第三十四章 ダームガーンの戦い -2-
前進していたヤフーディーヤ軍の足が止まった。
まだ、矢も魔法も届かない距離で、両軍は対峙している。
戦機は熟しているように見えるが、火蓋を切らないのには理由があるのだろうか。
「指導者だ」
ノートゥーン伯が、小さな声で呟いた。
その視線の先に、中空に浮かび上がった魔導画面がある。
映っているのは、黒い頭布を巻いた白髯の老人だ。
額は広く、鷹のように鋭い眼差しをしている。
あれが、指導者カルティール。
イスタフルを黒石で統制する怪物である。
「流石に、ただ者じゃない気配はあるね」
「太陽神教団を東方に追いやったのはもう何代も前だが、それ以来パールサ人を縛り上げて放さない実力はあるからな。もっとも──」
「背後には、フワルシェーダがいたわけだね」
「ああ。あの力がなくなったいま、指導者の求心力は揺らいでいる。だからこそ、此処で言葉を叩き付ける気になったのかもしれんな」
カルティール・サカフィーは、生粋のパールサ人ではない。
セイレイスのバーディヤ人がイスタフルに住み着き、パールサ人と混血した家系だ。
外から来た一族が、皇帝より強い権力を持って君臨しているのだ。
通常なら、軋轢の種でしかない。
指導者が姿を見せると、ヤフーディーヤ軍の将兵から、歓呼の声が上がった。
それが心からのものかどうかはわからないが、いまのところ指導者はまだパールサ人を膝下に置いていると言えるだろう。
そして、彼が右手を挙げると、その喧騒がぴたりと止む。
その統制力は流石の一言だ。
「叛逆者ハーフェズ・テペ・ヒッサールよ。神に背き、父に背き、外敵を引き入れ、同胞を殺戮し、どの面下げて此処まで参ったのか。八つ裂きにしても余りある大罪。狂皇子ハーフェズよ、何か申し開きできることがあらば、申してみよ。口を開く勇気があれば、の話だがな」
指導者の声には、魔力が乗っていた。
だから、これだけ離れていても、よく耳に通る。
精神障壁の甘い者なら、この声だけで屈服してしまうかもしれない。
聖騎士もやっていたが、これだけの人数に仕掛けることはできないだろう。
魔力の桁が、やはり違う。
「はーははははは!」
哄笑。
指導者の声に揺れていたハーフェズ軍の兵の背中に活を入れるように、明るい笑い声が戦場に響き渡る。
「叛逆者とは片腹痛い。誰が、誰に対して行う叛逆なのかね、カルティール・サカフィー!」
ふわりと、ハーフェズが空に浮かび上がる。
こいつめ、いつの間にか飛翔魔法を完成させていたのか。
ファリニシュは風の魔術で行うが、ハーフェズは自分の魔力だけで可能にしている。
多重魔法陣で、かなり使用魔力も軽減しているな。
驚くべき進歩だ。
「無論、神と皇帝に対する叛逆だよ、狂った皇子。そんな当たり前のことが理解できないのかね?」
「あいにく、わたしが神と認めるのは、太陽神のみだ。黒石の神など、わたしの帝国では神とは認めぬぞ、カルティール・サカフィー」
ぴくりと、指導者の眉が跳ね上がる。
鋭い眼差しに、剣呑な光が宿っている。
「大逆の罪を重ねるか、狂気の皇子。わたしの帝国とは、どういう意味か。明らかな叛逆の言葉。この帝国は神と皇帝の治める地。貴様の手にするものではないぞ、ハーフェズ・テペ・ヒッサール!」
「だが、わたしのものなのだよ、カルティール・サカフィー」
からかうような口調とともに、ハーフェズが微笑む。
あの野郎、ああいう人を苛立たせる仕草は本当に上手い。
激情を腹に収めて、なおも指導者が言い募ろうとするのを、ハーフェズが手で制する。
そして、下に控えていた神官長バルタザールに手招きした。
神官長は一礼し、恭しく手にした包みを捧げ持つ。
ハーフェズはその包みを受けとると、敵軍に向けて掲げた。
「パールサの子らよ、とくと見よ! これぞ、イスタフルを治める正当なる証。ヒッサールの黄金の剣、メフルダードである!」
さっと、ハーフェズは包みの覆いを取り去った。
瞬間、黄金の輝きが、両軍の将兵たちの目を撃った。
ハーフェズが掲げるのは、一本の宝剣。
明らかに神聖な輝きを発する、神器である。
「メフルダードを持つ者こそ、イスタフル皇帝の証。父は、自らに皇帝の器なしとわたしにこの剣を譲り渡した。すなわち、わたしこそが正当なるイスタフルの皇帝。自らの土地を、人民を取り返しに来たのだ。それを叛逆だと? 笑わせてくれるな、カルティール・サカフィー! 皇帝に逆らう愚者は、貴様の方だ、賊徒の頭目め!」
どよめきが、両軍の兵に走った。
パシュート人やトゥルキュト人に動揺は少ない。
だが、歩兵の大半を占めるパールサ人たちには、このハーフェズの手にある神剣の効果は大きいようだ。
それは、指導者とて例外ではない。
「に、偽物だ! あんなものは、偽物に決まっておる! 本物は、ヤフーディーヤにあるのだ。第一、シルカルナフラにいた狂皇子が、本物を手にできるはずがないではないか!」
「いやですねえ、指導者。わたしが渡したに、決まっているじゃないですか」
ハーフェズの隣に、やけに馴れ馴れしい優男が舞い上がる。
その顔を見た指導者の巌のような顔が、激しく歪んだ。
「おのれ、蛇め! 貴様か、メルキオール!」
「ええ、わたしですよ、カルティール・サカフィー。貴方がヤフーディーヤにいるうちは、先帝の身が危なくて正体を明かせませんでしたが、もう大丈夫。先帝の身は、わたしの部下が守っている。そして貴方も、今日此処でその人生が終わるわけですからね! もう安心して、こうして対峙できるわけです。後は任せて、心置きなくくたばっちゃって下さい」
ハーフェズに負けず劣らず、メルキオールは煽っていくスタイルのようだ。
この二人、親友だけあって、性格が似ている。
指導者が蛇と言うのも、もっともだね。
「おのれ!」
指導者の眉が、逆立つ。
怒りが、魔力を膨れ上がらせている。
開戦前に舌戦は、ハーフェズの勝ちだろう。
シルカルナフラ軍の士気は上がり、ヤフーディーヤ軍には動揺が走っている。
だが、率いる将帥までは、揺らいでいなかった。
「この上は、問答無用!」
指導者の背後に立つ老将が、雷声を響き渡らせる。
「決着は、いくさによって付けられよう! 武人なら、問答より刃によってなされよ! バルヴェーズ!」
「応、待ちかねたぞ!」
大将軍アシュカーンの叫びに答えたのは、先陣に控えていた巨軀の猛将である。
長大な戟を翳すと、彼は麾下の歩兵に号令を下す。
「進め!」
整列していた歩兵たちが槍を構え、前進し始める。
此処に、イスタフルの命運を決めるダームガーンの戦いの火蓋が、切って落とされた。




