美しく凛とした愛情表現 ~夏目漱石『こころ』から
『こころ』のネタバレを含みます。ご注意ください。
「そりゃ私から見れば分かっています。(先生はそう思っていないかも知れませんが)。先生は私を離れれば不幸になるだけです。あるいは生きていられないかも知れませんよ。そういうと、己惚になるようですが、私は今先生を人間としてできるだけ幸福にしているんだと信じていますわ。どんな人があっても私ほど先生を幸福にできるものはないとまで思い込んでいますわ。それだからこうして落ち付いていられるんです」
これは、「先生」の留守中に家を訪ねた「私」が、先生の奥さんと二人きりで話した時の奥さんの台詞だ。
「私」が奥さんへどれほど先生を愛しているのかと訊き、奥さんがわかりきったことですと答えた後で、「私」がさらに「奥さんがいなくなってしまったら「先生」はどうなってしまうのだろう」と重ねて問いかけた後、奥さんはこのように答えた。「私」も奥さんもますます人間嫌いになり世間から遠ざかろうとする先生を心配している。この言葉は、そんな先生を思いやる気持ちから出たものだ。
『こころ』は全編にわたり、簡潔でそれでいて胸を打つ言葉に満ちているのだけど、このくだりを読んだときは、なんて美しい愛情表現なのだろうと惚れぼれしてしまった。
背筋のぴんと通った言葉だ。凛とした自信と相手をくるりとつつんでしまう愛情にあふれている。ここまで言い切れるのは、よほど愛して大切にしているからに違いない。この台詞の最後にある「それだからこうして落ち付いていられるんです」という言葉が揮っている。愛にあふれているからこそ、落ち着いていられるのだ。
残念なことに重い過去を背負った先生は、奥さんにほんとうのことを打ち明けることができなかった。先生は奥さんの愛情の感謝しつつも、奥さんを愛しつつも、ますます自分の殻に閉じこもり、そうして、なにも言わないまま独り自殺を選んでしまう。先生にしてみれば、奥さんに自分の過去を背負わせたくないからこそ黙っていたのだが、ここまで愛してくれた奥さんになにも話さないのは、女性からしてみればひどい男だということになるのかもしれない。




