第三十二章 聖戦の加護 -3-
街道を外れ、サナーバード軍がドラーニ部族を追ってきた。
その浸透力はまさに洪水の如し。
渇いた大地が、一息にセリム・カヤの騎馬隊で埋め尽くされる勢いである。
ばらばらにならず、一直線で逃げるアフザル・ドラーニを、左右から挟み込むようにすり潰す戦術。
飲み込まれた後衛は、なす術なくサナーバード軍の中に消えていく。
アフザル・ドラーニは必死で逃げるが、イ・ラプセルの騎馬隊と違い、サナーバード軍と馬の足に差異はない。
捕捉されれば、振り切ることは不可能である。
「メルキオール卿!」
ノートゥーン伯が、ドラーニ部族を限界と見たか。
その声に、鋭さが混じる。
「まだだよ」
だが、メルキオールに動揺はない。
その瞳はあくまで冷徹に、サナーバード軍の位置を測っている。
気に入らないやつだが、メルキオールは指揮官には向いているのかもしれない。
おのれの策を信じ、味方の被害にも心を揺らさぬ胆力。
ノートゥーン伯やぼくにはない資質だ。
ハーフェズが、大事な戦場で采配を託すだけのことはある。
「──あれは、ティナリウェン先輩とビアンカ?」
ドラーニ部族に混ざって、学院生が二騎駆けていた。
ベルナール先輩たちとは別の方角に哨戒に出ていたのだろう。
帰還するタイミングがドラーニ部族と重なったのは、偶然か故意か。
味方の逃走を、偃月の牙を伸ばして援護しているが……。
サナーバード軍の騎兵の障壁は、ティナリウェン先輩の一撃では砕けなかった。
「イシュマールは、高等科でもトップクラスの魔力圧縮の使い手なのに」
ノートゥーン伯が、息を飲む。
この後、あれに突撃して突破し、セリム・カヤを討たなければならないのだ。
ティナリウェン先輩が手こずるようだと、他の高等科生では相手にならないかもしれない。
それでも、殺到する敵兵を相手に、ティナリウェン先輩は善戦していた。
圧倒はできなくても、ビアンカを守りながら駆け続けている。
ビアンカも剣を振るっているが、彼女の剛剣でもサナーバード軍の障壁に歯が立たない。
ビアンカは、まだ魔力圧縮の練度が甘いのだ。
ティナリウェン先輩がいなければ、ビアンカはとうに討たれていただろう。
あの波に飲み込まれず、跳ね返しているティナリウェン先輩は、流石の力量だ。
だが、それも長くは続くまい。
このままでは、あの二人も遠からず飲み込まれてしまう。
ちらりとノートゥーン伯を見ると、歯軋りが聞こえてきそうなほど、歯を食いしばっている。
いまにも飛び出しそうな雰囲気だ。
慎重なくせに、変なところで伯爵は激情家だ。
だが、それほど心配することはない。
まだ、ファリニシュが援護のために残っている。
後方からの波にティナリウェン先輩が飲み込まれそうになった瞬間。
先輩の周りで剣を振りかざした兵が三人、同時に凍りついた。
氷像が大地に落ち、粉々に砕け散る。
「──ペレヤスラヴリの白き魔女が、どうしてヘルヴェティアにいるんだろうねえ」
立て続けに十数人が氷の破片と化したところで、メルキオールが首を振って嘆息した。
「イリヤ・マカロワは、タルタル人にとっては呪詛と恐怖の対象なんだ。黄金の天幕が西方への侵略を諦めたのは、あの魔女がいたせいだよね。そんな大物が、なぜ魔法学院の学院生に紛れ込んでいるんだ?」
「大魔導師の旧い知己らしいからね」
メルキオールの問いに太陽神の眷属だとも言えず、誤魔化さざるを得ない。
その返答に、メルキオールはもの問いたげな目を向けてきたが、それどころではないと視線を戻した。
「──そろそろだよ。アフザル・ドラーニたちが所定の位置まで到達した」
砂の上を一直線に走るドラーニ部族の兵。
それを後方からの横に広がって殲滅しようとしていたサナーバード軍の兵たちの足が──。
いきなり、止まった。
「──魔術か」
先頭を駆けていたサナーバード軍の騎兵の足下が、不意に崩れた。
馬の足が止まり、兵士が地面に投げ出される。
地属性の魔術で、地下の大空洞を薄い砂の層で覆っていたのだ。
安全に駆けられる道は、ドラーニ部族が進む一本道しかない。
次々と崩れていく地面に、後続のサナーバード軍は立ち往生し、完全に足が止まった。
「いまだよ」
メルキオールの傍らの幕僚が、鷲獅子の旗を振る。
両側の丘の上に伏せていたシーリーンの歩兵が姿を現し、一斉に矢を放つ。
雨のように降り注ぐ矢。
しかし、如何に大量の矢でも、聖戦で強化された障壁を貫くことはできないのではないか──。
そんな危惧を振り払うように、メルキオールは不敵な笑みを浮かべた。
「わたしの加護は聖戦ほど強くはないが」
メルキオールの右手の神力が膨れ上がり。
呼応するように、眼下の大地が広範囲に光輝いた。
「神域。この中では、他の神の加護は制限がかけられる。セリム・カヤの聖戦は、弱体化したよ」
降り注ぐ矢には、魔力が籠められている。
定住化したとはいえ、パールサ人の魔力は西方の人間より高い。
戦闘に魔力を使うのも、手慣れたものだ。
一本では砕けなかったが、数本食らえば障壁はもたなかった。
立ち往生したまま、矢を全身に浴びてサナーバード軍の前衛が壊滅していく。
それを見ていたノートゥーン伯が、傍らのジリオーラ先輩とトリアー先輩に振り返った。
「行くぞ。わたしたちで、アラナンの道を作る」
「わかったで。任せといてや」
「とっとと行きな。うずうずしてるんだよ、あたしは」
大陸西方の北と南それぞれの海を制する民族の血か。
ジリオーラ先輩も、トリアー先輩もサナーバード軍に怖じてはいなかった。
苦笑すると、ノートゥーン伯は次にぼくに視線を向ける。
「準備はいいか?」
「いつでも」
「お前の力は、温存しておけよ。セリム・カヤは油断できぬ相手だ」
加護持ちが相手なら、当然油断はできない。
黒石の大陸への影響力は、かなり大きい。
セイレイスとイスタフルで分裂し、対立しているから弱体化しているが、そうでなければとっくに衰退したルウム教は飲み込まれている。
本来ならば、ルウム教に敗れたセルト民族の神々に黒石に対抗する力はない。
だが、大魔導師とファリニシュがルウム教の力を削り、セルトの神々の力を蓄えてきてくれたお陰で、今では十分戦うことができる。
「よし、行くぞ。突撃!」
ノートゥーン伯の馬が、躍るように駆け始めた。
その左右を固めるように、ジリオーラ先輩とトリアー先輩が続く。
そして、その錐形に守られる位置で、アンヴァルが余裕をもって駆ける。
混乱するサナーバード軍の陣形に、感じていた堅固さはない。
加速した槍が、サナーバード軍の横腹に風穴を開けた。




