても男らしく精悍な顔立ちをしていた。ノー瞬きで筋肉鑑賞に勤しんでいるおっさんは無反応だったが、リュシエンヌは密かにときめきながら、再び笑顔で青年に問う。
「なんだか、とても難しいお顔をされていらっしゃいましたけれど、何かお悩みごとでもございましたか?」
「へ? あ……」
ひどく慌てた顔をした青年が、ぱっと周囲に視線を巡らせた。
そこに、彼を遠巻きにして様子を窺っている人々の姿を見つけ、一瞬天を仰ぐ。そして、どんよりと肩を落としたかと思うと、すすっと店の前から距離を取った。
なんとなくその動きについていったリュシエンヌに、おそるおそる青年が問うてくる。
「あの……すみません。ひょっとして自分は、ものすごく物騒な顔をしていましたか……?」
おや、とリュシエンヌは目を瞠った。
自覚があったとは、意外である。
「そうですわね。少々、近づきがたいご様子だったとは思います」
何重にもオブラートに包んだ表現で肯定すると、青年は片手で顔面を覆ってぼそぼそと言う。
「申し訳ありません。同輩たちからも、自分は集中しているときの顔が物騒すぎるから気をつけろ、とは言われていたのですが……。声を掛けてくださって、ありがとうございました」
「お礼を言っていただくようなことなど、何もしておりませんわ。わたしもちょうど、あの店で弟たちのためのお菓子を買おうと思っていたところですの」
あくまでも通りすがりのお節介でございます、と主張してから、リュシエンヌは青年に軽く会釈する。
「それでは、失礼いたします」
「あ、あの!」
その場を去ろうとしたリュシエンヌに、青年が何やら切羽詰まった声を掛けてきた。
立ち止まって見上げると、彼は菓子店とリュシエンヌを見比べるようにしてから、思い切った様子で口を開く。
「初対面の女性に、このようなことをお尋ねするのは大変恐縮なのですが……。最近の十代前半の少女というのは、どのような菓子を好むものなのでしょうか?」
「十代前半、でございますか? でしたら、見た目のきれいなキャンディーやボンボンなどが喜ばれるのではないでしょうか。ただ、同じ年頃のご友人同士が集まって楽しまれるのでしたら、こぶりなクッキーやチョコレートなどの、すぐに口からなくなってしまうもののほうがよろしいかもしれません」
いくら見た目が可愛らしくとも、いつまでも口の中に居座り続けるキャンディーは、少女同士のおしゃべりのお伴には、少々不向きなのである。
青年は、ほっとした様子で頷いた。
「そうなのですね、ありがとうございます。助かりました。お恥ずかしい話なのですが、自分の妹がどんなものを好むのかも知らなくて……」
「まあ。わたしの兄も、よく同じようなことを言っておりましたわ」
リュシエンヌは、昔を思い出してくすくすと笑う。
「たまに、どうしてこんなものを? と不思議に思うような、変わった形のぬいぐるみや、不気味なおもちゃなどを渡されて、とても困ってしまったことがございます」
「ぶ……不気味なおもちゃ?」
困惑した青年に、リュシエンヌは真顔で答える。
「はい。人間の頭蓋骨を模した形の、スイッチを入れると奇声を上げて眼窩が赤く光るおもちゃというのは、八歳の女児には少々レベルが高すぎましたわ」
「……そうでしょうね」
青年が、半目になった。
この素敵な青年が、兄のような困ったセンスの持ち主でなかったことに、ほっとする。
ちなみに兄が十歳だったリュシエンヌにくれたぬいぐるみは、腹部を圧すと『ごふぅっ』という音が鳴る派手な柄のトカゲだった。……いったい兄は、どこであんなレアな物体を手に入れてきていたのだろう。
今更ながら不思議に思ったリュシエンヌが、首を傾げたときだった。
「リュシエンヌ嬢!?」
聞き覚えのある声で名を呼ばれ、反射的に振り返る。
少し離れたところで、何やらひどく驚いた顔をしているのは、『地味で可愛げがない』と言われたあの日以来、一度も口をきいていなかったオーギュストだ。
脳内のおっさんが「うわぁ……」とものすごくいやそうな顔をする。
リュシエンヌも心底それに同調したかったが、人前で感情を制御できないようではレディ失格だ。
完璧に作り上げた笑顔でにこやかに、かつ冷ややかに応じる。
「ごきげんよう、オーギュストさま。何か、わたしにご用でしたか?」
「え、あ……いや。ちょっと、驚いただけで……」
何やら歯切れ悪く言うオーギュストに、リュシエンヌは首を傾げた。
ここは、聖マリオン学園の生徒たちが多く訪れる商店街だ。彼女がいたところで、驚くようなことでもないだろうに、と思いながらさらりと言う。
「そうですか。ご用がないのでしたら、失礼させて――」
「ちょっと、待ってくれ! そうじゃなくて……! その、おれ、あのときのことを、きみに謝りたくて……」
こちらから目を逸らしたままそんなことを言うオーギュストに、リュシエンヌはイラッとした。
すっかり忘れていたあの日の痛みを、なぜ今更蒸し返そうとしてくるのか。
脳内のおっさんも半目になって「あー……。これは、アレね。傷つけた相手に謝罪を押しつけることで、自分がラクになりたいだけのやつだわ」と呆れている。
リュシエンヌは、にこりと笑う。
「わたしは、何も気にしておりませんわ。オーギュストさまも、どうぞあのときのことはお忘れになってくださいませ」
「でも……! きみがそんなにきれいになったのは、おれのためなんだろう!?」
そのとき唖然としたリュシエンヌの脳内で、即座に目尻を吊り上げたおっさんが「あぁん!? ふざけてんじゃねーぞ、このクソガキャあ! だぁれが、テメエのような性根の腐ったガキのために、自分磨きなんてするかってんだー!」と、常にないほどドスのきいた声でシャウトした。
「きみがきれいになっていくたび、本当になんて酷いことを言ってしまったんだろう、って後悔したよ。でも、あんなに地味で可愛げがなかったきみが、おれのために頑張っているのかと思うと、とても嬉しかった」
(ひー! いったいなんだというのですの!? オーギュストさまって、こんなに気持ちの悪い方だったかしら!?)
全力でどん引きしたリュシエンヌに、オーギュストがうっとりとした目を向けてくるのが、心の底から気色悪い。
震える声で、どうにか口を開く。
「も……申し訳ありませんが、オーギュストさま。そのような事実は、一切ございませんわ。たしかにあの日、あなたに『地味で可愛げがない』と言われたことに、少々傷付きはしました。そのことをきっかけに、自分自身を奮い立たせることができたという意味であれば、あなたのお陰ということもできるかもしれません」
ですが、とリュシエンヌはハッキリとオーギュストに告げる。
「わたしは断じて、あなたのために自分を変えたわけではありません。そういった勘違いをされるのは、とても迷惑です」
心の底から『コッチクンナ!』と念じながらそう言うと、オーギュストの顔から表情が抜けた。
「は……?」
聞いたこともない、冷たい声。
一瞬前とは別人のように、暗く澱んだ瞳に自分が映っているのが、なぜだかひどく怖かった。
無意識に後退った彼女の前に、すっと広い背中が現れる。脳内のおっさんが「きゃあああああ!?」と裏返った悲鳴を上げた。うるさい。
リュシエンヌを背後に庇った青年が、低く落ち着いた声でオーギュストに言う。
「それ以上、こちらに近づかないでくれるかな。彼女は、きみを怖がっている」
「……あなたには、関係ないでしょう。おれは、リュシエンヌ嬢に話があるんだ」
おや、と青年は小さく笑ったようだった。
「きみは彼女に、とても酷いことを言ったのだろう? 彼女にとって、そんなきみと話をすることは、ただの苦痛なのではないのかな。オーギュスト・フィヨンくん」
名乗ったわけでもないフルネームを呼ばれ、オーギュストはひどく驚いたようだ。
なぜ、と呟く彼に、青年がどこまでも穏やかな声で言う。
「俺も、聖マリオン学園の卒業生なのでね。きみのように目立つ生徒の噂は、いやでも耳に入ってくるんだ。……最近は、少々いかがわしい場所にも出入りしているようだね」
オーギュストが、鋭く息を呑む音が聞こえた。
脳内のおっさんが「あー……。若気の至りってやつかしら? バレなきゃ大丈夫ー、とでも思っていたんでしょうけど、甘いわねぇ。騎士さまに目を付けられているってことは、かなりヤバい案件だったりするのかしらねー?」とわくわくしている。
「浅薄な好奇心で身を滅ぼすのはきみの勝手だが、その愚かさに無関係な女性を巻きこむな。――これは、警告だ。彼女は、きみが触れていい女性じゃない」
(はあぁあああんっ)
凜とした声で語る青年に庇われた、と認識した瞬間、リュシエンヌの脳内がピンクに染まった。おっさんがほほえましいものを見るような、ひどくまったりした目つきになっているが、知ったことか。
リュシエンヌが全力で青年にときめいている間に、オーギュストはどこかへ行ってしまったようだ。
頬が熱くなっていることを自覚しながら、彼女は振り返った青年に礼を言う。
「あ……ありがとう、ございました。本当に、助かりました」
「いいえ。オーギュスト・フィヨンにはああ言いましたが、正直なところ、彼の不品行が表沙汰になったとしても、短期の停学処分程度がせいぜいだと思います。もし、これから何か困ることがありましたら、すぐに周囲の大人に相談してくださいね」
穏やかな声でそう言われ、リュシエンヌは思い切って顔を上げた。
「はい、わかりました。お気遣いありがとうございます。あの……もしよろしければ、お名前を伺ってもよろしいでしょうか? わたしは、聖マリオン学園三年生のリュシエンヌ・シャリエと申します」
「ああ、自己紹介がまだでしたね。自分は、ユベール・セルジュ。近衛騎士団に在籍しています。今年いっぱいは学園での後輩指導任務が入っているので、もしかしたらあちらで会うことがあるかもしれませんね」
彼の笑顔に全力でときめいたリュシエンヌだったが、何よりもまずは確認しなければならないことがある。
「セルジュさま。大変不躾な質問で、申し訳ないのですけれど……。今、お付き合いをされている女性、もしくは将来をお約束した方はいらっしゃいますか?」
「……は?」
きょとんとしたユベールの表情に悶絶しそうになりつつも、リュシエンヌはできるだけキリッと滑舌よく続けて言った。
「わたしがあなたをお慕いすることで、ご不快な思いをする女性がいらしては申し訳ないと思いまして。……あの、どうなのでしょう?」
ユベールは、とても素敵な青年だ。
恋人や婚約者がいても、不思議はない。
もしそういった女性がいるなら、傷が浅くて済むうちに、たった今芽生えたばかりの恋心は封印しようと思ったのだが――。
「え……は? いや、ナイナイナイ。こんな可愛い子がオレをとか、いくらなんでもさすがにナイ」
彼女の問いかけを聞くなり、真っ赤になって硬直していたユベールが、うろうろと視線を彷徨わせながら、独り言めいたことを口にする。
その様子を見た脳内のおっさんが、カッと目を見開いたかと思うと「可愛い子判定、もらったわよー!! 今すぐ、全力で攻め落としなさいッッ!!」と号令を出した。
合点承知である。
リュシエンヌは、フルスロットルで気合いを入れ直した。
「セルジュさま。実はわたし、学園に後輩指導にいらしているあなたのお姿を拝見したときから、とても素敵な方だと思っていましたの」
当時は彼の素敵な筋肉を愛でていただけだが、今ここでそれを言う必要はないだろう。
「もし、あなたに心に決めた女性がいらっしゃるというなら、諦めます。ですけど、もしそうではないのでしたら――わたしがあなたをお慕いしても、ご迷惑ではございませんでしょうか……?」
胸の前でぎゅっと両手を握りながらそう問えば、ユベールがぎくしゃくと頷いてくれた。
「えぇと……ハイ。その、大丈夫、デス」
「ありがとうございます、セルジュさま!」
感極まった様子の脳内のおっさんが、無言で完全勝利のポーズを決めている。ラーララー、という効果音まで聞こえてきそうだ。
リュシエンヌは歓喜のあまり、踊り出したくなった。
彼女の生家であるシャリエ男爵家は、小さくとも豊かな領地を抱えているため財力はなかなかのものだが、それ以外はこれといった特色のない下級貴族だ。元々政略結婚を組まれるような立場でもないし、学園を卒業後は上級文官か王宮侍女となって身を立てるつもりだった。それだけの成績はキープしているし、担任教師からも太鼓判をもらっている。
これからユベールが、リュシエンヌに気持ちを返してくれるかどうかはわからない。
それでも、いつか立派な騎士である彼の隣に胸を張って立てるように、今の自分にできることはすべてしておこうと決意する。
(騎士さまというのは、とても危険なお仕事だと聞きますし! 上級文官エリートコースを目指して、外交問題を武力ではなく口喧嘩――もとい、平和的外交努力だけで解決できるよう、これから全力で努力するのもアリですわね……!)
そのとき彼女の脳内で、楽しげに笑ったおっさんが「アタシは抱かれるより、抱きたい派だったんだけど……。ま、こればかりは仕方がないわね」と肩を竦めていたことには、とりあえず気がつかなかったことにした。
ユベールは、かなり目つきが鋭くてガタイのいいイケメンです。
清楚可憐なお嬢さま方からは、ものすごく敬遠されるタイプです。
……おっさんではないお客さまの中に、仕事はできるけど女の子に免疫のないピュアなイケメンがお好みの方はいらっしゃいませんかー!?




