第二十六章 魔王の血脈 -5-
切り札。
それは無論、紅焔の一撃だ。
如何にあの球体の防御能力が高かろうと、飽和攻撃は防げなかろう。
金属をも融解させる高温の炎の放射を受ければ、生と死を操る魔女とてたまるまい。
だが、難点がある。
それほどの威力を出そうと思ったら、流石に神力のためがいるのだ。
絶え間ない放雷の攻撃を避け続けている状況では、そのためが作れない。
「ちょこまかとねずみのような。動きを追うのも飽いてきましたわ」
無数の稲妻を操りつつも、アルトゥンは優雅さを崩さない。
ついと長い指を上げると、青白い球体に向けてぱちんと鳴らす。
「だから、容赦は致しませぬ。これで終わりです」
今までは二個とも青白い光を放っていたが、魔女が指を鳴らすと同時に一個の輝きが青から赤へと変わる。
常にぼくから生気を吸い上げようとしていた球体が、その吸収を止める。
紋様に掛かっていた負荷が消え、内心ほっとした。
結構この防御にも、神力のリソースを食われていたのだ。
防御したままでは、全力が出し辛かった。
だが、これで安心して紅焔をぶっ放せる。
放雷の隙を見て、タイミングを図ろう。
そう考えたとき、不意に太陽神の翼の出力ががくっと落ちた。
稲妻が障壁にぶち当たり、突き抜けて体を貫く。
軽い痺れに硬直する暇もない。
次の放雷がもう来ている。
だが、体の動きが鈍い──というか、落下し始めている!
「まさか」
いつの間にか、調節していた気温も狂っている。
風の支配も手放していた。
そして、太陽神の翼の出力の減衰。
間違いない。
魔力、そして神力が吸い取られている。
「死の女王の抱擁、その裏です。そなたとて、魔力も神力も吸い尽くせばただの人間。稲妻を防ぐすべもありますまい。お別れです、アラナン・ドゥリスコル」
冗談じゃない!
さっきのもやばかったが、これはそれ以上だ。
空を飛べなくなり、明らかに落下している。
偶然で稲妻をかわしたが、アルトゥンが落下の軌道を予測したら終わりだ。
というか、そもそもこのまま地面に激突したら死ぬ!
次第に落下速度が上がる。
近付く大地。
そして、上空から降り注ぐ落雷。
しかも、魔力は尽きている。
これほどの危地に立たされた経験はない。
「ファリニシュ! ──マリー!」
念話も繋がらない。
暴風で視界も悪く、みんながどういう状況かもわからない。
向こうからも、ぼくのことなど見えていないはずだ。
くそっ。
こんなことで終わってたまるか。
僅かに残る神力を圧縮して、太陽神の翼を展開できないか。
衝撃が走る。
落雷。
全身が痺れる。
僅かに残っていた障壁も壊され、なけなしの神力も底を突く。
肉の焦げる臭い。
意識が薄れる。
断続的に見える映像に、マリーが映った気がした。
「アラナン! アラナン!」
かん高い悲鳴。
耳に痛い。
がくんと体が揺れる。
制動が掛かっているのか?
背中に衝撃。
そして、激痛。
地面に叩き落とされた。
だが、痛いということは生きている。
何故だ。
さっき、落下速度が緩やかになったような──。
薄く目を開くと、豪雨のごとく稲妻が降り注いでくるのが見える。
だが、その全てが途中で逸れていく。
地上から発した光線によって、稲妻が誘導されるかのように軌道を変えている。
誰かがやっているのか。
傍らに立つ女性が、空に向けて手を広げている。
ファリニシュ、そうだろうな。
「動きなさんすな、主様。マルグリット・クレール・ド・ダルブレ、あれを使いなんし。大魔導師に代わって許しなんす」
「わかったわ」
マリーが駆け寄ってくる。
青ざめた表情。
固く結ばれた口を開くと、古いセルトの言葉が漏れる。
同時に足許に描かれていく魔法陣。
「聖杯!」
マリーの呪文とともに、魔法陣から古いセルト紋様が彫られた金属の杯が現れる。
その杯には、少量の液体が入っていた。
魔力を消費したか、マリーは疲れた表情をしつつも急いで杯を手に取る。
そして、仰向けに倒れるぼくの傍らに跪いた。
「しっかりして! アラナン!」
マリーが泣きそうになっている。
心配ないと言おうとしたが、唇が動かなかった。
急速に命が消えていく感覚。
血が流れすぎたか、熱が失せていくのがわかる。
短い間に、二度も味わうことになるとは。
マリーの手が動き、口許にひんやりした感触を押し付けられた。
冷たい液体が口に流し込まれる。
げほっ。
嚥下する力がなく、軽くむせる。
だが、液体が流し込まれた瞬間から、不思議とそこから力が戻っていく感覚があった。
「けほっ、なんだこれ、すごくまずい……」
「まずいくらいじゃ死にはしないわ!」
もっともだ。
だが、味はともかく、その液体がもたらした効果は凄かった。
体に力が戻り、全身から痛みが消えていく。
ファリニシュの再生より劇的だ。
「よかった、アラナン。トリアーさんに感謝しないと。空から落ちてくる貴方を救ったのは、彼女よ」
「トリアー先輩? そうか、念動魔法か」
もう立ち上がれる。
起き上がって自分の体を見ると、黒焦げになった服の残骸が僅かにまとわりついているだけだ。
この様子だと、皮膚も同様だったはずだが、赤子の肌のようにしみひとつなかった。
「主様」
ファリニシュに渡された服を身に付けながら、マリーのやった行為を考える。
マリーなら、万病に効く聖樹の葉をまだ隠し持っていても不思議はない。
何しろ、マリーは聖なる木立群に立ち入ったことがある。
聖樹の葉を持ち帰った実績もあるのだ。
そのせいで、ロタール公からも狙われていた。
だが、あの効果は聖樹の葉なんてものじゃなかった。
まさに死者も蘇生しかねないほどの強力な癒しの力。
それを考えると──。
「まさか、聖杯を授けられていたとは。セルトの女王が聖杯の乙女だとは驚きです。これは、ロタール公が必死になるわけですね。公は知っていた──知っていて黙っていましたか。それにしても、アルトワ伯も、大魔導師もよく隠したものですよ。教会がこれを知れば、総力を上げてその娘を手に入れようとするでしょう」
いつの間にか、雷鳴が止んでいた。
凪いだ空に、アルトゥンが黒衣を翻して浮かんでいる。
彼女の目は、ぼくもファリニシュも見ていなかった。
黒いヴェールに隠されてはいるものの、その視線はマリーに向けられていた。
「強力な加護を持つ娘を、教会なら囲って利用しようとするでしょう。ですが、死の女王の加護を持つこのアルトゥンなら、話は別です。お前を殺せば、わが神に強力な力が宿る。見逃す手はありますまい」
加護を持つ者同士は、その加護を奪い合うことで信奉する神の力を増やすことができる。
アルトゥンの隠された双眸には、獲物を見つけた猛禽の輝きが宿っていた。




