31 ヒュー博士の過去 (4)
家に帰ったとたん、僕は憔悴しきった様子の父さんに詰問された。
「ウィリアムをどこへやった?」
「え? ウィル、いないの?」
「とぼけるな! お前だろう。お前しかいないだろう!」
父さんからものすごい剣幕で胸ぐらをつかまれたけど、何を責められているのかも理解できていなかった。兄さんがあわてて割って入ってくれなきゃ、意味がわからないまま、父さんを突き飛ばしていたかもしれない。
僕は自分の事情を説明するために、ウィリアムから送られた速達便の紙片をポケットから出して見せた。
「ウィルから速達便をもらったから、急いで帰ってきたんだよ。僕じゃ何もできないけど、父さんと兄さんなら、何か手を貸してもらえるだろうと思って」
筆跡を見れば、ウィリアムのものだとすぐわかる。あいつは、走り書きでもきれいな字を書くから。父さんはそれを見ると、目に見えて勢いを失った。そして悄然と肩を落として、僕に謝った。
「そうか……。勘違いして、すまなかった」
そのまま父さんは、書斎に引きこもってしまったんだ。だから僕は、唯一まともに話のできそうな兄さんに尋ねた。
「兄さん、何があったの?」
「簡単に言うと、ウィルが出奔した」
「簡単すぎ。もう少し詳しく教えて」
兄さんによれば、父さんが家長として「ジュリアを国王の愛妾に差し出す」と決定を下し、彼女を王宮に送ってしまった。それに怒ったウィリアムが、家から姿を消し、そのまま連絡がとれなくなっている、という話だった。
それを聞いて、僕はもう、何ともやるせない気持ちになったよね。
だってジュリアを取り戻すために、父さんと兄さんに手を貸してもらおうと帰ったのにさ。ウィリアムから彼女を引き離す決断をしたのが、父さんだって言うんだから。誰よりも味方だと信じていた人から背中を切りつけられたような、裏切られた気持ちでいっぱいだったよ。
でも事情を説明してくれた兄さんは、父さんの決定には反対していた様子だった。だから味方になってもらえないかと思って、聞いてみた。
「何とかジュリアを連れ戻すことはできない?」
「難しいな……」
難しいと言いながらも、兄さんはそれから手を尽くしてくれたよ。
筆頭侍医の立場を利用して、王宮に囚われているジュリアと面会しようと試みたり、できる限りのことをしてくれた。だけど王は、政治では無能なくせに、こういうことにかけては狡猾だった。ジュリアのそばには、ローデン家の息のかかった者を一切近寄らせようとしなかったんだ。
万策尽きたとき、兄さんは「すまない」と謝ってくれた。
兄さんに手出しができないなら、僕なんてもっと無理だ。
僕は心の中でウィリアムに謝りながら、この件に関しては諦めた。諦めて、もとの自分の暮らしに戻った。つまり家を出て、国外を拠点として魔獣ハンター稼業を再開したんだ。そしてこのときを限りに、ローデンの名も捨てたよ。
もう、すっかり嫌気が差してしまっていたからねえ。
色狂いの王にも、その王をいさめることのない臣下にも、それどころか娘を妾に差し出して甘い汁を吸おうとする貴族たちにも、どんな志があってのことか知らないけど、息子の嫁を王に差し出してしまった父さんにも、この国のすべてに心の底から失望したんだ。
何より一番がっかりしたのは、自分自身だよ。最初に相談されてたのに、何もしてやれなかった自分に落胆した。ローデンを名乗るのをやめたのは、これが一番大きいかな。跡継ぎを守ってやれなかった僕には家名を名乗る資格がないし、名乗りたいとも思わなくなっていた。
国を出たのは、そんなつまらない事情さ。
* * *
ヒュー博士の話を聞き終わって、私はひとつ訂正したくなった。
「父に何もしてやれなかったっていうのは、間違ってると思いますよ」
「どこがかね?」
「だって、うちは薬屋でしたもん。魔獣ハンターは向いてないって、博士が助言してくださったお陰ですよ、きっと」
私の答えに、博士は「そうだろうか」と言いながら苦笑した。きっとそうだと、私は思う。それに、博士の話を聞いていて、父が最終的に博士を頼らなかった理由にも見当がついた。
当時、実の親でさえ最初に手引きを疑った人物、それがヒュー博士だ。しかも博士は、王都のギルドが常に居場所を把握しているような、魔獣ハンターギルドにおいては重要人物だった。そんな人を頼ったら簡単に足がつくだろうと、私でもわかる。
博士を頼れば、きっと国外に脱出することはできただろう。でもその後に国際問題を引き起こしかねず、博士にも亡命先の国にも迷惑をかけるであろうことは、火を見るよりも明らかだ。だから博士には頼らなかったのだと思う。そして、頼らなかったことがはっきり証明できるよう、速達便を出したのだと思う。だって、私ならそうする。
私がそう話すと、ヒュー博士は「そうだといいな」と淡く微笑んだ。
このとき、ふと前日に伯父さまと話したことを思い出した。
「あ、そうだ。伯父さまから伝言を頼まれてたんだ」
「ん?」
「博士のことを話したら、『一度くらい顔を見せなさい』と伝えてくれって」
「そうか」
博士と話しているうちに、すっかり夜が更けていた。
窓のない部屋なので、いつでも照明で明るさが一定に保たれていて、時間の感覚がわからなくなる。でも、例の振り子のない時計の針が、十時を指していた。
なのに、まだライナスは現れない。
ヒュー博士は表情を切り替えて、話題を変えた。
「さて。そろそろ順番に仮眠をとったほうがいいな」
「でも、眠れる場所が……」
中央に楕円型の円卓と椅子があるだけで、あとは黒大理石の床が広がっている。毛布もないのに、こんな固い床の上で寝られる気がしない。かといって、テーブルに突っ伏して眠れるかというと、それも難しい気がする。
そう悩んでいる間に、ヒュー博士は椅子を引き出して並べ始めた。向かい合わせにするようにして、互い違いに五脚の椅子を並べると、博士は満足そうにうなずく。
「よし、簡易ベッドの完成だ」
人ひとりがやっと横になれる幅しかないけれども、背もたれが柵の代わりになっていて、落ちる心配はない。研究所で徹夜になったときに、こうして仮眠をとるのだそうだ。
「さあ、先におやすみ」
「ありがとうございます」
眠れるだろうかと思いながら、椅子に横たわる。博士はマントを毛布代わりにかけてくれた。私は上着を脱いで丸め、枕代わりにする。お世辞にも寝心地がよいとは言えないものの、床に寝るのとは比較にならないほどマシだった。それにたとえ眠れなくても、目をつむっているだけでも休息はとれるものだ。私はヒュー博士のマントにくるまって、目を閉じる。
きっと眠れないだろうと思っていたのに、博士がときおり本のページをめくる音を子守歌にして、いつの間にか眠りに落ちていた。




