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双葉の従士  作者: 日辻
11/20

十話 ドレスを着た従士

 早起きは得意なアディだが、まさか夜明け前に起き出してドレスアップにヘアメイクをする日がやってくるとは夢にも思わなかった。舞踏会の当日、アディは「姫君役」と「騎士役」二つの衣装を持って、高学年の更衣室と化した中等学校の女子校舎の一室にいた。一緒に登校したツィスカが化粧を施してくれる約束になっていて、彼女は意中の相手とダンスを踊れることに心をときめかせていた。大方の予想を裏切ったのは人気者のリリーで、なんと彼女に思いを寄せる不良少年のオスカーがパートナーの座を射止めていた。舞台裏では多少の流血もあったとの噂だが、本人曰くそのような事実はないとのことだった。オスカーの幼馴染であるアディ、ツィスカ、ケヴィンは彼の健闘を讃えつつ、リリーが誘いを受けたことに驚いていた。一番衝撃を受けたのは、アディだっただろう。

「おはようアディ、今年はドレスも着るんでしょ! 後で見せてね!」

「おはようリリー……あの、オスカーをよろしくね。今日くらいはおとなしくしてると思うんだけど、近付いてくる男子を睨んだりは平気ですると思うから」

「え? ふふ、大丈夫だよ。トーンああ見えて照れ屋さんだし、かなり紳士だよ?」

 その好意的な評価が、また衝撃的だった。収穫祭で話しかけられて以降、時折言葉を交わすようになっているとはオスカーから聞いていたが、言い寄る男子が多く目の厳しいリリーからそのような言葉が出るとは思わなかったのだ。密かに固まっているアディの背後から、淡い紫のドレスに身を包んだツィスカが顔を出した。長い金髪はギブソンタックにまとめられており、いつもより上品な印象を受けた。

「おはようリリー! アディお待たせ、着るの手伝うよ」

「おはよ! ツィスカ似合ってるよ、すらっとしてていいなあ」

「ふふ、ありがとう。さ、アディはこっちこっち!」

 ツィスカに肩を押されつつ振り返ると、リリーは楽しげに笑いながら小さく手を振っていた。

 アディが買ったスカイブルーのドレスには華奢な肩を覆うように小さな袖が付いていて、基調色のオーバースカートの下からアイボリーのスカートが覗く、比較的シンプルなデザインのものだった。派手すぎず大人びて見えるため、ツィスカからも好評である。

 幼馴染に手伝ってもらいながらドレスに袖を通していたアディは、ふと脇に目をやって、そこでリリーが制服のシャツを脱いでいる姿を目にした。白い肌があらわになっている無防備な姿に、アディは見てはいけないものを見てしまった気がして慌てて目を逸らした。

「――うん、よし! あ、胸になにか詰める?」

「い、いいよ!」

「アディ、顔赤いよ?」

 ツィスカは心配そうに覗き込んできたが、まさかリリーの裸を見たせいだと答えられるはずもなく、アディは黙って俯いた。今しがたの光景が目に焼き付いてしまい、先ほどから心臓がうるさい。いつかのベルの言葉が蘇った。

(女同士、女同士……だけど、私はなんとなく見ちゃだめな気がする……)

「アディ、どこかきつい?」

 ツィスカの気遣わしげな声音に、アディは精一杯平静を装って「ううん、平気」と答えた。少し意識しすぎている自覚はあるものの、理由までははっきりとしなかった。

 それからヘアメイクが済むまでの間、アディがリリーの方を向くことはなかった。姫君の着替えを覗き見るなど、騎士にあってはならないことである、と自分に言い聞かせる。ツィスカは友人の裸を見ても平気なのだろうか、と尋ねることもできず、慌ただしい準備時間は過ぎていったが、ベルからもらった青い花飾りを髪に差すと、不思議と気持ちが落ち着いたのだった。


 春を目前にして寒さはそれほどでもなく、大講堂の周辺は着飾った人々で普段と異なる華やかな雰囲気に包まれていた。パートナーとの待ち合わせ場所である講堂前で声をかけてきたのは、赤いドレスの女子生徒を連れた弟のロルフだった。あまり似ていない姉弟だと言われることがあるが、確かに髪や瞳の色は弟の方が多少暗く、顔立ちも落ち着いて見えた。ロルフは地味なコートスタイルで、着飾ったアディを上から下まで眺め回した。

「お姉様? すごいなあ、なんだか女の子みたい」

「ロルフ、お相手見つかったんだ!」

 姉として弟の頑張りを褒めようとしたアディに、ロルフはなんとも曖昧な笑顔を張り付かせつつ声をひそめた。

「逆プロポーズだよ、『お姉さんのファンなの』だってさ……」

「うん、なんというか……よかった……よね?」

 アディのファンと自称する女子生徒は、ロルフと同じ二年生の、快活そうな少女だった。彼女はアディを見て瞳を輝かせ、慌ててスカートの端を持ち上げて挨拶した。見るからに慣れていない様子が微笑ましかったが、アディはうっかり従士のお辞儀をしようとしてしまい、急いで淑女のカーテシーを返した。

「シュッツァー先輩、今年はドレスなんですね! 女らしいお姿も素敵です! 今年は女子とはダンスされないんですか?」

「どうもありがとう。女性からも予約が入ってるから、これはすぐ脱いじゃうんだ。弟を誘ってくれてありがとう、内気だから心配してたんだよ」

 ロルフが頬を染めながら咳払いして、二年生の二人はその場を後にした。ツィスカはとうにパートナーの五年生と会場入りしていて、アディは慣れないドレスの下で落ち着きなく自分の相手を人混みの中に探していた。人の群れの中に、リリーとオスカーの姿はない。もう会えたのだろうか、と気を回しかけた時、遥か後方から待ち人の声が届いた。

「アディさん! ごめん、遅くなりました」

「……」

 おずおずと振り向くと、ダークカラーのコートを着用したケヴィンが早足で近付いてくるところだった。普段下ろしている前髪を上げているためか、いつもの陰鬱さは多少軽減されており、ヒョロリと細長い身体はコートと長ズボンでより縦長に強調されて見えた。ケヴィンはくたびれた様子で白い首を捻りながら言葉を継いだ。

「いやー、オスカーのバカがタイを自分で結べないって抜かすからさあ、しかたなく俺が結んでやってたんです。ついでに髪型チェックしろとか言うし。野郎ガタイはいいくせにそういうのに疎いんだよなあ……あ、ガタイ関係ないってか?」

「……た、大変だったんだね」

 緊張の面持ちで答えるアディを前に、突然ケヴィンが険しい表情を浮かべた。アディが身構えると、ケヴィンは随分小柄な幼馴染を見下ろしながらフッと小さく吹き出した。

「なーにガチガチになってんの、相手は俺だぞ俺! せっかく綺麗な格好してるんだから自信持ってくださいよ。あっちで野郎が『あれシュッツァー? マジ?』って言ってましたし。ま、俺には一目でアディさんだって分かりましたけどね。ざまあみろってんだ!」

「……変じゃない?」

「似合ってる。可愛い」

 途端に斜め下から放たれる照れ隠しの一撃を肩で受けながら、ケヴィンは気楽に笑って見せた。本人としては真剣な一言のつもりでも、日頃の行いのせいでからかっているように聞こえるのだろう。ケヴィンが改まって男性式のお辞儀を送ると、アディは恥ずかしそうに頷いて彼の腕を取った。そして、軽く腕を引っ張りながら低い声で囁きかける。

「お辞儀の時は猫背になっちゃだめだよ」

「……あちゃー」

 ケヴィンに導かれ、二人は会場の外で待つケヴィンの祖母と、アディの母方の祖父母であるモーラー夫妻に顔を見せに行った。モーラー夫人は孫娘の晴れ姿に涙ぐむほど喜んでくれ、ケヴィンが焦って縮み上がるほどだった。同居の父方の祖父母にはいい顔をされない格好だが、こうして会いに来てくれた二人にとってみれば、これこそが望ましい姿だったに違いない。ケヴィンの祖母も満足そうにしてくれたことで一応の目標は達成され、若い二人は講堂へ向かいながら揃ってため息を漏らした。

「……なに、アディさんまで気疲れですか? お祖母さん喜んでくれてたじゃない」

「ううん、靴が……歩きづらくって」

「お、ダンスはばっくれますか?」

「そういうわけにはいかないでしょ! たぶん大丈夫だよ、もし騎士のステップが出たら許してね」

 軽口を叩き合いながら開放された扉の前に進み出ると、ドレスアップした男性教員が受付代わりに二人を確認し、にっこりと朗らかな笑顔を向けた。

「アルブレヒト君、あのシュッツァーにドレスを着せるなんて大したものじゃないか」

「ま、すぐ脱がしますけどねえ」

「ケヴィン!」

 妙な言い方はよせ、とアディが睨む視線を送ると、ケヴィンは肩を竦めながら歩き始め、二人は会場内に足を踏み入れた。長年に渡り使い込まれてきた講堂はこの日のために赤絨毯が敷かれ、天井から下げられたランプの周りには宝石のようにきらめく装飾が取り付けられていて、片田舎の小さな中等学校とはいえそれなりの社交場が出来上がっていた。会場の最奥ではジーメンス郡の楽団が美しい旋律を奏でており、この場所が非日常空間であることが強調されていた。

 着飾った生徒たちは壁際に控えていて、この場におけるデビュタント――舞踏会に初めて参加する一年生たちの入場を待っていた。各種学校の舞踏会では、一年生は一年生同士でペアを組み、練習したての最初の踊りを披露することになっていて、一種の発表会めいた側面も持っていた。言うなれば社交界デビュー、舞踏会の練習である。校長とジーメンス町長の挨拶に続き、初々しい新入生たちのダンスを見守った後は、「皆様(Alles)ワルツを(Waltzer)!」のかけ声と共に他の生徒や教職員がダンスフロアに出て行って、華々しく舞踏会が始まったのだった。

 ケヴィンは女子は苦手だと自称していたが、幼馴染のアディが相手ならそれほど遠慮する必要がないと感じられるからか、アディの想像よりも積極的にパートナーをリードしていた。どちらかといえば問題があるのはアディの方で、いつもの曲に合わせて慣れたステップを踏むとケヴィンの足を蹴飛ばしてしまうので、姫君のダンスを思い出すのに必死だった。踊りにもようやく慣れ始め、やっとのことで目線を上げた時だった。アディの視界に、苦々しい表情で踊るオスカーと、楽しげにそれを眺めつつ悠々と相手をリードする、淡いピンクのドレスに身を包んだリリーのペアの姿が浮かび上がった。胸中にサッと不安の影が差し、心臓を鷲掴みにされたように表情を強張らせるアディに、ケヴィンは慌てて囁きかけた。

「どうしたアディさん、足首捻った?」

「なんでも、ない……」

 次の瞬間、アディの爪先が素早くケヴィンの脛を捉えた。ケヴィンは思わず「でぇっ!」と素っ頓狂な悲鳴を上げてしまい、二人揃って忍び笑いに赤面するはめになったのだった。


 一曲目のワルツが終わり、アディとケヴィンは壁際に退いて一息ついていた。二人の隣にはリリーとオスカーのペアがいて、リリーはアディの肩にすがりながらこらえ切れない笑いを漏らしている。制服姿でも隠し切れないリリーの女性的な魅力は、ドレスアップによって溢れんばかりに周囲に振りまかれていて、普段にも増して人目を惹いていた。髪を上げているせいでむき出しになったうなじからは甘い香りが漂っていて、オスカーでなくとも目を奪われそうである。

「もう、トーン緊張しすぎ……可愛いけど……ふふふ……」

「……舞踏会で踊んの久しぶりだからよ」

 壁に寄りかかって恥ずかしそうに呟いていたオスカーだったが、リリーの笑う姿に落ち着かなくなったらしく、無意識にタイを緩めてしまってケヴィンから大目玉を食らっていた。

「あっ! 野郎、俺がせっかく結んでやったのに……自分で直せよ」

「……げ、クソ。ケヴィン、もっかい結べよ」

「やらねえっつってるでしょ! いい年してなんだよ!」

「ああ⁉︎ ざけんなテメエ、リ――タールベルクに恥かかせる気かよ」

「それこっちの台詞だっつの!」

 かたや腕っ節を鳴らす大柄な不良、かたや陰気でひ弱な文化系少年、あらゆる面で正反対な二人である。幼馴染でもなければ、永遠に親しくなることはなかっただろう。社交の場で掴み合うわけにもいかず静かに言い争う二人を横目で観察しながら、リリーはアディに耳打ちした。

「トーンとアルブレヒト、思ったより仲良いね」

「えっと……うん、ずっとこんな感じだけど」

「それよりアディ、その格好すっごく可愛いよ! 頭のお花も似合ってるし!」

「あ、ありがとう……」

「これはアルブレヒトも惚れ直すよね?」

 苦手としている女子生徒から突然声をかけられ、ケヴィンがギクリと眉をひそめた。嫌そうな顔のままアディに助けを求める視線を流すと、アディは無言で「なにか答えて」と伝えてきた。

「……えーと、ま、貴重なお姿だと思いますよ」

「なんで敬語なの! アルブレヒトって面白いね!」

 途端に笑い出すリリーから顔を背けつつ、ケヴィンは「だから女子は苦手なんだって」とオスカーの影に隠れた。リリーに「次の曲踊ろう!」と誘われたオスカーはあたふたとタイを直そうとし、結局ケヴィンに結び直させてから、リリーに腕を取られて照れながらフロアに舞い戻っていって、アディはその後ろ姿を眺めるほかなかった。リリーの真意は分からないまでも、オスカーと親しくなりつつあることは事実である。なぜかそのことに不安を覚える自身が不可解でもどかしく、アディは俯いた。ケヴィンはもう一度盛大にため息をつくと、アディをチラリと見下ろした。

「とりあえず、俺は壁の『草』と化してます。アディさんはまだ踊るんでしょ? 早く男の子になってあげなさいよ」

「……え、もういいの?」

「俺ばっかアディさんを独り占めしてたら女子の皆さんに悪いんで。それに俺、もう体力ない」

「そっか……あの、今日はありがとうね!」

 早足で去り行くドレスの小さな背中に、ケヴィンは「こちらこそ」と呟いた。


 同じ日、ブルームガルトでも各地の学校で舞踏会が開かれていた。黄色いドレスを着て髪をサイドアップにしたベルは、誰のパートナーを務めるでもなく壁際で踊りを眺めていた。ヨハンナは同学年の男子生徒に誘われてフロアに出ており、ベルは曲の合間に足を捻った女子生徒に応急処置を施したり、不審人物がいないか会場内を見張ったりと、隠れたスタッフのような存在だった。もうすぐ四曲目が終わる頃だろうか、人波を縫ってベルに近付いてくる人影があった。

「……ベル! あの、ええと……なんて……いうか、見違えるよな」

「バウムゲルトナー先輩こそ」

 かすかに覗いた微笑みは、養成所では見ることのないドレスアップ姿とあいまってベルを美少女らしく見せていた。青いコートのフランツは束の間言葉に詰まっていたかと思うと、そっとベルに手を差し伸べた。

「一曲だけでもいいから、踊ってくれないか? 俺、この夏には卒業だろ。もう誘いたくても誘えないかもしれねえし、一回くらい――その、ベルとも踊りたいっつーか……」

 真摯な申し出に、ベルの心も多少は動いたのかもしれない。一曲も踊らずに時を過ごしているのはさすがに退屈だったし、同じ相手を二度も振るのは気の毒な気がしないでもない。ベルがロンググローブを着けた手をフランツの掌に乗せると、少年は言葉を失って瞠目していた。

「それは中学の先輩としてですか、それとも養成所の先輩として?」

「……せっかくだから、未来の従士同士で行こうぜ」

「分かった。じゃあエスコートはよろしく、フランツ」

 フランツの頰は、みるみるうちに薔薇色に染まっていった。そして、ベルを誘っては見事に断られていった多くの男子生徒たちは、最上級生に手を引かれていく「高嶺の花」を目に壁際で落胆のうめき声を上げるのだった。たとえ誘ってきたのが貴族の子弟であろうと、ベルは首を縦に振らなかったのである。きっとベルの級友たちも、思わぬ伏兵の存在に驚いたことだろう。

 ベルはアディと違って、養成所で騎士のダンスを習ったことはあっても実践したことがなかったので、スムーズに姫君の踊りを思い出すことができた。都会の中等学校だけあって、彼らの頭上には真鍮でできた本物のシャンデリアと花飾りが輝いていた。


 紺色のロングコートとズボンの慣れたスタイルに着替えてしまうと、ようやくアディの身に普段のやる気がみなぎった。髪から外した花飾りをコートの左胸に付け直したのは、ベルが胸元で見守ってくれるような気がしたからだった。それからのアディの張り切りようは凄まじく、待ちかねていた「予約済み」の上級生や後輩たちの相手を次々に務めては、壁の花たちの憧憬を集めた。

 何曲かを踊り終えて壁際で休憩を取ろうとしていたアディに、会場の外からロルフが駆け寄ってきた。少年は自分よりも大分背の低い姉のために背中を丸め、耳元で重要な任務を告げた。

「今年の新入生デビュタントにジーメンス町長のお孫さんがいて――女の子だって。ちょっと遅くなったけど、ご挨拶ついでに踊ってこいって、さっきお祖母様が」

 どうやら、隠居を決め込んでいる父方の祖母は会場に入らずに指示だけを伝えていったらしい。脱ぎかけたコートをしっかりと着込むと、アディはロルフに一言礼を述べて、ヘンペル衛士の務めを果たすべく会場の奥へと赴いた。

 従士に扮した「少年」がシュッツァー家の長男を名乗ってかつての主君たるジーメンス領主の元へ馳せ参じ、デビュタントの証たる白いドレスを着た少女が跪いた従士の肩を剣代わりの杖でおずおずと叩く、騎士の叙任の儀式を演じて見せると、片田舎の中等学校とは思えない厳かな空気が満ち、少しの間衆目を集めるちょっとしたイベントとなった。ジーメンス町長は孫娘が本当の姫君になったようだと喜び、アディとそう身長の変わらない一年生の少女も、はにかみながらこの「少年従士」のエスコートで再びダンスフロアに進んでいった。会場内で生徒たちの様子を見守っていた保護者たちも、口々に噂話を囁き合った。

「――ジーメンス町長のお孫さんとシュッツァーのご長男だわ。まあ、お嬢ちゃんあんなに綺麗になって……」

「あらあなた、お嬢さんのお相手はシュッツァーのお姉さんの方よ。本当の(・・・)ご長男はたしか弟さんでしょう」

「まあ、あの子女の子だったの!」

 人々の視線の先のアディは、余裕に満ちた穏やかな微笑みで姫君をリードしながら華麗に舞い踊っていた。あまりに自然な騎士のステップなので、一度男子だと思い込んでしまったら疑う者はいないだろう。心なしか、楽団の演奏もより丁寧さを増したようである。例年のアディを知る生徒たちも、この光景には感銘を受けた。

「……あー、俺のパートナーが男前すぎて困るわー……」

「本当、アディって昔から男装の方がイキイキしてるよね……」

 幼馴染のケヴィンとツィスカがそのような感想を持つなか、リリーも踊り疲れて座り込むオスカーの隣で二人の言葉に頷いていた。

「うん、アディかっこいいね! アディにエスコートされたら、どんな女の子もお姫様になれちゃいそう」

「……おい、あのチビこっち来てんぞ」

 オスカーの低い呟きに、リリーは目を丸めた。無事町長の元へパートナーを送り届けたアディは、その勢いを借りてリリーの前へと進み出たのだった。

「そちらの勇士は踊りがお好きでないご様子。白百合のような姫様、私と一曲いかがですか?」

「うへえ……」

 キザったらしい、と舌を出すケヴィンの耳を、素早くツィスカが引っ張った。リリーは瞳を輝かせてアディの手を取り両手を握り合うと、驚愕の面持ちで見上げるオスカーを尻目に大きく頷いた。

「はい、従士様!」

 満面の笑顔を間近に捉えながら、アディの胸中は複雑だった。収穫祭の夜からずっと気にしてきた言葉が、今でも心の底に刺さったままだったのだ。

(今は……私だって、男子だから)

 リリーの腰に手を添えて、その柔らかな感触にドキリとさせられる。他の女子生徒を相手にしていた時にはない緊張感だった。リリーはアディを前に終始楽しげだったが、アディの焦燥は消えなかった。同じ笑顔をオスカーにも見せていた気がして落ち着かずにいるうち、ワルツは静かにフェードアウトしていったのだった。


 正式の舞踏会は夜明けまで続くものだが、学校で開かれるものに関しては、生徒の健康と安全を期して夜更けを前にお開きとなるのが恒例である。そろそろ星が空に瞬き始めようという時分、フランツと別れてから再び壁の花だったベルの隣には、夕陽色のドレスを身に付けたヨハンナの姿があった。いつもお下げ髪にしている髪の毛はアップにしていて、華やかな舞踏会には似合いの格好だった。

「ベル、養成所の先輩と踊ったのね。オーレンドルフさんが『素敵だったわ』って。私もベルが踊るところ、見たかったなあ……」

「練習の時に散々見たでしょ? ヨハンナはダンスはもういいの?」

「うん、好きなポルカも踊れたし、楽しかったわ。パートナーも優しくしてくれたしね」

 二人の前には、ゆったりとした三拍子に合わせて揺れる無数の人影があった。寄り添ってしばしダンスを眺めていた二人だったが、曲の終盤になって、ヨハンナが不意にベルの手を握った。

「ねえ、外に出ない?」

「どうしたの、気分が悪くなった?」

「……ううん、でも、そうね。人が少ないところに行きたいな」

 二人は、手を取り合って会場を後にした。講堂の外はいつの間にか暗くなっていて、寄り添っていても肌寒さは否めなかった。気の向くままに会場の周りを歩いていたヨハンナだったが、ちょうど講堂の裏手に差し掛かったところで足を止めると、クルリと踵を返してベルと向かい合った。会場から漏れる光でボンヤリと照らされたその場所は幻想的な雰囲気で、聞こえてくる音楽から壁の向こうに楽団がいることが窺えた。ヨハンナははにかんだ笑顔をベルに向け、一拍置いて口を開いた。

「ベル、ここで私と踊ってくれない?」

「……え? 私が騎士の方でいいなら……」

「ありがとう!」

 まさに曲の切り替わるその瞬間、星空の下で、二人はお互いだけの空間にいた。養成所仕込みのダンスをアディ以外と踊るのは初めてで、ベルは少し硬い表情だった。ヨハンナはそんな真剣な眼差しの親友を見つめながらステップを踏んでいたが、ふと微笑みを浮かべながらベルの耳に唇を寄せた。

「あのね……私、ベルが大好きよ」

「ありがとう。私もヨハンナが好きよ」

 応じた途端、クスクスと笑うヨハンナの息が耳たぶにかかり、ベルもくすぐったそうに微笑んだ。ヨハンナはそれきり目を伏せていたかと思うと、ベルと視線を合わせて囁いた。

「……本当よ」

「ええ、私だって嘘はつかないわ」

「うん、でもね、たぶん……」

 どこか気持ちを隠しているかのような眼差しに、ベルはなにかを問いかけようとしたのだが、先にヨハンナが「なんでもないわ」と続けたので、言葉の先は聞けないまま最後の曲が終わった。会場から割れんばかりの拍手が起こり、静かに佇む二人を包み込んだ。ヨハンナは笑いながら手を引いて、ベルと共に講堂へと戻っていったのだった。


 舞踏会が終わるのを待っていたかのように、春はゆっくりとジーメンスの盆地にも訪れた。アディがヘンペルの衛士として参加しなければならない行事の一つとして、その年の豊作を祈る新芽の祭りが控えていたが、何事もなくその祭事も舞踏会の数日後に過ぎ去って、アディはベルより約一月早く十六歳の誕生日を迎えた。プレゼントは早くに受け取っていたものの、当日が近付くと親戚や友人たち、ヘルトリング伯爵、そしてブルームガルトのベルらからカードが次々に届けられた。休日にあたる誕生日の朝、庭に出るなり武術の師匠からの拍手を浴びせられて、アディはやっと一歳年を取ったことを知った。

「お嬢様の健やかなご成長は小生の願いでもありますでな。今後とも励まれますよう」

「ありがとうございます! カイン先生にも長生きしていただかなくては」

「これはこれは……ご心配召されるとは小生も年を取ったものです」

 老爺の悪戯っぽい瞳につられて笑いながら、アディはグッと背を伸ばした。この小さな弟子に、異国から呼ばれた師は十年以上目をかけてきた。屈託のない人柄は幼い頃から変わらず、カイン師の目に気持ちのいい人物として映り続けている。そんな彼女が、今日は楽しげに老爺へと相談を持ちかけた。悩み事の類というよりも、良いアイデアを求めているようである。

「先生、ブルームガルトのお嬢様方から頂いた贈り物のお礼をしたいのです。三十人分のお菓子をお返しするつもりなのですが、養成所の親友には特に助けられたので――なにか他にも贈ろうと思っておりまして」

「はい」

「……それが、気難しくて欲しいものなど教えてくれそうもないのです。私と違って女性らしい人ですから、どんなものをあげればいいのか――」

 老人は、白い顎髭を撫でながら平和な青空を仰いだ。この手の話は武術家には頭が痛かった。

「はてさて……ご一緒にお選びになってはいかがですかな」

 アディはゆっくりと瞬き、そして照れ臭そうにはにかんだ。

「実は、母も同じことを」

「左様ですか。いかがいたしますかな?」

 アディは「決めました、ありがとうございます」と快活に答え、その朝の稽古が始まった。実のところ、アディは半分「そのつもり」で机の上にレターセットを並べておいたのだ。


 ある春の放課後、ブルームガルト第一中等学校の女子校舎の一室に集った生徒たちから歓声が上がった。輪の中心にいて手紙を読み上げていたベルが最も驚いた様子で、ライバルから届いた手紙を手に唖然として唇を曲げていた。向かいから覗き込んでいたヨハンナが小声で呼んでも聞こえていない様子だったので、よほど意外だったのだろう。いつも通りの返信の最後に、追伸としてこんな文が添えられていた。

『もうすぐベルの誕生日ですね。なにを贈ればいいか決めかねておりますので、今度の連休にブルームガルトでベルと一緒に選びたいと思っています。皆様からの素晴らしいプレゼントのお礼も、是非直接お伝えさせてくださいね』

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