第二十九章 アローンの杖 -7-
イフターバ・アティードの虚脱は、一瞬だった。
下半分が斬り落とされた杖を投げ捨てると、宙空から一枚の肩掛けを取り出す。
──あれも強力な神力を放っているな。
新しい神器か。
「聖なる肩掛けじゃな。あれは刃や魔法を弾く神器じゃ。アラナンの剣と、わしの魔法に対抗するつもりじゃろう」
学長は落ち着いて解説しているが、それって結構まずい気がする。
もう動けないぼくの剣はともかく、学長の魔法が通じなければ、イフターバ・アティードを倒す手立てがない。
「相変わらずじゃのう、エシュア・ルーベン。おぬしのその臆病なところは、変わってないのう」
「王者に向かって何を言うか、木っ端魔術師が。この神の力こそ、王者の証明。何者も余を傷付けることなど能わぬわ」
アローンの杖を失ったイフターバ・アティードは、もう裁きの雷を使えない。
だが、掲げた右手から発する魔力は、尋常ではなかった。
あれは──。
上空から風の魔力を集めている。
天空から、大気が徐々にイフターバ・アティードに集まってくるように感じる。
下降気流──それも、急激に速さと勢いを増していた。
「上空三万フィートを吹く天の暴風。その風速は、地上の風の比ではない。これぞ、天上の神風よ!」
イフターバ・アティードの周囲の空気が逆巻き、荒れ狂う竜巻となる。
暴風の轟音に、耳鳴りがひどい。
あれをこちらに向けられたら、いまのぼくでは防ぎようがないな。
一瞬で巻き込まれ、ぼろ雑巾のように宙を舞い、そして叩き付けられるだろう。
「ふむ、では、アラナン、魔術の技巧の極致というものを、ひとつ見せてやろうかの」
だが、大魔導師は動じない。
急激に下がる気温をものともせず、学長は右掌をイフターバ・アティードに向けた。
「障壁な、あれはアラナンでも張れるじゃろう」
学長の口調は講義のようであった。
「じゃが、それはあくまで自分を中心にしか張れぬ。それを一歩進めると、こんなこともできる」
突然、イフターバ・アティードに向けて流れ込んできていた気流が、ぷつりと止まった。
そして、彼を囲うように大きな円球状の障壁が現れていた。
「ただの障壁ではないのじゃよ。あの中は空間を切り離しておるからのう。エシュア・ルーベンの魔術も、外界に効力を及ぼせぬ」
「空間の牢獄と言うわけですか? ──しかし、あのイフターバ・アティードが、いつまでも閉じ込められてはいないと思いますが」
流石は空間魔法の大家だけあって、大魔導師の手並みは鮮やかだった。
イフターバ・アティードの大魔術すらも、簡単に止めてしまう。
だが、イフターバ・アティードが障壁を破れば、また振り出しに戻ってしまうだろう。
閉じこめておくだけでは、決着にならない。
「アラナン、そなたは魔力を圧縮するとき、どうやってやっておる?」
唐突に、大魔導師が話題を変えてきた。
え、いまそれ必要?
学長の頭の中では繋がっているのかもしれないが、凡人のぼくには付いていけない。
とはいえ、質問は質問だ。
答えなければならない。
「普通に外から力を加えてぎゅーっと縮めるイメージですが」
「じゃろうの。まあ、一般的にはそうじゃ。じゃが、上級者は、そこにひと手間加えるもんじゃ」
学長が、眼前の空間の牢獄を指し示す。
「外からだけでは限界がある。より多くの力を得るためには、内部から崩壊させることが肝要じゃ。自壊──魔力崩壊」
学長がやったのは、結界の中央から魔力を引き抜く行為だった。
瞬間的に空白を作り出された結界は、その穴を埋めるために内側に向かって収縮する──同時に、抜いた魔力で外側から力を加えていっている。
それを連続して行っているのだ。
正直、高度な魔力操作過ぎて、自分にできる気が全くしない。
「ぐっ──おのれ、ティアナン・オニールめ……」
縮む空間を、聖なる肩掛けの力で支えようとする。
絶対魔力防御を持つ神器も、物理的に空間が収縮する現象を止めることはできない。
それでも、脂汗を流しながらも耐えているのは流石と言うべきか。
「わかっておるのか、この木っ端魔術師が……東からの侵攻を止めたれるのは、余だけなのだ。此処で余の力を失えば、何人も魔王を止めることはかなわなくなる──西が、滅ぶのだぞ」
「そうじゃのう。確かに東の魔王は脅威じゃ。じゃがのう、エシュア・ルーベン」
とぼけた表情で、大魔導師が続けた。
「わしの魔術程度を防げないようでは、どうせ魔王にも勝てやせんよ。安心して逝けい。西方は、わしが何とかするわい」
その言葉と同時に、一気に空間が凝縮していく。
イフターバ・アティードは憤怒の声を上げていたが、やがてその声は意味を失い、絶叫へと変わっていった。
そして──。
最後には真っ黒な深淵だけが残り──。
やがて、それも消えていった。
あまりの結末に、ぼくは思わず声を発するのも忘れて茫然としていた。
「しっかりせい、アラナン。まだ終わっておらんぞ。もう一人、イフターバ・アティードは残っておったじゃろう」
そう声を掛けられ、やっと正気に返る。
「が、学長、いまのは一体どうなったんですか?」
「さあのう」
大魔導師は白いあごひげをゆっくりと撫でた。
「少なくとも、あれだけの力で潰されれば生きてはおるまいさ。あの深淵の向こう側は──わしにも、わからぬ」
ぞくりと、背筋に悪寒が走った。
あまりに強大な大魔導師の神聖術。
ぼくの術など、子供騙しのように思える。
この人が味方で本当によかったと、そう思えた。
少なくとも、ぼくでは学長に勝てる未来が思い浮かばない。
「そんな顔をするでない。わしとて、アローンの杖があれば、勝てはしなかった。わしでは、あれは破壊することもできぬ。あれは、アラナン・ドゥリスコル、そなただからできた偉業よ。素直に誇ることじゃな」
「そう……ですか。じゃあ、調子に乗っておくことにします。──もう一人のイフターバ・アティードだって、飛竜なら問題ないでしょうし」
「否とよ。アローンの杖も厄介じゃが、あの神殺しも並みの神器ではない。アラナン、そなたの剣でなくば撃ち合えぬほどにの。生身で相手ができるイリグは超人じゃが、それも長くは持たぬ」
ぼくの知る限り、飛竜は近接戦最強の男だ。
イフターバ・アティードの神殺しは、その最強を以てしても届かぬというのか?
それでは、もう勝てる者など思い当たらない。
「戻ろうぞ、アラナン。いずれにせよ、そろそろ決着のついている頃合いじゃ。──どちらが勝つにせよ、のう」
学長の言葉に、萎えた足に活を入れてよろよろと立ち上がる。
全身ぼろぼろの状態だが、もしアセナ・イリグが負けた場合は、ぼくが神殺しを抑えなければならない。
フラガラッハを持つぼくだけが、それをなし得るのだから。




